La Vita di Leonardo Da Vinci
邦題は「レオナルド・ダ・ビンチの生涯」。製作されたのは1974年。僕はまだ中学生だったが、テレビの前で呆然と口を開けたまま見入ってしまった時の記憶は生々しく残っている。ものすごいインパクトがあり、子供の頃から絵を描いてきていた僕は、この番組を見て本格的に絵画の世界というものに興味を持った。そしてこの番組が僕に与えた影響は今思うと計り知れないほど大きなものだったのだようだ。翌週から旭屋書店や紀伊国屋書店でダ・ヴィンチのデッサンが出ている本を毎日見に行った。書店の人は変な子供だと思ったに違いない。もちろん月のこずかいが数百円の子供だったから数万円もする豪華本は絶対に買えない。そのために脳裏に焼き付けようとした記憶がある。特にデッサン。ペンや木炭で描かれた人々の表情や、馬の各部を描いたデッサンは、今でも脳裏に鮮明に浮き上がるほど脳裏に刻んだ。そして、そうした高価な美術書をめくり続けているうちに僕の興味はどんどん深まり、アートには色々な世界があることを徐々に知っていったのだった。また中学二年の同級生に素晴らしい友人がいて、彼は夏休みの絵画の宿題にキュビズムの手法で描いた静物画を持ってきた。その時の嫉妬に近い驚きも忘れられない。それを目にしたとき、あ、自分でも描けるんだと気づかされたのだった。そこから僕は美術部に入り、先生が絵を描くのを飽きずに眺めていた。余談が過ぎた。1452年にフィレンツェ近くのダヴィンチ村にてセルピエロの息子として生まれたレオナルド。彼の死後50年後にヴァザーリが残した記録に沿って、史実に沿って忠実に描かれた作品だ。だが普通の映画と違うのは、そこに居合わせたように、自然にナビゲーター役の男性が画面の中に登場するところだ。これがとても強い印象となって残っている。細身のスーツ姿で手に持ったヴァザーリの記録を彼は読み上げる。彼は当然のようにカメラ目線で話しかけてくる。これは映画ではありえない表現であって、テレビ的というべきなのだろうが、物語と受け手の距離を繋ぐ役目として、とても重要な役を演じているとも言えると思うし、この表現はまさにインタラクティブに向いていると思っている。さて、第一部はレオナルドの死の場面から導入される。一転して彼の洗礼の場面。妾の子としての誕生から、彼の生活環境やベロッキオの工房で学んだ子供時代などがとても詳細に描かれる。第一部は彼がフィレンツェからミラノに旅立つところまで。そこにはメディチ家が強力な権力を握っていたルネッサンス当時のイタリアの様子も細かく再現されていてとても興味深い。第二部は、のどかなトスカーナから、交易で栄えていたミラノに着いてからのレオナルドを描く。レオナルド30歳。まさに芸術家として彼の初期の円熟期に当たる時期。光と影を掴まえて描く手法や、ロンバルディア地方の自然に触れて遠近法に加えて霞んだ空気感を持ち込んで行く様子もキチンと描かれる。また科学者として目覚めていく場面も興味深い。おびただしい数の人体のスケッチは正確無比。昼間は絵を描いたり舞台の演出をしたりしながらロドリコや貴婦人たちのご機嫌を取り、夜は地下室にこもって人体を切り刻む。その二面性には驚かされるが、彼は間違いなく天才であり、狂気とともにあったと思われても仕方のないほどに彼の脳髄は働いたのだろう。ミラノ公国を開いたフランチェスコ・スフォルツァの記念像の模型がとうとう完成し、1493年、石膏の型まで出来たところで公開されたというのに、その記録は残っていない。最終的にはフランス軍のミラノ侵攻によって破壊されてしまうという悲劇的な場面は第三部にあるが、子供心に胸が痛んだ記憶がある。第二部は、おそらく生みの母親であるカテリーナを埋葬するレオナルドの内心を描くところで終わる。第三部はサンタマリア・デル・グラッツィエ修道院の食堂の壁に、どのようにして「最後の晩餐」が描かれることになったかの経緯から始まる。この壁画は構想から完成まで5年の歳月を費やされる。ジョットの作品ではコの字型のテーブル配置の様式を、カスターニョの作品ではそれが一列となりユダだけを手前に描く手法があり、ボッティチェリもほぼ同じ構図で描いているがテーブルはシンメトリーにコの字に戻っている。サンマルコ教会にあるギルランダーヨのフレスコ画は、その様式を踏襲し、レオナルドも最初はそうした伝統的な構図を考えていたスケッチが示される。なんとも興味深い。そこからレオナルドは聖書を読み直し、最後の晩餐の情景を思い浮かべ、キリストの孤独を見出していく。この構図がどれほど考えられた絵なのかが解説されるが、これも僕は子供心に大きな驚きと好奇心を抱いたことだった。絵は考えて描くものだとは教えられてこなかったからだ。絵には考えを込めていける。それを知ったのはとても大きかった。ユダの位置は低く、フィリッポの位置は高く、その中間にイエスがいる。またフレスコ画の説明も当時の僕には初めて聞く体験で、以後、塗りの浅いフレスコ画を見るたびに、この番組の説明場面を思い出したものだった。それほど僕にとってこの作品は大きな影響を与えたことになる。ベアトリーチェが死ぬ夜の舞踏会の場面は、当時の衣装がどういうったものだったかを細かく見て取ることが出来る。1499年、フランスのルイ12世はミラノ公国に侵攻。ロドリコは亡命し、レオナルドもミラノに居られなくなりマントバに逃れるが、王妃のイザベラ・デステはフランスを怖れてレオナルドを受け入れず、仕方なくヴェネツィアに向かう。この場面で出てくるデステの横顔のデッサンはルーブルにあるが、これも子供心に、とても強い印象がある。それは針で刺した穴が無数に開いているからだ。おそらく模写するために後に弟子が開けたものとされているが、そのプツプツした針の穴が鮮明な記憶となって僕の脳裏には残っている。ヴェネツィアでレオナルドは潜水艦や潜水具を考え付く。だがそれらは公開されずに終わるのだが、彼は、こうした発明は必ず恐ろしいことに使われてしまうだろうとメモに書き残し、アイデアを自ら葬り去ってしまう。レオナルド50歳。第四部は、西暦1500年、レオナルドが生まれ故郷のフィレンツェ共和国に戻るところから始まる。しかしフィレンツェでは1494年にサボナローラ率いるドミニコ修道会がメディチ家を追放し、ロレンツォ公が育み作らせた美術品がことごとく破壊され焼却される。結局サボナローラは市民に捕えられ処刑されるが、すでにメディチ家が築き上げた優美な空気は望むべくもなかった。そうした中にレオナルドはフィレンツェに戻る。そこで活躍していたのはミケランジェロ。彼は彫刻家として16世紀を代表する芸術家として意気揚々。レオナルドとの巨大な大理石の争奪に勝ちダヴィデを作る。そうした彼らは同じ芸術家として常に対立していく。なんともすごい時代なのだが、レオナルドは軍事的な発想にとりつかれる。戦車、機関銃、要塞まで設計するが実現されない。しかし残されているスケッチは500年も前に描かれたというのに、現代にも通用する秀逸なアイデアばかりで驚かされる。だが彼は軍人をやめ、今度は空を飛ぶことに心を奪われる。同時に「アンギアーリの戦い」の壁画でミケランジェロと腕を競い合うことになるが、フレスコ技法を嫌った彼は油絵具で壁画を描き、その乾燥で失敗する。この壁画は結局未完となったが、何人もの画家が模写を試みたものが残っていて、ルーベンスが描いたものがレオナルドのスケッチと照らし合わせても一番近いのではないかといわれている。レオナルドは、何もかもうまく行かない中、コツコツと描いた「モナリザ」を完成させる。さらにそこにラファエロが来る。すげー。ラファエロだよ。フィレンツェに戻って6年。結局彼はミラノに戻ろうとする。第五部。ミラノに戻ってみるとレオナルドの作品は画学生に模写されるような状態で、彼の名声は不動のものとなっていた。同時にドメニコを追放したフランス人のダンボワーズ総督に請われ、彼は三ヶ月でフィレンツェに戻るという契約を破棄してミラノに留まることにする。ルイ12世は「最後の晩餐」を壁ごと切り取ってフランスに持ち帰ろうとしたと言う。フランス軍の将校、ジモラモ・メルティの家で平穏な日々が始まる。弟子として迎えた17歳のフランチェスコ・メルティは彼の息子で、レオナルドが心許せるひとりとなった。この時代、レオナルドはこれまでの膨大なノートを見直しながら思考に耽る。1507年の春、ルイ12世がミラノに来る。国王である彼は「モナリザ」を欲しがるがレオナルドは描きかけですと断る。その後、伯父の死にまつわる相続問題で再びフィレンツェに戻るが、数日の滞在のはずが一冬を無駄にする。画面の中に当時のフィレンツェの登記所が再現されている場面がとても興味深い。本の佇まいや綴じ方など、まさにルネッサンス時代そのものだ。1511年、ミラノ総督シャルル・ダンボワーズが突然死ぬ。1513年、スイスがロンバルディアに侵攻したためにフランスはミラノを撤退。この時代の動きに合わせて、ルイ王朝の宮廷画家となっていたレオナルドもミラノを離れなければならないと思うようになる。レオナルド60歳。彼はローマに向かい、ジュリアーノ・メディチの庇護の下、ヴァチカンに住む。しかしこの時代にレオナルドが何をしていたのか詳細はわかっていない。伝記を書いたヴァザーリも鏡を必要とした何かの機械を開発していたとしか残していない。推測では、それは反射望遠鏡。1515年、ルイ12世の後を継いで20歳のフランソワ一世が国王に即位しイタリアに侵攻。ミラノ軍を破る。教皇レオ10世は自分の力を示すためにヴァチカンつきの名高い芸術家をすべて引き連れて急いでボローニャに赴く。その列にレオナルドも連なっていた。教皇と会見したフランソワ一世は、その場でレオナルドを見つけ、すぐにフランスに招き入れる。1516年、アンボワーズ、クルーの館にて国王の庇護の下、晩年を過す。1519年5月2日、レオナルドは亡くなる。さらに彼の墓は戦争によって荒らされ、彼の遺骨はどこかの共同墓地に眠っているという。権力と宗教の争いによってこのような希代の天才の考察が何世紀も失われたままになってしまったことを忘れてはならないだろう。全部で6時間という長編の作品のため、さすがにこのメモも長くなった。だがその6時間、僕は興味津々のまま見終えることが出来る。こうした教育番組のようなものは僕は大好きだ。最近ではテレビをつけても馬鹿馬鹿しいお笑いは、ただうるさいだけで見る気になれなず、NHKスペシャルや世界遺産、見てもガイアの夜明けやなんでも鑑定団が精一杯。海外に行くと、暇さえあればBBCやナショナル・ジオグラフィックの番組を見て来た。そしていつも思うのはこうした確かで厚い情報にふれた時の満足感だ。ずっとそうした仕事がしたいと願ってきた。その結果が富士フイルムで環境コンテンツへの取り組みだった。今後は出来るだけこうした後世に伝えるべき確かな知識の伝達を手掛けて行きたいと思う。その意味で、ドキュメンタリーも見直していくべきだなと思う今日この頃だ。
0 Comments:
Post a Comment
<< Home