Diarios de Motocicleta
邦題は「モーターサイクル・ダイアリーズ」。チェ・ゲバラの青春時代を描いた映画。劇場公開時に見たいと思った記憶がある。だが忙しくて映画館には行けなかった。おそらく歴史モノではないという宣伝文句に惹かれたのだと思うが、なぜ見たいと思ったのかは今では思い出せない。しかしこれは以前「TROY」を見たときに書き記したことと同じなのだが、カストロとかゲバラという名前は知っているが、実際には僕は彼のことをなにひとつ知らない。遠い遠い地球の裏側にいた革命の英雄。そうした距離感だけではなく知っているのは資本主義を共産主義者…。カストロとの日々を描いた映画もあるのでそれを見てみようと思う。本当に日本は平和で、弾圧もなければ独裁もない。管理されていないと思わせられているだけかもしれないが、明らかに平和ボケしたこの数十年の日本に暮らしていると、他国の抱える民族問題やイデオロギーの違いに拠って人々が殺し合っているニュースがまるでテレビの向こうの物語にしか受け止められなくなってしまっている。ネットワークがここまで発達したというのに、そうした自分は変っていない。メディアは高度化したが自分の智慧の眼は曇ったままだ。受けた教育や都会生活による屈折など、その理由は沢山考えられるが、根本的に基礎知識の欠落が問題であることを、こうした映画を見るたびに思い知らされる。一方この作品からはまったく違う側面で自分のいまを思い起こさせるものがあった。見ているうちに自分が若かった頃の記憶がどんどん蘇るのだ。僕もバイクに乗っての帰りを決めない旅に出たことがあった。大学を休学し、自宅からひとりサーフボードの板一枚を片手に抱え、右手だけで50ccバイクのパッソルを繰って明石まで行き、フェリーに乗って淡路島に渡り、ノロノロと島を横断して、鳴門海峡をまたフェリーで渡り四国に着いた。鳴門と小松で波に乗り、徳島を通り過ぎて南に向かってひた走る。宍喰までの山道はトラックに轢かれそうになったりしながら、目指す海部の河口に到着したときには、もう金はまったくと言っていいほど残っていなかったが、絵に描いたような波に狂喜乱舞。そこからまた山を越え、生見にあるサーフボードのファクトリーに転がり込み、なんでもやるから寝かせてくれと頼み込む。知り合いのバンの後ろに寝る生活。サーフボードの修理を一箇所やって50円。それで毎朝サンリツパンという一番安いパンを買い、食いつなぎながら毎日毎日波に乗っていた。この映画の中のエルネストと同じ歳に僕もそんな無茶をしたことをすっかり忘れていた。波乗りの映画を見たときも思い出さなかった。でもこの映画を見ている最中に、何度も僕にも何も怖くない無茶が出来た時代があったことを思い出させた。さて映画だが、心激しいフーセルと呼ばれるエルネスト・ゲバラは医学生は年上の陽気な友人アルベルトと一緒に、一見計画されているようで実際は何も計画されていないとても無茶な旅に出る。最初に離れたところに住む恋人に子犬を手土産に会いに行くが、離れがたく二日の予定が一週間も過してしまう。その恋情を振り切って彼らは本当に旅に出るわけだが、見たこともない景色の連続に圧倒される。また場所が変るたびにキチンとテロップで場所と日時、そして旅した距離が表示される。この表示がないとどれだけ進んだのかを何度も地図を出して確かめるような場面が必要になるだろう。もしくは「アビエイター」や「ナショナル・トレジャー」などでも見られたような説明的な図式アニメーションを重ねなければならなくなる。それをタイポグラフィで見せてしまうのは、ある意味で賢いやり方だと思うが、それを多用することはなく気候風土ががらりと変るほどの状況変化を映像は丁寧に描いている。もちろん最初にカフェでアルベルトが地図の上に線を引く場面があるから成立しているのは言うまでもない。バイクの修理工場で夫に隠れて色目を使う女性は明らかに俳優なのだが、登場する沢山の人々がどうも俳優と思えない人が多いのがこの作品の特色だ。特に鉱山で出会う夫婦はどういう人が演じているのだろうか。彼らは俳優なのだろうか。素晴らしい存在感。それは撮影にも拠るがとても印象深い。ハンセン氏病の患者たちも当然エキストラではない。特殊メイクの俳優もいるが実際の病人たちが湛える静けさの中に映画は一気に切り込んでいく。濃い朝もやのなか、船着場で彼らがフーセルたちに手を振って別れを惜しむ場面は胸に迫る。あの筏での別れは病院側ではなく病棟側なのだ。そして最後に実物のアルベルトの目で締めくくられる。現実とフィクションの融合。こんな映画の作られ方は初めてだ。また印象に残ったのは後半からラストにかけて、エルネストの経験を追憶するがごとくに、モノクロームの色調で彼がこの旅で出合った「考えるべき状況」にいる人たちのポートレートの表示。これがとても強い印象を作り出している。僕もそれなりに写真を数多く見てきたが、こうしたひとりの人間の見てきた人々という切り口での写真の提示は、写真の示し方の常道。普通はそれが写真家なのであるが、こうした映画の中にその手法がまったく違和感なく持ち込まれていることに少なからぬ驚きを感じた。実際、アルベルトが写真を撮り続けているということは映画の中で描かれてはいるのだが、同時にそれら写真的映像(動かずにじっとしているのを映像として撮影している)に記録されている人々は、間違いなく特別な存在感を示しながらこの映画の中にいる。エルネストが感じたものを、そこに住む人々の真実の姿を映し出していくことで見る側に重ねてくる。これはとても成功しているのではないだろうか。しかし安易にこの手法をとることは、そちらにリズムを置きかねない事態に陥ることにも繋がるなど、とても危険なので慎重でなければならない…と学習した。
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