Sunday, December 07, 2008

The Polar Express

クリスマス直前っていうことか、CSで放映され見直したのでエントリーしておく。邦題は「ポーラー・エクスプレス」。ハリウッドで、アニメと言えばディズニーだったけど、昨今のディスニーは、もうGMとかFORDみたいに時代ズレが激しく、かなりの勢いでダメな作品しか作れなくなってしまったし、ピクサーの時代なんだなって思ってたら、ワーナーがアニメーションで、こんなに面白くて心を動かす映画を作れるなんてすごいじゃん、というのが見終わったときの正直な感想だった。原作はクリス・ヴァン・オールズバーグの『急行「北極号」』という絵本なのだが、絵本をここまで徹底したエンタティンメントに仕上げたこと自体、すごいクリエイティブだと思う。製作された2003年には、もっとフォトリアリスティックなレンダリングが可能な技術があったけれど、絵のタッチは、セル・アニメーションとフルレンダリングCGの中間のような、ちょっと前の描画タッチ。でも、それが微細なモーションキャプチャーで動くから全然違和感がないし、俳優が演じる実写よりも柔らかさがあってファンタジーとしては相応しいと思った(その逆で、アニメっぽい世界を実写に落として成功してるのは「チャーリーとチョコレート工場」だろう)。そもそも、そんな表層的な表現よりも、映画の構成と脚本、そして効果が素晴らしくて、物語にどんどん引き込まれていった。北極特急が動き出してからの構成も見事だ。次々に始まるスペクタクルそのものの演出も素晴らしいが、それを紡いでいく物語にまったく違和感が無い。さすがは「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のロバート・ゼメキス。ミュージカル要素、ジェットコースターのような汽車の疾走。トレーラーを引っ張る巨大トラックがドリフトするように列車を描いたり、危機一髪をかいくぐる冒険アクション要素、そしてそれを縦横無尽に描き出すカメラワーク(アニメの場合はなんて言うの?)まで、どれもこれもハリウッドの実写の映画の演出技術がすべて盛り込まれていて、この映画の絵コンテをなぞるだけで相当のものが出来てしまう(もちろん実写ではそごく予算がかかるけど)ような盛りだくさん。妖精が集まるシーンやサンタが登場するところまで、これは子供たちは目をキラキラさせて見ただろうなと思わされる。製作総指揮から、主役の子供に車掌やサンタなど主要な登場人物をトム・ハンクスが演じていて、彼の温かい人柄も伝わってくる。最後に鈴の音が聞こえた瞬間は、この映画を見た誰もが心を温かくしたことだろう。しかし今時の子供っていいよね。僕も子供の頃にこんな素晴らしい映画を見るという体験を持ちたかったなぁ。

Friday, December 05, 2008

GATTACA

あんなに感動したのに「ガタカ」を書くのを忘れてた。そう「ガタカ」である。見直したというわけではなく、偶然にCSのMovie Channelで放映されているのを、最後の15分ぐらい見ただけなのだが、10年前の感動が蘇えってきた。物語も深かったし、多くの感動の要因があったが、なによりも、最初のタイトルのところで綺麗なサックスブルーの光の中に何かがパラパラと落ちているな…と思うところから、最後にジェロームがオレンジ色の光に包まれて焼身自殺をするシーンまで、どの一瞬を切り取っても計算され尽くしたデザインに圧倒された記憶だ。この映画のデザインはヤン・ロールフス。ヤンはこの映画の後、「バッドカンパニー (2002)」や「アレキサンダー (2004)」(このアレキサンダーのプロダクションデザインは、どこを見ても完璧で、本当にすごかった。)、そして「大いなる陰謀 (2007)」のプロダクションデザインも手掛けているが、この「ガタカ」のデザインは最高だと思う。挫折したジェロームが車椅子で暮らす家のコンテンポラリーなデザイン。主人公のヴィンセントとユマ・サーマン演じるアイリーンがあの巨大な建物の前を歩くときの画角とフレーミングの美しさ。彼らの職場(何を処理しているのかわからないけど)の、整然としながらも、そこに座る人間たちの清潔感のある衣装は、みんな「自己抑制が出来る人間で秩序を重んじることが出来る側」という意味でスーツ姿だし、そもそも宇宙飛行士だろうがスタイリッシュなスーツでロケットに乗り込むっていうところから僕はシビれる。僕はアートディレクターという職業だから、どうしてもヤンの仕事を細かく見てしまうわけだが、この映画のコンセプトがあるからこそ、これだけ美しい作品が生まれたのは間違いない。監督と脚本はアンドリュー・ニコル。この「ガタカ」が最初の作品なワケだから、すごい才能だ(スピルバーグが、くだらない映画にしてしまったけど、トム・ハンクス主演の「ターミナル」の原作も彼が書いた)。さて、映画の物語について少し書こう。「そう遠くない未来」と最初に出る。現代はまだ色々な遺伝子の解析をしている時代だが、その解析が終わってしまえば、次は情報の収集となり、大量の情報収集の時代を経れば、それを分析していくことで統計値が出る。そして多種多様な自然による影響も、星座をもとにした「運命」というような概念も失せ、「遺伝的に完璧であること=優れた生物=生きるべき存在」という価値観に捉われる。そしてその価値観がすべてとなった先の社会が、どういったものになるかをこの映画は描き出している。しかし、「遺伝的に完璧であること=優れた生物=生きるべき存在」という方程式は、この映画が作られてからのこの10年で、すでに市民権を得ているではないか。遺伝子組み換えの食物はすでに存在するし流通までしている。遺伝子解析とクローン技術は、すでに僕たちの想像を超えたところで「未来に巨額の利益を出す」という仮説のもとに莫大な資金が注ぎこまれている。そういう意味では、この映画の言う「そう遠くない未来」に僕たちはすでに入っているのかもしれない。もう一点は、この映画の中で「遺伝的に能力が高い」と判断された層が、「不完全な遺伝子を持つ存在(僕もこっちですな)」を支配するという社会のあり方だ。遺伝子で「君はエリート」と位置づけられるほど極端ではないが、人種や、教育レベルや、貧富の差をそのまま「支配と従属」という図式にした差別は、すでに自分たちの社会には存在しているではないか。だが現在の差別は、まだ互いの努力で壊すことが出来る。しかし、遺伝子という軸で数値化され、確実性が高まったとき「遺伝子階級制」を否定出来るだけの生活を自分たちはしているだろうか。このまま地球の人口が増え続けつつ、温暖化の影響で食料が足りなくなったとき、人間は何を基準に淘汰を考えるだろうか…。そういうことも含めて僕はジュード・ロウ演じるジェロームが、実は一番心に残った。

Wednesday, December 03, 2008

CAPOTE

この映画が公開されると聞いたとき、真っ先に思い出したのは35年前に読んだ「冷血」という本が持つ、遅々として進まない語り口だった。ある田舎町で起こった一家惨殺事件を主題に、事件簿という要素だけでなく、惨殺された家族4人と事件を起こした犯人たちがどういう人間だったのかを報告する膨大な、そう、文字通り膨大な記録を淡々と読み続けていく中に、ここまで微細な情報がこのひとつの小説に必要なのかよ…という疑問符が数え切れないほど何度も何度も自分の中に浮かび上がって来たのを思い出した。でも「冷血」は確かに事件簿ではなく小説家が書いたものだった。この小説は「ノンフィクション・ノヴェル」とカテゴライズされたらしいが、当時の僕はまだ15歳。半分は苦痛、半分は乗りかかった船の帰着まで知りたいの両面を、揺れに揺れながら読み終えた記憶がある(結構長いんだよね)。そのせいか、僕にとってのカポーティは「ティファニーで朝食を」の原作者というイメージはまったく存在しない。彼は「冷血」を書いた人でしかない、と自分に位置づけなければならないほど「冷血」は強烈に自分の中に残っている。そういう自分側の事情もあるからだろうか、今もその理由は明快ではないのだが、この「カポーティ」という映画が公開されると聞いて、すぐに映画館に行くことが出来なかった。何をしたかと言えば、アマゾンで「冷血」を買って読み直したのだが、再度読み終えるのにも随分と時間がかかった。それなりに大人になったのだから、あの子供の頃とは違ってスイスイ読めると思ったのが間違いだったようで、15歳の頃の僕を悩ませた一行一節の濃密さは変わる事なく、またそこそこ経験をつんできた僕をして、余計に詳細なディティールが喚起されるという結果となり、これだけのものを活字にして詰め込むというのは、いったい何なんだろう、と思わざるを得なかった。さて、映画はちょうどその「冷血」を書く期間のカポーティを描く。この映画の中で紡がれる出来事がすべて真実なのかどうかはわからないが、事実だ、という前提でこの映画を見るしかない。しかし、そういう視点に立つと、カポーティが目指した「ノンフィクション・ノヴェル」というものが孕む矛盾が徐々に見えてくるように映画は構成されている。自分の小説のネタ集めのために、あらゆる力を動員し、札束をばら撒き、犯人の背景を探るために延命措置として控訴審までお膳立てし、犯人に近づき、嘘を語って心を開かせ、多くの告白をさせ、自分は君の友達だと言い続けるわけだから、彼は一流の詐欺師でもある。そもそも書く側と書かれる側の間には大きな開きがある。そこがバレないように事件当事者たちを騙しながら自分の利益のために立ち回るわけだが、善悪の二面性を自分で気づき、その深い闇に落ちて行ったカポーティが描かれる。映像は静かだ。カンザスは風景を印象的に。NYCのスノッブなシーンも控えめに。刑務所もシンプルで淡々と描く。だけど正直言うと、定番な撮り方ばっかりで空気感が弱く、絵的にもシーモアの演じる暑苦しいコポーティの顔が常に画面に出ているという印象だ。まぁ、シーモアはそれに耐えるだけの演技はしているが、もう少し照明と撮影で色々な感情表現をしてもいいんじゃないかとは思った(控訴が進んで死刑執行がいつになるかわからないって悩みながらパーティに行くがバーで一人で飲む場面の照明とかは逆にあざとくてうざい)。一方、衣装や美術は、かなり丁寧にアメリカの各所のスタイルを描こうとしている。カンザスはカンザスっぽく、NYCはNYCのライフスタイルっていう描き方だが、丁寧さはいいんだけれど、全体に清潔すぎるんだな。それが1960年頃の少し上質の生活あたりを営んでいることがわかる演出だって言われたらそれまでだけど…。でもこの映画、なんかそういう清潔な印象を強調することで、観客を惨殺事件そのものに眼を向けさせず、傍観者から当事者になってしまったカポーティに意識が向くように作られたのかもしれない。そう読み取れば、正しく深く明瞭なアートディレクションが存在しているってことになる。

Monday, December 01, 2008

Children of Men

邦題は「トゥモロー・ワールド」。物語は西暦2027年の英国を舞台にした近未来SF。見終わったあと、これはすごい映画だ…としばらく唖然とした。監督はアルフォンソ・キュアロン。いま出てきたカフェが、いきなりどっかーんと爆破されるっていう衝撃的な導入部から、他のことを考えさせない展開でぐいぐい引っ張り続け、テーマを描ききったラストは感動的だ。正直、じーんと来た。エンドクレジットに重なる子供たちの嬌声に胸が熱くなった。はい。ぶっちゃけやられちゃいました。前半で描かれる主人公テオを取り巻く温かなモノを持った人々が描かれる。そこに別れた妻がテロの親玉として登場し、物語が展開していくわけだけど、そういう主要な人々が、ホント見事に順番に殺されたりしていく。でもその死を全然引きずらない潔い物語の進めかたがすごく心に残った。というかその死なせ方が鮮やかなんだよね。ジュリアン・ムーアも一発で死ぬけど、テオがそれを悲しむシーンを一瞬だけ濃密に描いて、そこで綺麗に捨て切りながら話を進めていく。関わる革命戦線の人間たちも、どんどん物語から身を引いていく。最後には、いままで描いてきた激烈な世界がすべて幻だったかのようなトーンにすっぱり切り替え、その上で主人公のテオまでを完璧な逝きかたで消し、ただひとつの命の存在を輝かせようとする構成と演出。この、捨て切りの姿勢というか、捨てて捨てて捨て続けながら前進させていく感じが他には無いタッチになって心に残る感じがする。表現面では、とにかく映像がすごい。トーンは彩度高めでコントラストも強め、少しカリカリ感ありなんだけど、物語と相まった美術と効果がすごいので圧倒されっぱなし。カット割りもすごいし、とにかく画面から眼が離せない。最後の脱出の前に収容所の中で蜂起が起こり、そこからボートに辿り着くまでの間の銃撃戦あたりの濃密さにはかなり驚いた。なぜなら映像がずっと途切れないからだ。テオの横でずっと彼と彼の周りを手持ちカメラで撮影しているような長回しなんだけど、場面ごとに撮影して編集で繋いだという感じが一切しないのだ。濃密な効果が重なるけれど現実感以上の余計な効果という感じがまったくないのだ。これはすごいことだと思う。CGも現在の20年後ぐらいというところで調和させることを前提に作られていて違和感が少ない。机の上のコンピュータのモニター(これは薄いガラスのようなデザインで今すぐにでも製品化してほしいぐらいかっこいい)も「ちょっとだけ」先進的。クルマは相変わらず今のままの感じだけどカーナビやメーター類がちょっと先進的、という具合だ。途中でテオが通行証を作ってくれるように親戚を訪ねるところなんかも、実際には世界中にある美術品が軒並み並んでたりして面白い。テートに渡る橋が厳重なゲートになってて、中に入るとダビデの足がちょっと欠けてたり、ゲルニカのある部屋での食事とかとか。国家が崩壊するという時、美術品なんかは全部どうでもよくなるという側面を描いているってことだろうか。ある意味で、飢えた時に美術品を抱えていても腹は満たないしそれは正しい。だけど芸術には、飢えた時にこそ希望を湧かせる力を持っている。ただそれはいつからかコンセプト合戦というか概念提示応酬に逃げ込み、実体を伴わなくなった現代美術には存在しない。ダビデ、ゲルニカ、そして、ヒプノシスのピンクの豚。この羅列を提示されてしまうと、そこを深読みしないわけにはいかない。また、この映画の美術には復古調も含めた写真がおびただしい数登場する。それを見て、人々の記憶というものは、紙に定着しているということを強烈に示された気がした。懐かしい思い出は写真に封じ込められ、それを眺めることで心の中に色々なものを呼び起こし、音や感触や匂いまでも誘引する。そうした19世紀~20世紀の手法が、この映画の中の美術にこれでもかというぐらいに提示される。それを見ていると静止した写真には埋め込まれた情報量がものすごく多いことに気づく。見知らぬ家族の写真であっても、よく観察すると、表情に漂うその時の気分や、着ている服から読み取れる暮らしぶりや、化粧や髪型からみえてくる当時の風俗や、背景に写る情景の詳細なディティールが折り重なってその場の空気が、自分の脳内に溢れるように湧きあがってくる。だが、不思議と動画はそういう濃密なものを中々伝達しない。じっと見て、脳内で再構成するという作業を許さずに主題を描くのが動画だ。どちらがリアリティを生むかの議論は不毛で、その特性を十分に理解した上で、静止画と動画の使い分けをすればいい。「モーターサイクル・ダイアリーズ」に挿入されたペルーの人々の数々のモノクロ写真の手法に接した時にアタマを過ぎったものと同じものが、この映画にも存在する。あと、僕はクライヴ・オーウェンが好きだ。今や伝説にさえなった感じの「BMW FILMS」の主役(主役と言ってもこの映画のシリーズには)を演じたころまで日本ではほとんど知られていなかったんじゃないだろうか。すごく不思議に思ったので彼をIMDbで調べてみると、元々は舞台のひとだったようで、まさに「BMW FILMS」から突如としてスクリーンに登場した人だということがわかる。その後の「ボーン・アイデンテティ」で教授という名の殺し屋、そして「キングアーサー」で主役。さらに「インサイドマン(2010に続編が登場するらしい)」、「エリザベス:ゴールデン・エイジ」と、ものすごい活躍だが、僕はやっぱり短編シリーズの「BMW FILMS」で多種多様な状況下でありながら寡黙なドライバーを演じた彼に漂う他には無い存在感が最も記憶に刻まれている。彼もまた見続けて行きたい俳優のひとりだ。

Tuesday, November 25, 2008

Indiana Jones and the Kingdom of the Crystal Skull

邦題は「インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国」。インディシリーズの19年ぶりの新作。っていうか19年も経ってたんだ!ハリソン・フォードっていま何歳なんだろう。この年齢で冒険モノの主人公というのは相当無理があるんだけど、物語はちゃんとそういう役どころになっている。映画の構成、脚本、演出、照明、撮影、衣装、美術、音楽、効果…、どれを取っても前の三部作を踏襲していて、ここまで手法の一貫性を見せ付けられると、「インディジョーンズ的」というひとつの分野が出来たような感じがするが、それも含めて第一級の活劇を見た満足感を得た。中でも驚いたのは活劇となったときインディ自体の存在感が過去の映画と変わらないことだ。それは衣装やメイクアップの力が大きいと想像する。さらにこの映画シリーズの画面のタッチが一貫して独特なものを持っているような気がした。それは少し明るめで彩度もあり質感が明瞭であること。また色彩設計も一貫している。舞台が別の場所に変わるときのノスタルジックなグラフィックなども一貫している。しかしなんと言っても最もすごいのはスピルバーグだろう。おそらくこの映画はプレプロダクションの時点でスピルバーグ世界を煮詰めに煮詰めた状態になったはずだ。それはつまり、そういう「インディジョーンズ的に一貫して持つべきもの」が完璧に整理されているということの他ならない。シリーズでモノを作る時、そうしたマネジメントがいかに重要かを教えてくれる。これは「継続性を保ちながら新たな興奮を起こす=ブランド」という視点で、自分が作るコミュニケーションを考える時にも忘れてはいけない。そしてたぶん、これは「チーム」の力だと思われる。ひとつのコンセプト(映画の場合はキャラクターやトーン)を理解しているチームが無ければ、こんなに見事な一貫性は紡げない。物語は、そうした「お約束」を十二分に盛り込みながら先へ先へと引っ張っていく。「謎を解く→冒険→辿り着く→謎を解く→奪い合い→辿り着く」を繰り返しながら、その合間合間に主人公を取り巻く人間ドラマを挟み込み、最後に「こういうことでした」と終わるという冒険活劇のセオリーもお約束どおり。同時期に同じような物語を持って製作された「ナショナル・トレジャー/リンカーン暗殺者の日記」も見て、かなりガッカリしたが、なぜにこれほど差が出るのだろうか。主人公たちのパーソナリティ表現の深さ。謎解きにどの程度ドラマを与えるかの知性。邪魔したり横取りしたりしようとする存在の設定の明瞭さ。いずれもルーカスとスピルバーグの勝ちだ。ネバダでの原爆実験(ちなみに本物の原爆実験の映像はここあたり。また1950年代当時のアメリカの様式などがよくわかるのはこれ。ダミーの家とかも映っていて映画もこれらの映像を参照したと思われる)に立ち会って冷蔵庫の中に入って吹き飛ばされて助かったり、見つけたスカルがエイリアンのまんまだったり、謎の存在に辿り着くのに「三度落ちる」という滝(イグアスの滝はほんとすごいわ)からの落下で誰も死なないし怪我しなかったり、リーゼント猿に導かれてターザンみたいに蔓で移動したりとか、「ありえなーい度合い」もナショナル・トレジャーと変わらないのに、なぜあっちはウザくて、こっちはOKなのか…。滝壺から奥に入るとエルドラドが存在するってのは、もうまったく同じ伝説じゃないか。そこで実際の黄金宮殿を出すのか、異次元人【謎】で話を押し切るのか、どっちも「ありえねー」ですよ。だけど、あっちよりこっちの方がスッキリ、はなぜ?。自分でもよくわからないけれど、そこに才能の違いが存在するのは確かだ。これは個人的にとても興味深い。もっと細かく分析してちゃんと考えようと思う。美術は、大学の教室のシーンに興味が湧いた。前はもっと重厚な印象があった。今回は照明も明るく色々なモノが見えてしまうので、逆にどこまで美術を入れれば大学の教室としてリアリティが保てるセットになるかっていうあたりが学べた(廊下にあるトロフィーの棚とかもそのひとつ)。衣装は活劇中のインディはワンパターン(とはいえ柔らかいのにカタチを崩さない帽子といい、適度な傷みがあるけれど上質さを失わない革ジャンといい、上質なモノを揃えているのは見ていてもよくわかる。)だから、それ以外のシーンの衣装に目が行った。興味深かったのはラストの結婚式で皆が着ている衣装の色調。インディ自身も白ではなく、また参列者もすべてに明るいけれど、少しくすんだ衣装を着せている。ハッピーエンドな演出と時代観の表現のミックスが興味深かった。効果で面白かったのは強力な磁力を持っているという表現。それが運ばれると、天井の照明が動いたり、床にある金属類がずるずる動いたり。磁力を視覚化するすごいアイデアだと思う。失われたアークの箱がちらっと見えたりするのもファンサービスかな。CGもVFXも随所に使われているが、最近のハリウッド映画の「これでもかVFX攻め」は、この映画ではラストの宮殿あたりからピラミッドが吹っ飛ぶところあたりまで「攻め」で使われないところも、クラシックさを醸し出す映像のトーンと相まって高感度高し。あと俳優だけどケイト・ブランシェットってすごいね。僕は事前にこの映画に出てるって全然知らなかったからか、ソ連の敵役の女が最初は全然ケイトだって思わなかった。あ、ケイトだって思ったのは随分あと。眼から火炎をぶぉーと出して燃え尽きちゃうのは悲しい最後だけれど、「もう見たくない!」って叫ぶシーンは、なんだかケイトらしい感じがして存在感があった。エリザベスとボブディランを演じ分ける人だから当然かもしれないけれど、自分らしさの前に役があって、それを演じ切るプロだということがよくわかった。きっと誠実な人なんだと思う。

Friday, November 21, 2008

Lions for Lambs

おおお、この映画、いきなり主要な主人公たちの興味の中心をスコスコっと描くところから始まる。映画のタイトルや、出演は誰とか監督は誰とかいうのも軽くすっ飛ばしながら折り込むだけ。これって、のっけからカツっと掴んでチャンネル変えさせないテレビドラマの演出手法だけど、映画でこういうサビ頭な感じな手法ってあんまり無かったような気がする(曖昧だけど)。監督はロバート・レッドフォード。って、監督久しぶりじゃないの?確か「モーターサイクル・ダイアリーズ」は製作だった気がするけど、前に監督したのなんがっけ?すぐ思い出すのはブラピが演じた「リバー・ランズ・スルー・イット」だけど(あれれ、すっごくいい映画だったのに、ここにエントリーしてないな…)、ダメだ。わかんない。また調べてみよう。邦題は「大いなる陰謀」。えええ?原題は「Lions for Lambs」で、直訳すると「子羊たちのためのライオン」だぜ。すげー違う印象の題名だけど、まぁこれだけのキャストの映画だし、日本じゃそんな感じが正しいものなんだろう。ちょっとこの映画とは話がずれるが、邦題しか覚えてない映画って多いわけで、海外に行ってバーとかで話していて、「あの映画のあのシ-ン」って言うときに、その映画の名前そのものが通じないというか、キャストの名前とか主題とかを言って、相手が「おー、それは何々だね」とか言われても「その映画の題名ってそうなんだっけ?ううう…わかんねー」みたいになる事があって、かなり恥ずかしい経験をしてきてる。っていうか、そもそも映画を字幕抜きでネイティブに鑑賞できるだけの英語力がないってのが問題ってことは重々承知してるケド、ずっと東京に住み続けてる限りは、それは無理だわん(ネイティブのステディでも出来れば別かもしんないケドね)。話を映画に戻すが、内容は「大いなる陰謀」というものではなく、まさに「子羊たちのためのライオン」だった。今のアメリカ映画は、VFXだらけのアクションやファンタジー映画と、こういうテーマに始終する社会派の作品に分かれるということか。これはアメリカの戦没者たちへのオマージュだ。陰謀はある。でも物語は子羊側に立ったところからの気づきを促す。映画が始まったところで数種類の書類に記されたデータが提示されるが、映画が終わってみると、これがちゃんと帰着している。データで世の中を見る人(いち早く見れるひと)が権力を持ち、国益という名の名目の下に物事を決めているが、それは子羊たちにとってどうなのか…。子羊たちは、黙々と「現場」にいて、悶えながらも、ささやかな小さな夢を成そうとし続ける…。脚本は製作も兼ねてのマシュー・カーナハン。この作品とほぼ同時期に「キングダム」も作ってるが、どちらも深さがあって記憶に刻まれる感じがする。メリルが素晴らしい。彼女は女優ぢゃなくて大女優だな。それにしてもアメリカの抱える闇は暗い。「Bobby」もそうだがアメリカは出口が見つからないままに悶え続ける怪物だ。一方で中国とロシアがアメリカよりも巨大な怪物になろうとしている。日本を含めた先進国は、その巨大化への成長に為すすべも無い。なぜなら自分たちの維持に彼らの成長が必要だからだ。世界中が悶えている。

Wednesday, November 19, 2008

WALL•E vignett

PIXERの新作「WALL•E」なんだけど、まだ公開されてないから当然見てない。まずはAppleのトレイラページで、HD画質のフィルムクリップを見てみたが、びっくりするぐらいに良く出来てるのがわかる。これぞフォトリアリスティーック!良く出来てるわー。ただ、「主人公のWALL-E(ウォーリー)は、人類が地球を去った後 700年間、ただもくもくとゴミを圧縮して積み上げて塔を建て続けているロボット」っていう設定はいいわな。だけど、ありえない描画が多いです。700年もの時間が経つあいだに、大地はほとんど植物に覆われているはず。ゴミは残るだろうけど、布で出来てるブラジャーは原型をとどめているはずないし、伸縮を保ったままのゴムもありえない。消火器だってパッキンが収縮して噴射は出来ないし、そもそもウォーリーは、何を動力にして動いてんのとか、いやいや、その筐体にその目とキャタピラ入らないってば、とかとか。うーん、あかんなー。ついそういうことに目が行ってしまう。この映画は、そういう目で見ちゃいけないんだ。これは子供の心で見るんだよ!って言われそうだ。あと、予告編の2番目のやつの前半にあるピクサーのタイトルロゴにウォーリーが絡むバージョンもアイデア満載で素晴らしい。掃除機と絡むビネットも楽しい。ピクサーのタイトルロゴの「R」を倒して「やべー、これでどう?」って自分で演じる感じの演出や、ビネットの最後に自分のキャタピラの足跡を気にするっていう行為は、そのままウォーリーの持ってるパーソナリティというか心情というか、そういう人格表現の手法が素晴らしいと思った。こういう演出ってやっぱりセンスだな。

Saturday, November 15, 2008

BOBBY

戦う相手の力(信念と言うべきか)を読み誤ったCIAと軍部からの情報を元に、ジョンソン大統領とマクナマラが誤った判断を繰り返し、アメリカはベトナム戦争にのめり込んで失敗した、というのは歴史が語っている。ブッシュ大統領も親子で同じ過ちを犯した。前者は共産主義、イコール中国とソビエトという明瞭な国家としての敵であったが、後者は中東における石油確保、イコール国家安全保証が目的であり、国家としての敵を後づけしたカタチで強引に国連を巻き込み、多国籍軍を動かすという仕組みを作ったかに見えた。しかし、ブッシュは「力」で相手を消そうとする「戦争」というものに「正義」を掲げてみても、実際の「痛み」を伴った人々の声が、掲げられた崇高な正義に疑問符をつけ、理想という名の外殻はメリメリと剥がれ落ち、いずれ破綻する…、ということを学んでいなかった。ネットワークが発達したこの情報化社会の中での常識をブッシュは自分の判断に生かせなかった。アメリカという大国を大統領として司るのは容易なことではない。国家統治の基本は貧困や飢えや差別をなくし国民の生活を豊かにすることであろう。しかしそれを行うための方法論が他国からの搾取であっていいという価値観は、アメリカが今後も最も悶え苦しむ根本的な悩みだろう。ベトコンがアメリカに勝ったのは国力や戦力ではなく、一方的に悪者にした相手になど絶対に負けないという誇りと信念だった。日本が第二次大戦で負けたのは、日本軍部がそういう信念を後づけしただけで、実際はブッシュと同じように自国に無い資源確保のため、他国から搾取することを目的として国民を戦わせたからである。戦争に負けた日本人は、その後、歴史を十分に検証し、搾取に走ると必ず破滅するという鉄則を学んでいる。アメリカはそれを知りながらも圧倒的な力こそが解決の道筋として今日まで来たが、この先、どう変わることが出来るのだろうか。「ボビー」という映画を見てこんなポリティカルなことを書いてしまったのは、時代の違いはあれど、当時と今が近いと感じるべきだ、というメッセージを映画から受け取ったのかもしれない。当時はベトナム戦争、人種差別問題、麻薬など、アメリカの価値観が大きく揺さぶられ、今までどおりに続けたい側と、もう変わらざるを得ないとした側との間でアメリカは悶えまくったわけだ。そしていまブッシュは完全否定され、保守派のマケインを下し、革新派のバラク・オバマが次期大統領となった。しかし得票実数は拮抗し、53%対46%と、国をほぼ二分していて、クリントン後のブッシュとアル・ゴアの選挙に近い。いや、ボビーが暗殺されたあとの大統領は共和党のニクソンになったが、ボビー亡き後の民主党候補のヒューバート・ハンフリーとの得票差はわずかに1%。まさにアメリカの価値観は二分していたことになる。現在のアメリカも、こうした状況に近い。そういう現在、ボビー・ケネディが暗殺されたときに、どういう空気がアメリカに漂っていたのかを知ることが出来たのは、偶然ながらも新たにアタマの中を整理することに繋がった。映画は、そういうアメリカの価値観が揺れ動いている真っ只中、非常に幅広い種類の人間たちの様子を描く。舞台はホテル。多くの人々が集まり、時間を共有する場所として「ホテル」という設定は最も望ましい。そもそもホテルには、そういった辿り着く場所=ディスティネーションという概念が存在する。空港や駅にも多くの人々のドラマがあるが、そこは通過点でありディスティネーションではない(それを逆手に取ったトム・ハンクスの「ターミナル」は脚本として秀逸だった)。しかもこれは実際に起こった出来事であり、1968年6月5日のロサンゼルスのアンバサダーホテルでロバート・ケネディが撃たれたときに、その銃弾に巻き込まれた人たちの物語。しかしまぁ、よくぞこんだけ個性的な俳優を集めたもんだ。どの俳優も役柄にぴったりのキャスティングではある。一覧は東宝のサイトに詳しい。ただ映画で描かれる「そこにいた人々の抱えたドラマ」は暗殺事件とは直接的には関係がない。人々の結びつきは「そこにいた」だけ、という脚本だが少し物足りない。へザー・グラハムは相変わらず美しい。ローレンス・フィッシュバーンも存在感がある。アンソニー・ホプキンス、マーチン・シーンあたりが映画として重要なセリフを任されていて納得。しかし誰よりもボビーの言葉が重い。ちょっと長いが映画の最後に流れるボビーのスピーチを記録しておく。アンバサダーホテルで死ぬ2ヶ月前、1968年4月のスピーチだ。40年前のメッセージだが偉大な演説と思う。学習を怠り過ちを続けている今だからこそ、深く深く自分の心に響く。
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今日は政治を語ることはしません。この機会に、ぜひ伝えたいことを簡単にお話します。アメリカでの心ない暴力について。暴力は国の名誉を汚し、人々の命を奪います。それは人種に関係ありません。暴力の犠牲者は黒人、白人、富人、貧人、若者、老人、有名、無名。何よりもまず、彼らは人間だということ。誰かに愛され必要とされた人間なのです。誰であろうと、どこで暮らそうと、どんな職業であろうと、犠牲者となりえます。無分別な残虐行為に苦しむのです。それなのに今もなお、暴力は私たちのこの国で続いています。なぜでしょう?暴力は何を成し遂げたでしょう?何を創り出したでしょう?アメリカ人の命が、別のアメリカ人により、不必要に奪われる。それが法の名の下であろうと、法に背くことであろうと、一人、または集団によって、冷酷に計画して、または激情にかられて、暴力的攻撃によって、または応酬によって、一人の人間が苦労して自分や子供のために織り上げた生活や人生を、暴力で引き裂く。暴力は、すなわち国家の品位を貶めることです。それなのに私たちは暴力の増徴を容認する。暴力は、私たちの人間性や、文明社会を無視しているのに、私たちは、力を誇る者や、力を行使する者を、安易に賛美する。自分の人生を築くためなら、他者の夢さえ打ち砕く者を、私たちは、あまりにも安易に許してしまう。でも、これだけは確かです。暴力は暴力を生み、抑圧は報復を生みます。社会全体を、浄化することによってしか、私たちの心から病巣を取り除けません。あなたが誰かに、人を憎み、恐れろと教えたり、その肌の色や、信仰や、考え方や、行動によって劣っていると教えたり、あなたと異なる者が、あなたの自由を侵害し、仕事を奪い、家族を脅かすと教えれば、あなたも、また他者に対して、同胞ではなく、敵として映るのです。協調ではなく、力によって征服し、従属させ、支配すべき相手として、やがて私たちは、同胞を、よそ者として見るようになる。同じ街にいながら共同体を分かち合わぬ者、同じ場所に暮らしながら同じ目標を持たぬ者として。共通するものは恐れと、お互いから遠ざかりたいという願望。考え方の違いを、武力で解決しようという衝動だけ。地上での私たちの人生は、あまりに短く、成すべき仕事は、あまりに多いのです。これ以上、暴力を私たちの国ではびこらせないために。暴力は、政策や決議では追放できません。私たちが一瞬でも、思い出すことが大切なのです。共にクラス人々は、皆、同胞であることを。彼らも私たちと同じように、短い人生を生き、与えられた命を、私たちと同じように最後まで生き抜きたいと願っているのです。目的を持ち、幸せに、満ち足りた達成感のある人生を送ろうと。共通の運命生きる絆は必ずや、共通の目的を持つ絆は必ずや、私たちに何かを教えてくれるはずです。必ずや私たちは学ぶでしょう。まわりの人々を仲間として見るようになるはずです。そして努力し始めるでしょう。お互いへの敵意をなくし、お互いの心の中で、再び同胞となるために。」(ロバート・F・ケネディ)」全文は以下から読める。"Robert F. Kennedy, Cleveland City Club,April 5, 1968"
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現在のアンバサダーホテルについてはこのサイトが詳しい。あと、取り壊される前の建物の航空写真が見れる(動かすと取り壊された状態になる)。また、解体が始まった頃の内部の様子や、40年代の頃など。この映画の撮影時はちょうど取り壊し中だったらしく、本物の場所にセットを組んだシーンもあるらしい。

Wednesday, November 12, 2008

National Treasure: Book of Secrets

この映画の内容について、ここがこうだったとかを書く気になれない…。陳腐でくだらない映画と、そうではないエンタテイメントの境目はシビアなものだと思われる。特にこの映画のような冒険モノっていうカテゴリーには駄作が多い。そのほとんどが次のようなパターンを持っている。まず帰着しない枝葉を次々に広げる身勝手な脚本が挙げられる。そして、その脚本の支離滅裂さを、主人公に超人的な身体能力を持たせたり、脇役にありえない技術を駆使して次々に暗号を解いたり、難攻不落な場所のセキュリティを突破させたりして帰着させようとする。もちろん主人公はひたむきな善者で、それに対して凶悪な悪役を存在させる。悪役との関わり方に人間性などは一切無視。その凶悪さを支える資金や組織面も無視し、ド派手なアクションを唐突に挟み込むことで悪の存在を強調しようとする場合が多い。さらに「ここがみどころ」というつもりで入れ込まれたと思われるそうしたアクションシーンは、建物の大規模な爆発,ヘリコプターの墜落、危険が次々に起こるが最後には振り切れるカーチェイスなど、すでに形骸化したエンタテイメント表現を照れもなく持ち込む。さらに「助かったー。うまく行って良かったー」ということだけしか残らないエンディングだろう。この「ナショナル・トレジャー/リンカーン暗殺者の日記」って作品は、正直言って上に掲げた「くだらない映画」の要素だらけである。ここに記録として残していないが、第一作の「ナショナル・トレジャー」も見た。だが第一作からは全然そういうことを思わなかった。しかし、続編となると、前作以下という評価や興行収益的な失敗が怖いからなのか「あれも加えて、これも入れるべき」ということを処理できず、結果的に「支離滅裂作品」に成り下がってしまった典型的な作品のような気がする。ヒットすれば巨額の利益が見込める映画というビジネスモデル。それもハリウッドという場所においての損益分岐点がどのぐらいの金額なのかわかないが、上に挙げたようなパターンを踏襲している企画や脚本に、投資しないかと呼びかけるプロデューサの頭の中が、僕にはよくわからない。しかし、これを作ったディズニーっていう視点から言えば、ニューヨーク、パリ、ロンドン、ワシントンなど、世界中のロケ敢行という企画も、これだけの俳優を揃えたことも、「とにかく盛りだくさんで楽しめるファミリー向けエンタテイメント」ということで、彼ら的には満点なのかもしれない。そう考えれば納得が行く部分が見えてくる。ハリソン・フォードのレイダースのような歴史モノに現代劇の冒険要素を組み合わせたら面白くなるんじゃないかという企画に、ミッション・インポッシブルとかボーン・アイデンテティのような映画の持つ要素をそのまま移植しちゃうセンスが、ディスニーの世界ってことになるのだろう。ブラッカイマーが絡んでいるからこそと思える出来のところも多いが、なんかそういうものも消してしまうディズニーっぽさってモノの根底にあるファンタジー的信念ってなんなんだろう…。

Saturday, November 08, 2008

Three Kings

ジョージ・クルーニー主演の「スリーキングス」を、CSのムービープラスHDで見た。DVDではなくCSで見たのでキャプチャー画面はオフィシャルサイトから拝借したので、でっかいワーナーのマーク入りになっている。んで、この映画、1999年のものだから、ほぼ10年前の作品なわけだけど、正直めちゃくちゃ面白くてびっくりした。なんで今まで見なかったんだろう。この映画は湾岸戦争でバグダッドを陥落させた直後に、こそっとフセインがクウェートから搾取して隠してた金塊を奪取しちゃおうぜっていう「掴み」のところでプロモーションされていたので、ひょっとするとコメディ扱いだったのかもしれない。けれど中身はそんなに軽いものでもなく、戦場を舞台にするものの人間ドラマとしても立派に通用する内容を持っていて驚いた。監督を務めたデヴィッド・ラッセルが脚本も手掛けているとのこと。この人の作品は要注意だ。さらに構成と編集が秀逸だ。とにかく最初から最後までのテンポがいい。次々に物語が展開するが、政治的にシリアスな内容もこれでもかと含んであるし、現実の湾岸戦争のCNNなどの報道に慣れた自分には、アメリカと多国籍軍がイラクの人々にどういうことを与えていたのかの点について認識を新たにした。しかし、そういうシリアスな局面に真顔で「なんなんだよ、あのマイケル・ジャクソンの顔は?」っていうセリフを持ってくる脚本のセンスはすごい。そうした構成と、個々のチャプターにおけるテーマがいちいち素晴らしいので、まったく飽きることもない。映像の質も高いし、大道具も美術も、無駄なものは全然なく、かつ手抜きが無いのも見ていて気持ちいい。ビーチボーイズとか、シカゴとか、ところどころに挟まれるアメリカを思い出させるサウンドトラックの数々と、それに合わせたゆったりとした映像のインサートなど、とにかく編集の力でここまで映画って面白く出来るのかと、深く学ばされた映画だった(なんかベタ褒めだよなー)。ジョージも99年にこの映画に出演して、2002年に「コンフェッション」を初めて監督するわけだけど、このデヴィッド・ラッセルの影響をかなり受けたんじゃないだろうか。その後のオーシャンズのシリーズにも通じるエンタテイメントの方向性がこの映画からは読み取れる。

Monday, November 03, 2008

The assassination of Jesse James

邦題は「ジェシー・ジェームズの暗殺」。原題は「The Assassination of Jesse James by The Coward Robert Ford」と長い。なんで今頃になって拳銃連発とか銀行強盗とか、悪党が跋扈してるアメリカ西部開拓時代の映画なんだ、って感じだが、ブラッド・ピットが演じてるってことだけではなく、製作も手掛けているということは、それなりに心を打つ物語があるのだろうということで見てみた。物語はロブの見た世界で進んでいく。というか主役はロブだ。だけどこの映画、「ジェシー・ジェームズって言えばアメリカでは誰もが知ってる。さらにそれを殺した男も」っていうのを前提にして作られていて、どうにも入っていけなかった。こいつは愛された悪党なんだ…。日本だったら誰なんだろう…って思いながら映画を見る。でも何も思いつかない。ほとんどストーカーみたいなボブ・フォードの情けない人生をなぞる。うーん、そんな感じがどこかしんどい。歌っている曲をあまり知らずに足を踏み込んでしまった歌手のコンサートみたいな気分とも言えるし、そもそもイデオロギーや歴史が違うのに、そこを主軸に描かれた映画を見てしまったときの「イキそうでイケない」感じっていうか…楽しみたいのに楽しめなかったのが残念だった。ただ、この映画が持つ力は十分に感じた。また映像は素晴らしくきれいで驚いた。アンドリュー・ワイエスの絵の世界を映像にするとこういうタッチにすればいいのか、という驚きもあった。撮影も秀逸で構図、連続させる画面構成、ボケ足の使い方なども計算し尽されたものだった。さらに微細なところを画面の中でキチンと描いているからか、遠景に引いたときにも、そこにある空気の湿度のようなものまでを感じることができた。人間は自分の経験を引き出しながら眼で見たものを受け止める。そこに深みが生まれ、感動も埋め込める。それを忘れずに、丁寧に絵を紡いで行くという姿勢を学びたい。

Wednesday, October 22, 2008

BABEL

21グラム」のアレハンドロ・イニャリトゥが監督した「バベル」。まったく関係ない複数の物語と思えるものが織り合いながらひとつのテーマを描いていく。正直、僕はこの手法はあんまり好きじゃないんだが、「マグノリア」を見て、脚本が深くて考えを改めた。なぜ好きじゃないかというと、状況が掴めないままに伏線が続くのに我慢強くないのかもしれない。さてこの映画、極端に言うとライフルという武器(この場合は凶器と言うべきか)が主人公だ。それを軸に、ちょっと考えられないような広がりを持って物語が紡がれていく。だけど東京にいる安次郎とモロッコの羊飼いとが繋がる設定にはちょっと無理を感じた。いま東京で、を考えるとリアリティがない。このあたりは「21グラム」でも脚本を手掛けたギジェルモ・アリアガらしさだろうか。メキシコの結婚式に連れて行かれてる二人の子供が、この物語の何を意味するのかもずっと分からない。しかし、それが伏線かもしれないと思うから物語から目を離せないのだが、ずっとわからない。帰着しないで裏切られた映画のほうが多いからか、こういう一杯枝葉を広げまくられて、ずーっとわかんないままに、後半まで引っ張るっていうやり方が好きじゃないんだな。その結婚式のシーンもやけーに長い。だけどその長さの意味がわからない。ちゅーか白昼堂々、麻布十番の公園で酒入れながらレッド食って「このへん警察来る?」とか、ありうえないでしょーっていうようなのも嫌だ。耳が聞こえない千恵子の描写も長い。でも千恵子の存在感は素晴らしい。、やっぱりこの映画、なんだかんだ言って、ものすごく力がある。なぜ素っ裸っていう演出なのかも考えさせられる。刑事が最後に読む千恵子のメモの内容も想像が走る。ちゃんと心に残すものを作っている。ブラッド・ピットといい、ケイト・ブランシェットといい、そういうところを脚本から読み取ったから出演したのだろう。それと映画のテーマとは関係ないけれど、衝撃的だったのは、東京の景色とモロッコの景色の対比だ。ハッキリ言って東京の風景は自分たちにはあたりまえの景色だが、モロッコのそれとの違いをこうも明瞭にされると、東京という街のグロテスクさに、吐き気に近いものを覚えた。異常も続けばあたりまえ。人殺しがあたりまえになる戦争みたいなものだろうか。かなりやばいところで暮らしているんだよ、僕たちは。

Friday, October 17, 2008

Das Leben der Anderen

やばいよね、こういう映画。邦題は「善き人のためのソナタ」。ぐっさり来ました。アカデミー賞をとったっていうのも納得。ベルリンの壁が壁崩壊前って、時代としてはライブで見てたわけだし、ソ連が終わってロシアになって、という混乱期に僕自身、ウラジオストクにも行ったわけで、そのウラジオストクに行った時に、シャンペンを出してくれた軍幹部向けの隠れサロンのマダムが、政治的な会話は一切答えず、黙って壁と天井の角を指差したんだけれど、この映画を見て、その頃の、いわゆる秘密警察の感じっていうのが、ヒシヒシと伝わってきて、ちょっと映画だけではない感触を覚えながら見た。それから、この映画、国家保安省・シュタージという極端な組織で洗脳されている局員であろうが、ヴィースラー大尉のように、音楽や文学やアートなど、心を捉える芸術には、概念の信奉など吹きとばすチカラがあるんだなという、そういうメッセージのも思えて、ぐっさり来ました。いい映画でした。

Wednesday, October 15, 2008

I am Legend

「レジェンド」って普通に日本語になったよね。「アドバンテージ」とか「オファー」とか「レバレッジ」とか、広告やメディアで訴求されて日本人の耳にも意味が分かる感じになった単語って少なくない。そういうことももう一回復習しなきゃなぁ…、とか思いつつ、この映画の砲台、ちゃう邦題も英語でのタイトルどおり「アイ・アム・レジェンド」。んで、昔から、こういう細菌などで人間が突然変異してゾンビ化して人類が滅亡しそうになり、主人公がなんとか生き抜くっていうプロットの映画ってかなりあったように思うんだけどどうなんだろ。ホラー系に分類される映画って詳しくないし、そもそも気持ち悪いから見たくないし…って感じだけど「28デイズ」みたいなのも、そういう企画のひとつだろか。そんな中でこの映画がちゃんと製作されていることに軽い驚きを感じざるを得ない。そういえばスティーヴン・キングの「セル」も夜は動かないゾンビたちとの攻防っていう感じで同じような設定だった。この映画の原作はリチャード・マシスンの「地球最後の男」。過去に二度も映画化されているのに、もう一回掘り起こして映画化したわけだ。なんせ「地球最後の男」なわけだから、映画化するにしても、もう主役俳優の独演なわけで、前の映画化ではチャールストン・ヘストンだったようだが、今回はウィル・スミス。しかしまぁ、脚本がひどいのには別の意味でびっくりした。特に後半、主人公のロバート・ネビルが、突然現れた女性に、田舎の方に生き残った人々の共同体があると言われて、「なぜそれを知ってる?」と聞いたら「神からのお告げよ」って答える。このセリフ、ありえないぜって思ったのは僕だけだろうか。さらにそのコミューンは朝出れば一日で行けるところにあると言う。なんやねんそれ。全然地球最後の男じゃないじゃんよ。確かにメトロポリタンで釣りをしてたり誰もいない朽ち果てていく途中のNYCは壮観だったけど、それが何を生み出したかって言うと何もなかった。僕はシェパード犬のサムが素晴らしかったと思う。愛おしくて主人公の涙はすごく胸に来るものがあった。ネビルがゾンビの罠にかかってぶら下がっちゃった時、あんな風に心配してくれたりするんだよね…犬っていういきものは、っていう感じで、なんか胸が熱くなった。人間って、見た目を飾ったり、言葉でごまかしたり、嫌いでも好きなフリしたりと、心の中の本当の気持ちを見せないいきもの(まんま見せたら袋叩きに会うっていう社会だし)だから、余計に、そういうものを持たずに人間と仲良くしたいっていう犬の持つ純真さが、今の僕には重たいものに思えてならない。

Sunday, October 12, 2008

The Pursuit of Happyness

原題を直訳すると「幸福の追求」、でも邦題は「幸せのちから」。pursuiteを「ちから」に置き換えたのは、とってもいい邦題だと思う。でも「幸福」ってHappynessとも書くんだね。おいらはHappinessと習ったぞ。それはさておき、ウィル・スミスって本当に役者としてどんどん成熟して行ってる感じがあって、見続けて行きたい人だなって思ってたけど、だんだん自分が演じる「ウィル・スミス」っていうパターンに陥って行ってる感じがしたのはなぜだろう。彼の出演作は結構見てきた。「インデペンデンス・デイ」とか「バッドボーイズ」とか「メン・イン・ブラック」とか初期のものも見たし、「エネミー・オブ・アメリカ」あたりでジーン・ハックマンとの存在感比べも見た。だけど「アイ・ロボット」のスプーナー刑事、「アイ・アム・レジェンド」のロバート・ネビル、んで、この作品のクリス・ガードナーって、なんかみんな同じようなものを表出させることで、「演じる」ってことを終わらせてないか?っていう気がしたのが理由かもしれない。残念ながら「ハンコック」を劇場では見逃したので、DVD出たら改めて確かめてみたいし、新作の「7ポンド」も見てみたいと思うんだけれど、ある役者が、あるパターンを繰り返し始めるのが、僕は好きじゃないのかもしれない。僕は、ラッセル・クロウやケイト・ブランシェットに心酔する。一方、何を演じても同じ、という方向で確たる位置を築いている役者もいる。僕はウィル・スミスにそうなって欲しくないと思っていたのかもしれない。もちろんウィルの演技は一流だし、人間的にも素晴らしいことは間違いないし、見ていて納得できることばかりだ。今回はマトリックスの続編系とか、コラテラルとかに出てたジェイダ・ピンケットとの間に生まれた実の息子のクリストファーを共演者にしての映画だから、余計に生のウィル・スミスが出たのかもしれないけれど、その生な感じと、演技の幅とが、どうも見えない感じだった。んで、映画だけれど、アメリカ映画にしては、最初から最後のエンディングの直前まで、ずーっと不幸。また不幸。どんどんつらい状態が重なって最後の最後に「ハッピー」なんだけれど、その幸福な状態が、日本人からすると、言ってみれば「普通」って感じで終わる。つまり、仕事があって、お給料がもらえて、帰る家があって、息子も学校に行かせられて…っていう普通だ。能力主義のアメリカでは、こういう絶望があるのか、って思わされるが、そこに東京に住んでいる僕には中々リアリティは湧かない。ホームレスが増えているとはいえ、日本という国の社会観には、いざとなれば頼ることが出来る(かもしれないってことだけど)友人や親戚がいたり、完全なる絶望に陥る前のところが、もう少し豊かな気がする。この映画であるような、半年間のインターンも、無給なんてことは日本では社会が認めない。もちろん、この映画の主人公のように将来性まで考えての大きなチャンスを掴むっていうのは、アメリカも日本も同じだけれど、社会保障の次元が違うところでの悲劇という感じがあって、正直、最後まで映画自体を楽しめなかった。もちろん、息子に向けた言葉など、脚本も良かったんだけどね。