Monday, January 30, 2006

2046

ふと目に留まったこの映画。見てみようと思った引き金になったのはウォン・カーウァイがBMW FILMSの「Hire」に参加した時に見せた澱みなく流れるようなカメラワークだった。ただ美しい映像が見たかっただけである。そこのところの期待をウォン・カーウァイはこの映画でも裏切らなかった。美しい旋律と情感豊かな音楽も彼独特の味だろう。美術も衣装も秀逸なのだが、なんと言っても色彩感が素晴らしい。構図の中に無駄な色彩を置かず、でも簡素ではない。そこには常に十分に感じられる質感があり、描かれる状況が臭気まで伴って立ち上がってくる。しかしそれは悪臭ではない。吐き気を一切感じさせずにエグい世界を画面に持ち込む。こうしたファッション写真を思わせる洗練されたタッチが僕は好きだ。さらにそうした世界観を見せ切るクリストファー・ドイルのカメラワークに心酔する。彼はクローズアップ、パン、チルト、ズーム…あらゆる撮影技法を駆使してかなり大振りに画面を動かすが、その動きと完全に同期するフォーカシングによって人間の目のように視野が途切れることがない。この作品でもその繋ぎの感覚が冴えている。しかし、その視点から言うと固定を選んだ列車のセットで繰り広げられるパートの映像は頂けない。キムタクを中心にここで登場する俳優たちの演技も弱く、香港のホテルやレストラン、シンガポールの賭場を描いたパートに較べると明らかに見劣りする。物語の内容から言えば別に未来的なセットデザインにする必要はなかったと僕は思うがどうなのだろう。映画には引きの絵はなくウィリアム・チャンスーピンの手による完璧に作りこまれたセットで撮影されている。空想部分にも質感を与え衣装を変えるだけでも十分だったかもしれない。俳優としてはチャン・ツィイーが際立つ。彼女の素晴らしさは主演のトニー・レオンが醸し出す相変わらずだが味のある存在感と相性がいい。その分まったく冴えない木村拓哉が情けない。テレビタレントと映画スターの違いを見る思いがした。

Sunday, January 29, 2006

21 GRAMS

なぜかブラッド・ピットが年老いるとトロのような役者になる気がしているベニチオ・デル・トロ、生まれつきのワルというイメージから善人を演じても様になる歳になったショーン・ペン、そして若き日のイザベル・アジャーニを彷彿とさせるナオミ・ワッツ、さらにジャーロット・ギンズバーグと、曲者が揃っての映画だから半端はないだろうと期待して観た。余談だが、ショーンもナオミも幸福の絶頂から突き落とされるというような極端な感情変化を演じるのが得意だ。彼らが爺さん婆さんになった頃、ジャック・ニコルソンやバネッサ・レッグレーブのような静けさを保った力強さが期待できる気がしてこれからの彼らが楽しみではある。さらに余計なお世話な話だがシュワルツネッガーやスタローンはこういう映画をどう観ているのだろう。彼らはマーロン・ブランドやショーン・コネリーのようになれると思っているのだろうか。映画に話を戻す。見る前に予想した通り、陰と陽の両面が煩雑に行き来する。その細かなカットインが繰り返される中に時系列が見えてきて、物語の全貌が浮かび上がる。その編集は素晴らしい。その効果を発揮するため、意図的にそれぞれ出来事ごとにシーンの色調や画面タッチを変えているのだが最初は少しくどい感じが否めない。しかしそれも物語の展開が読めた後にはあるべき効果と納得がいく。物語の内容は深く、描くべき意味があると思わせる。病気も事故も事象としては極端だが、被害者にも加害者にもなりうる。どれもが自分の身にに起こりえる出来事。そこに思いを馳せさせた上で、複雑に編みこまれた要素を映画の前半に素早く整理し尽くしていくところは見事というしかない。さらに編みこむ軸が主な登場人物三人に共通する「救われたと思った事がすべて一瞬だった」という悲哀である。幸せ絶頂な状態で突然に家族全員を事故で亡くすクリスティーナ。心臓病で死ぬ手前に移植によって生き返ったと思った途端に別の死が間近だと知らされるポール。神に従って生きる道を見出した直後に人を死なせてしまう罪を背負うジャック。そうした極端なところで悲哀を絡み合わせる脚本は恐ろしいほど考え尽くされている。ラストは印象的だ。人が死ぬと21グラムなくなるという。ドイツの学者が宣説した説では6グラムらしい。それを魂の重さだとする考え方に僕は微塵も否定するところがない。

Friday, January 27, 2006

MASTER AND COMMANDER

この映画の特徴として時間経緯を表現する部分がとても巧みだと感じた。実際、映画を観ることと併走するように僕のアタマに走った思考は、当時はこうも時間がかかる戦い方しか出来なかったのかという驚きだった。なにせ動力は人力と風でありスクリューを回すという技術もない訳だから、手持ちの望遠鏡で敵を発見してから戦闘開始まで何日もかける。実際は敵を発見した時点で戦闘は始まっているのだが、レーダーで捉えてミサイル発射。ばひゅーん。どごん。どがーん。というリズムが当たり前だけに、その間の長さに慣れるのに最初は随分戸惑った。砲撃が戦闘だと思い込んでいる自分に気づかされる。しかしそうした時代だったからこそ指揮官の洞察と戦略が重要であり、多少砲撃兵器の威力が劣っていても勝負が成立していた事が徐々に分ってくる。正確に当時の状態を再現しながらそうした理解を与える前半の展開は素晴らしく、観るものをぐいぐいと映画に引き込んでいく。また正確に再現された当時の船の様子が興味深い。先鋭戦艦は船の大きさに比べて乗員の数が非常に多い。それは航海のためだけではなく戦うために必要な人員であり、居住性よりも機動性を徹底的に優先した結果であろう。大型帆船での無数のロープを自在に操っての微妙な操舵術は恐ろしく奥が深そうだ。一方中盤には、そんな無敵の軍艦も無風には無力である様も描く。情景描写の割り振りが見事だ。だが、なによりラッセルが垣間見せる思慮深くも、どこかいつも楽しんでいるような演技が映画に厚みと軽快さを与えている。気品を表現するあたりも彼らしい。ラッセル・クロウは、彼を「ビーティフルマインド」で凄い役者だなぁと思い、「グラディエーター」では肉体派の役どころを苦もなく演じきるこの人の演技力を確かめたが、この作品でもその演技に心酔する。物語の途中、一度島に上陸はするが、主たる物語の舞台は大海原で木の葉のように舞う小さな帆船そのもの。敵の新型軍艦に奇襲をかけて突入するが敵側には最後の最後まで微塵も人物描写を与えない。敵の艦長を治療室に追い詰めたと思ったら相手はすでに戦死と告げられ遺品の剣が渡される。そういう徹底して相手側に無言を強いるあたり登場人数は多いが一種の密室劇のようだ。頭の中を「12人の怒れる男」やドイツの潜水艦を描いた映画がよぎる。そしてラストの「まじぇ」というドンデン返し。脚本が練りに練られていることがよくわかる。無駄なチャプターが見当たらない。印象深いシーンも数多い。この先どうなるのという微妙な続編の所在を匂わせつつも充分な満腹感。今のようにCGとVXF全盛の時代に強烈な印象を残す本当に良く出来た映画だと思う。

Thursday, January 26, 2006

STEALTH

映画の内容は量子コンピュータと自己学習型人工知能を搭載した最新鋭無人戦闘機EDIが起こす混乱のお話。その新型ステルスEDIはまるでUFOのように飛ぶ。近未来に実現される可能性のある技術ではあるが舞台は現在。そこにある非現実面にリアリティを与える事は成功しているが、突然EDIが出現する背景や戦わなければならない理由の部分がゆるゆるのまま。そこを適当に諦めて徹底的に娯楽作として仕上げた作品のように思う。物語は息つく間も無く次々に展開する。そのスピード感で見る人の意識を曖昧な部分に運ばせず、最後まで一気に見せてしまおうという魂胆だ。物語自体で正義を描きたいが方策は戦争。その矛盾が垣間見える。同時に低学年の子供も見れるようにするための配慮も随所に見出せて面白い。それはたとえばヘンリーことジェイミー・フォックス操るステルスがEDIに翻弄されて壁に激突する場面でも人の死の痛みを極力感じさせないし最後に英雄として扱ったりする。核弾頭を爆破しろとの指令に対して、近隣住民が放射能の影響を受ける事への人間的な躊躇も描かれる。さらに、愛する存在を守るために自分の死を持って当たる自己犠牲という行為や精神が人間的だと言わんとするようなEDIの体当たりや、普通ならキスしたり抱き合ったりする場面でも、そういう行為一切なしで終わるところも、とにかく大人だけを対象とせず子供まで幅広く見れる娯楽作に仕上げるための配慮が随所に見える。そういう意味では余計な枝葉は綺麗に剪定され「この先どうなるの。どっきどき。」という具合に観るのが正しい見方だろう。一方、とにかくあらゆる場面で、絵作りや演出の元になっている過去の映画の色々なシーンのクリッピングが見え隠れして僕はそっちの方でも楽しんだ。人工知能が暴走する話の元祖は「2001年宇宙の旅」のHALだが、ここでのEDIはその声まで近い。人口知能心臓部の液状の造作は青の色まで「アイロボット」での美術を思わせるしEDIの感情変化もどこかサミーを思わせる。攻撃目標ビルに爆弾が貫通するの爆破描写は「パールハーバー」の戦艦アリゾナ被爆のシーン。飛行場での爆発シーンは「ボーン・スプレマシー」のドイツの家の爆発か。ジープも転がすところは迫力あるがスタントがワイヤーで引っ張られている動きが見え見えで完成度は低い。突飛にタイでの休暇が差し込まれるが色彩感がやけに強調されてボンド風。北朝鮮で逃げまくるところは「エネミーライン」だろうか。結局一番印象に残ったのはタイトルバックのタイポグラフィとエンドクレジットのグラフィックだった。

Monday, January 23, 2006

THE DA VINCI CODE : Teaser

「ダビンチコード」の原作は読んでいた。それは忘れられない時期の思い出でもある。読んでいる最中から内容が非常に映像的だと思っていたが案の定映画化が進んでいて、ロン・ハワードを監督に据えて製作が完了した。僕のイメージではサム・シェパードだったが、トム・ハンクスが主役を演じている。ロン・ハワードはハリウッドで活躍する中では好きな監督だ。「アポロ13」や「ビューティフルマインド」などが持つ映画のトーンや細かい作りこみ。そして明らかに先に編集のイメージがあった上でのカメラワークなどいずれも安定していて評価できる。この映画の日本公開はまだまだ先だが、映画のティーザのアイデアが素晴らしかったので記しておこうと思った。マシンの性能が高ければHD-1080品質のQuickTimeで見るとアイデアの素晴らしさが際立つ。着想はポスターデザインの段階で生まれていたようにも思うが、実際に映像化するのは相当大変な作業だったであろう。そうした完成度をこのティザーは見せる。まるでグランドキャニオンのような峡谷を経て始まるが、それが重ねられた絵の具の皮膜と、年月を経て起こったひび割れだと分かった瞬間、すべてが粉々になって文字の集積となる。この映画が描こうとする主題に迫る素晴らしいティーザだと思う。単に見せ場を強調して強く印象を植え付けようとする意図で作られるティーザが多い中で、久しぶりに秀逸な仕事を見せてもらった気がする。でもティーザに較べてトレイラは普通だった。

Wednesday, January 18, 2006

GOOD WILL HUNTING

以前「オーシャンズ11」を観てマット・デイモンというハンサムボーイが実は相当の役者だということに気づいた。そこで急に「ボ-ン・アイデンテティ」を観てみる気になり、その後「ボーン・スプレマシー」、「オーシャンズ12」と見てきた。そうした間違った時系列を経た上で、この作品もマットに期待したのだが、その期待は裏切られなかった。あの曲者のロビン・ウィリアムス相手に全然負けない存在感を示す彼は、確かに素晴らしい俳優だった。この映画は98年公開の作品だから随分前の映画である。だが当時の僕は映画どころではなかったので実はこんな上質な映画があったことすら知らなかった。完全に仕事中毒に陥っていたと断言できる。それはさておき、この映画の舞台であるボストンにはロケで行ったことがある。レンガでの外装が法律で定められているのために、市内の建物はすべて同じような外壁に統一されていて、新築マンションの工事現場でも、どこでも同じようなタイル施工を行っていたことを懐かしく思い出す。本当に映像で見るよりも遥かに美しい街なのだ。僕が撮影で訪れた季節は初夏だったが、ボストンコモンの美しさは今も心に残っている。MITとハーヴァードの境にある、あの三角地帯のカフェでも当時流行りのケージャン料理を食べたっけ。大学側の川ぞいからスカイスクレーパーが立つ市庁舎界隈を望む景色もとても懐かしい。それはさておき、この映画を見て、その内容に驚いた。僕はウィルのような天才ではないが内面はまるで自分に近い。そうなった理由は当然違うが抱えている問題はかなり近い。弱い自分を隠し、そこを突かれると逃げる。「言えるのなら愛していないと言って。そうすればあなたの人生から出て行く」と言われ、スイッチが入る。寂しいのに即座に「愛していない」と口にして、相手を傷つけながら自分が傷つくことを避ける。そしてそれを自分を保つことだと信じているが実は人に捨てられるのが一番怖い。だから捨てられる前に相手を捨てる。逃げて逃げて逃げながら同時に人を傷つけて生きている。やり込めるときは徹底的に痛めつける。それは自分が傷つかないための最大の防御。そうして自分を保つ。この映画でのウィルはまるで自分だった。邦題のサブに「旅立ち」とつけられているが随分薄いと感じる。映画の主題は人間誰しもの内にある自己確執からの出離であり、旅立つという事象ではなく本当の自己を自分で覚る苦悩を描こうとしていると思う。その意味で「旅立ち」というタイトルは薄い。しかし、むずかしいことだ。ホントこういう方向に自分の殻を破るというのはむずかしいことなのだ。

Tuesday, January 17, 2006

KING ARTHUR

現在のハリウッド的映画というパターンを学習するために、とにかくブラッカイマーの映画は全部見ようと思っている。その一環でこの作品も観ることにした。主役は今ではもう見れない「BMW Films」でおなじみのクライブ・オーウェン。彼はボーンアイデンテティなどでの印象からか、どこか脇役的なイメージがあるが、僕は彼の無言の演技が好きだ。この作品での彼は聡明さを保ちながら力強さを持った主人公を見事に演じている。作品はブラッカイマー好みの叙事詩的な味付けに満ちている。美術は素晴らしい。映像は幻想的で美しいし、物語にも引き込まれる。砦の城壁は実際に建てた巨大なセットらしいのだが引きの絵では汚れが弱く逆にCGに見えてしまう。そんな細かな部分はとりあえず脇に置き、伝説的側面からではなく、人間的な側面から騎士道に触れられる映画だった。そこには武士道に通ずるものがある。しかし日本人にとってアーサー王という人物や騎士という存在は、欧米人に較べると知識も思い入れも少ないために物語の背景が良く分からないまま盛り上がっていく映画について行かされている感じがする。見終わってみると英国が抱える根本的な民族意識が少し理解できた気になった。島国にはそれぞれ独自の価値観を持つ土着民族がいてあたりまえ。その点は日本も同じである。良い映画だが最後に描かれる結婚式は明らかに蛇足と思われる。変にハリウッド的で作品の質を落としている。火葬の場面から天を仰ぐアーサーの姿から、駆け抜ける姿が本当に美しい馬の映像に繋いで締めくくるべきだったと僕は思う。

Thursday, January 12, 2006

Le Peuple Migrateur

邦題は「WATARIDORI」。この映画は、日本で公開される前にホノルルからの帰国便のシートで観ていた。だが字幕サービスはなく、ジャックぺランのナレーションがフランス語のために意味がまったくわからずじまい。さらにNIKONが取り上げていたこともあって、前々から出来ればもう一度見直したいと思っていた。映画は感動的だ。映画はというよりも映像がと言うべきかもしれない。信じられないような映像もある。首を張子の虎のように上下させながら飛ぶ鳥たちは調教されたのではなく、撮影カメラを積んだグライダーを脅威と思わせないように慣れるまで何度も何度も飛び続けたという話が伝わっている。それだけの努力の結晶としての映像は驚きの連続だ。しかし何よりも数千キロを昼夜休まず飛び続けることが可能な鳥たちの生命力と、それを育む底知れぬ自然のおおきさが胸に迫る。単に「環境」という側面にとどまらず、地球上に生息する生物の一員として、また、脳みそを持っている生物として、常に地球規模で物事を考えていかねばならないことを静かに教えられる映画だった。寡黙な自然に育まれながら鳥たちは淡々と飛び、淡々と生きている。そこにあるのは生か死だけではあるが、その死は全体の利益となって地球に還元され生に繋がっていく。生きることだけを見ると戦いだが、死ぬことに眼を向けると互いに支えあっている。そこに本能はあるが「我」は存在しない。そのことに気づくと、まさに彼らは他の為に生きている。生来において利他の存在でもある。果たして人間はどうなのか。生まれてから地球を汚し続け、最後は灰となってさらに炭素を増やすだけ。人間は何を地球に還元する生き物なのだろうか。

Monday, January 09, 2006

Veronica Guerin

この映画がどういう内容なのかまったく予備知識を持たないまま、単にブラッカイマー製作の映画だということだけで観てみた。濁った色調の澱んだ大気が漂う街を上空から舐めた後、いきなりアイルランドのジャンキースラムが映し出され、ヘロインを打った後に道端に捨てられたの注射器で遊ぶ子供たちの映像から始まって、おわゎ…という感じだった。明らかにブラッカイマー調の掴みではない。実在の女性を描く伝記なわけだが「エリン・ブロコビッチ」とは正反対の結末が待っていた。オヤジがキレてヴェロニカを殴り倒すとき、後ろでほくそ笑むワイフがいい味を出している。こういった脇の脇まできちっと固めるところがブラッカイマーの才だろう。いくらブラッカイマーがプロデュースしたとはいえ、内容的に巨額の興行収入が望める娯楽作ではないから映画の製作予算は限られていたはず。そう考えるとこの映画の苦心工夫が色々見えてくる。セットでの撮影と思われるシーンは少なく、またそうしたシーンでのカメラワークは大きく動かない。一方ロケでの映像は伸びやかに情景を映し出す。そうしたことも低予算ならではの工夫ではないだろうか。映像面でうぉっというような眼の覚める一瞬は無い。しかし一貫してカメラワークは秀逸だと言える。しかしながらケイトはすごい役者だと思う。彼女独特のあの表情での演技は感情をダイレクトに伝える。特に二度目に襲われたときの病院のシーンでのケイトの演技は本当に凄かった。あの手の震えでの心の中の恐怖の表現は素晴らしい。ラストシーンは美しかった。葬儀に集った数多くの人々の沈痛な表情は、まるで役者の演じるそれではなく、どこか上質なポートレイトが載った写真集を見た時のように心に残った。

Saturday, January 07, 2006

SAHARA

話題作だというので観たが、これだけお金かけてこれデスカ…という感じ。いやはや「三流とは」を学ばされた気がする。そう思わせるのはペネロペの大根役者ぶりが際立つからだろうか。「BLOW」では悪くなかったと思ったのはジョニー・ディップの力量によるものだったようだ。とにかくこの映画での彼女は最悪。さらにそう思えば、この映画はストーリー展開も脚本も映像も、すべてがどこかステロタイプで大げさ。まるで過去の様々な映画のクリッピング集に思えてしまって興ざめの連続だった。自分たちが携わるデザインの世界でも同じなのだが、色々なアイデアを盛り込むのは楽しいのだ。だが盛り込んだだけでは駄目で、練りこみが足りないと、結局見終わった時に「なんだっけ」という事になる。ましてやこの映画、物語として今日現在という舞台設定なのだから、その描こうとする物語のありえない夢物語に幾らかでもリアリティを持たせないと見るに耐えないのは必至。まさにその点への努力がまったく足りないと言える。まるで昔の「007 死ぬのは奴らだ」焼き直し風のボートでのチェイスも、だらだらと長いてしくどい。金をかけた見せ場でも編集でバッサリ切るべきなのに惜しくて切り捨てられなかった製作者の負け。そうした馬鹿馬鹿しさの圧巻は独裁者役の大統領の死に方だ。そもそも国を率いて軍隊を動かす存在という設定で砂漠に瀟洒なテントを張ってランチを摂る独裁者が、自分でヘリを操縦して悪ガキよろしく獲物は俺が仕留めるがごとくの展開。それ自体もうわけわからないと言うのに、反撃を受けて、約束通りに「あわゎ」となって爆死するシーンのために、わざわざヘリ一台を爆破する金銭感覚には唖然とするしかなかった。結局印象に残った映像は、タイトルバックのシークエンスから数分間。仕方なくそこをキャプチャしてここに掲げることにする。最初の一気に車に寄って行くシークエンスは、それがまさに直線的だからこそ新しい。これはダイレクトに広告表現に使える手法だと思う。また、監督名が出るあたりでの病人の家の入り口の映像は、アンドレ・ケルテスの写真を思わせた。この一瞬だけは今も脳裏にある。奥行きのある構図とカメラワーク。そして色彩も素晴らしく光と影が美しい。だが残念ながらこの映画、どう評価しても駄作の部類に入ると思う。

Friday, January 06, 2006

ALEXANDER

主題が描かれる時代ごとに当時の美術が映像の中に埋め込まれたカタチで見る事が出来るという理由もあって伝記映画というカテゴリーに属するものに昔から興味がある。しかしその一方で良く出来た伝記映画は僕のその視点からもう一段深く引きずり込む。「アラビアのロレンス」などは、その際たる映画だ。逆に美術や世界観などにばかり目が行ってしまう伝記映画は本来の映画としての力が弱いということになるが、そもそも美術や衣装がいい加減だと観るに耐えない時間を過ごすことになり苦痛を伴う。その点では、この映画の美術は本当に素晴らしかった。まずプトレマイオスが語るアレキサンドリアの図書室の造形に目を奪われれた。またバビロンの宮殿の作りこみなど、映画全編に亘り、あらゆるシーンで徹底した美術が観れたことには大きな満足があった。同時に演出のリアリティにも目が行く。おそらく「プライベート・ライアン」が流れを変え、以降の映画に傾向を与えたと思われるが、この映画でのリアリティにも徹底したものが感じられる。闘いの後、血にまみれた戦士を見舞うアレキサンダーの姿。そうしたリアリティが醸し出すものが映画全体にいかに大きな影響を与えるかを教えられるようだ。しかし映画そのものは普通の伝記映画だったと言わざるを得ない。結局こういう人だったという理解で終わってしまう。生まれから死に至るまでの一生を描くセオリーを変えると難解になってしまうのだろうが、なぜ彼はそこまで戦ったのかには結局迫りきれず、すごい場面が押し寄せる映画だったが心に残る感動のようなものは最後まで僕に訪れなかった。そこを後で考えると、すべてを目前で見てきた証人としてプトレマイオスを登場させた意味さえも首を傾げてしまう。アンソニー・ホプキンスという名優に演じさせたのにプトレマイオスが真実を語らなければならない背景にも曖昧さを残したことは残念に思った。人は語り部の話す物語に感動するのではなく、語られるべき生きさざまに共感し心を動かされる。残念ながらこの映画はそこに至れなかったと僕は感じた。

Wednesday, January 04, 2006

MILLION DOLLER BABY

まさかこんな結末が待っている映画だとは知らずに観た。プロモーションからは、アカデミー賞を総なめにしたハリウッド映画で、貧しい女がボクシングで勝ち上がっていく物語…という先入観しか持たされていてなかったからか、頚椎を痛めたあとの展開は予想もしていなかった。彼女が絶頂に登り詰めた瞬間に倒れ、ぐぎっといく瞬間を境にして物語はずしんとした重みが積み重なっていく。映画を見終わってみると、そこからの後半15分で描かれる哀しみだけが記憶に残る。印象に残るのは怠け者一家の描き方だ。リングの中での事故も、全身不随もどこか映画の中の物語の域を越えないのだが、中盤で、必死で頑張って家を贈った母に「維持費が大変なんだよ」と言われてしまう場面。また見舞いに恰好つけてディズニー遊びほ呆ける無神経な家族を徹底的にクソ野郎に描ききることで、その対極にある絶望が二人を包み込んでいく様が現実味を帯びて立ち上がってくる。映画の中では絶望が徹底的に描かれるが、尊厳死がどうなのかの前に、誰にとってもすぐそこにある人の哀しみや痛みが胸に刺さる映画だった。いまもクリント・イーストウッドのしゃがれ声が耳に残る。

Tuesday, January 03, 2006

Howl's Moving Castle

邦題は「ハウルの動く城」。温泉宿の部屋にDVDプレイヤーがありフロントで借りてソファに座って観た。物語が進むに連れて、なんでこんな沢山の登場人物が出てくるんだろうとか、そもそもどういう背景で戦争が起こっているのかなど、次々に繰り広げられる突飛な展開が過ぎねぇかなぁと思っていた。それは見終わってから実はダイアナ・ウィン・ジョーンズという原作者がいて、彼女の書いた話を2時間の映画に押し込めたからだとわかった。これが原作までジブリであれば、家族揃って大人も子供も楽しんで「どきどきしたね」とか「面白かった」という事になるのだろう。正直言って「風の谷にナウシカ」や「隣のトトロ」が持っていた直接訴えかけてくるメッセージ力はこの映画にはない。「千と千尋」では、話がかなり複雑化していたが、ファンタジーから現代に戻る点を描いたので映画としての落とし処は押えていた。それに較べてこの映画は雑然としすぎていると言わざるを得ない。物語の展開も主軸が弱く数多くの枝葉との関係が曖昧となってしまっている。もし小さな子供とこれを見たら「どうして」と矢継ぎ早に質問攻めにあうんだろうけれど僕はたぶん答えられない。またラストに描かれるように当初から「愛」を主題に置いたはずだが要素の編込みを複雑にしてしまったせいで、そのメッセージさえも突飛に思うほどだ。城が動くから仕方ないのかもしれないが、扉を開けると常に世界観が変り、人々が殺しあう阿鼻叫喚の世界と清浄で平和な世界の繋がりがどんどん複雑になっていくように思った。普通の映画的手法から言えば完全に逆である。無数の枝葉を持った物語だが軸がしっかりしているファンタジー映画として「ロードオブザリング」や「ネバーエンディングストーリー」を思い出した。一方、絵の描き込まれ方やキャラクター作りはさすがジブリと言えるだろう。僕は「ヒン」としか鳴かないヒンという犬が気に入った。後でこの「ヒン」という鳴き声を原田大二郎が吹き替えしてると知り大笑いしながら余計に愛着を覚えた。ちなみに日本のオフィシャルサイトは映画そのものの内容が薄くて子供っぽい。アメリカのオフィシャルサイトはディズニーが作っているだけあってトレイラやギャラリーも充実していてさすがに質を感じさせる。