The Devil Wears PRADA
恐らくもう十分に言い尽くされた感まちがいナシの「プラダを着た悪魔」だけど、ようやく観た。でも実は映画を見る前に原作(と言っても日本語訳版だけど)を読んだので、やっぱりその原作を追いかけるというカタチで映画を見てしまう。でもこの映画は、原作ではすべて「言葉」だったものが、実際の映像として描かれるということで、ワンシーン、ワンシーン、すべてを興味津々で見ることができた。しかし、あの原作はかなり文体に問題がある。くどいところはいいけれど、ホントにあのつぶやきモードで最後まで読まされるとは思わず、読み終えるのに結構時間がかかった。話を映画に戻す。映画の出来としては、もうすべてがメリル・ストリープの肩にかかっている感じだ。メリル以外の全員が、誰も彼もテレビ俳優っぽく演技が薄い上に存在感がない。ミランダという役どころからすると、それは作り手側の画策かとも思わされるけれど、とにかく「女優」と「テレビタレント」の違いをまざまざと見る思いがした。また、この映画の中でミランダが、ことファッションに関して語っていることはすべてほぼ真実に近い。演技はもちろんだが、あの、ノーメイクの顔を曝すことが出来るところがメリルの女優たる所以だろう。とにかくメリルには惚れ惚れする。脚本も悪くない。原作にはないセリフが随所に効いている。たとえばおそらくはGAPかどこかのブルーのセーターを「それはブルーじゃない。ターコイズでもラピスでもなく、セルリアンよ。2002年にデラレンタがその色のソワレを発表し、サンローランもミリタリージャケットを出した。セルリアンはたちまち8人のデザイナーのコレクションに登場し、その後、次第に市場に出て、国中のデパートで販売。そして徐々にそこらの安っぽいカジュアル服の店にも出回り、それをあなたがセールで購入した。つまりそのブルーは巨大市場と無数の労働の象徴と言うワケ。」。そう。そのとーりじゃんよ。と思わせつつ、「皮肉なものよね。あなたがファッションとは無関係だと選んだセーターが、実際はそもそもここにいる私たちが選んだものだなんて」と、ミランダという女性がどういう存在かをピシっと押さえるわけだから、なるほどの脚本。原作ではくどくどとミランダの言いつけがどれほど馬鹿馬鹿しいものかを強調するように書かれていたが(そもそも冒頭からしてそれだった)、この脚本ではそこを、延々と続くミランダの出社風景でばっさりと綺麗にまとめてくれていて、うーん、この脚本、頑張ってるかも、と思わされる。あとはやっぱり出てくる服の良さかな。その、ミランダが出社して、その日その日に着ているコートとバッグをアンドレアのデスクの上に毎回どさっと置くのが続くシーンの、そのコートとバッグ、さらにその下にミランダが着ている服のラインナップは、かなり練られていてすごいと思うし、まぁ映画だから過剰にしてるとはいえ、とにかく見ていて飽きない。まぁお金に糸目をつけなければ毎日ああいう風に次々に違うスタイルで出社したいと女性なら誰もが思うことだろう。それはそうと、この映画の脚本ってブランドのそのスタイルが名前を耳にしただけでふわっと浮かぶ人と、それなに?っていう人ではまったくもって味わいが違うんだろうなとも思わされる。たとえば「うそ!これ、マーク・ジェイコブスよ!」っていうようなセリフのこと。こういう映画ってどこかサーフィン映画に近いのかもしんない。良い波に関する詳細を知る人間なら、世界の僻地のどのポイントで誰がどんなチューブライドを決めたか、つまり厚いとか掘れるとかシャローだという波質と、グッフィーなのかレギュラーなのかとか、とにかく深いボトムターンで作るスピードなのかとか、絶対にパチンと当てに行くような攻め系なのかとか、サーファーの個々のライディングスタイルを事前にわかってるからこそ、どこで誰が波を攻めるというクレジットを見ただけで「うぉー」ってなれる。ファッションの世界も同じかな。さて、物語は中盤からアンドレアがランウェイのスタイルに染まりながら、深遠なるファッションという名の虚妄世界に迷い込んでいく。そこには厳然とした秩序があり、あらゆるものを支配する権力の構図とそれを個々に誇示する明瞭なシステムが存在し、すべてが虚構に見えながらも圧倒的な影響力を発散し続けている世界。そしてその世界の内側にいれば当然・常識という出来事が、外側から見るとあまりにも常識外れの無理難題に思えることの連続…。さてさて、この原作者はある意味で一方的にこのファッションという虚構の世界を、キチガイじみた人間たちが構成するという視野で語り続けていくが、僕は、はたしてそうだろうかと思わざるを得ない。何事にも、とにかく必死に「いままでにないもの」を作ろうとしたとき、さらに、それを継続し続けようとするとき、そこにいる当事者は何も捨てずにそれを成し遂げられるだろうか。僕の答えは否である。ミランダはただただ自分の使命に忠実なだけである。そこに関わる人間たちも、その使命を理解した上で必死にもがく。ただ違うのは、ミランダはその使命だけに生きるのではなく、普通の愛情のある生活との両立を求めている。実際にはそれは不可能に近い。しかしその不可能をなんとかしたいと願うところに噴出する無理難題は、そんなにキチガイじみた理不尽なモノだろうか。確かに人との接し方というところでの問題もあるだろう。部下の使い方というマネジメント能力に関しては、どこか別のところでの議論があるのかもしれない。しかしミランダにとってはそんなことはどうでもよく、ただただ確信を持って自分を信じ、創造を続けることに自分の人生を乗せていこうとする。少なくとも彼女はヴィジョンを持って生きているではないか。さらに彼女の素晴らしいところは、自分がそういう使命を全うすることに賭けているなどと、誰に対してもイチイチ説明しないところにある。どうせそれは口に出しても時間の無駄。その次元にいる人間同士でなければ分かち合うことの出来ない歓びと苦悩。僕にはそれがわかる。そういう視点でこの映画を見ていくと、煮え切らない落ちこぼれの愚痴話という風に割り切って見る事も出来る。プロはプロとして「いま目の前を課題が出来るかどうか」だけに絞り込んで生きていく。プロはそれが当然なのだ。そのプロのまわりにいる人間は、まず先に自分をプロとは何なのかをちゃんと見定めなければならない。そこに甘えは一切ないのは言うまでもない。だけど、そんなことが出来るのは一握りの人間だけだ。だが、何かに賭けることが出来る人生と言うのは素晴らしいものだ。それがたとえ何かを捨て、痛みや哀しみの上にあったとしても。そういうわけで、映画には原作とは全然違うラストシーンがあるわけで、それはそれでこの映画の脚本を褒めなければならないし、虚構の世界の外側からの価値観に帰結させる力を認めたいと思う。だが、僕がこの映画で共感を覚えたのは圧倒的にアンドレアではなく、メリル・ストリープ演じるミランダの方であった。これまでに世に出でたクレイジーな天才よ永遠に。そして今後世に出る未来を変えていく天才に栄光を。
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