INFERNAL AFFAIRS
この映画を見た後に取ったノートへのメモはとても多かった。物語の構成をメモしている。さらに登場人物の関係を図式で書いて確かめている。そこにはラウとトニーの主役二人とそれぞれの愛する女性の関係図を描き、それぞれのパーソナリティをメモしているが、配役すべてに曖昧さのない個性を与えているところが素晴らしい、と思ったのだと思う。同時にまずその四人それぞれのライフスタイルの違いを表現するところに目が行っている。このへんは職業病なのかもしれないのだが、その生活水準や暮らしの環境を画面上で明快に描き分けるところに、大きな影響を与えている美術と衣装のスタイリングセンスについてのメモも多く取った。そもそもこうしたパーソナリティ設定の表現は絶対に欠かせない要因。そこにこの映画のように理性の軸において複雑さを与えた物語では、相当に練らないといけない。欧米の映画では、そこを黒人、白人、アジアン、ヒスパニックと人種を混ぜて描く場合も多い。同時に街にはスラムもあればミドルもアッパーもある。だから描きやすいと言えば描きやすいわけだが、そこでヘタな映画は「ステロタイプ」なという罠に自ら落ちてしまう事が多い。
それは誰にでもわかりやすい設定で、幅広い層に受け、興行収入を狙うアメリカ的な映画製作では、大きな問題とされない事かもしれない。だがこの映画の舞台は香港。さらに登場人物は全員中国人で現代人。我々が見ただけではノルウェイ人とスゥエーデン人の見分けが付かないように、ライフスタイル設定とその演出が見事に帰着していかないと国際舞台では物語が楽しめなくなってしまう…という部分に意識があったと僕は信じたい。そしてその視点はアンドリュー・ラウの過去の映画を考察する限り、監督と脚本の両方に関わったアラン・マックが持っている才能なのかもしれない。また一作目はあのクリストファー・ドイルが撮っているからか非常に美しいシーンが沢山あった。主軸の二人に加え、最後に見事な死に方をしてくれるウォン警視役のアンソニー・ウォンは堂々としているし、悪役だが人情家というサムを演じるエリック・ツァンの好演も新しさを感じる。またその枝葉と枝葉の行間を埋める脇役の演出にも無駄がない。そう、一作目はかなりポイントが高かったわけだ。だから続編を見た。そしてさらに完結編も観てみようという気にさせられ、三作を続けて見たわけだ。しかし三作目を観ている最中に、元々の一作目を見ていない観客は、これらの続編をどう見るのだろう…という思いがアタマを過ぎり始めて止まらなくなった。
普通映画は複数の立場から見たところを描きながら物語が展開する。そしてそれぞれの展開に同じ時間経緯を与えながら出来事を描いて行く。そして普通はその複数の物語を編み込み、一本の展開の中に収斂させていく。多くの要素を伏線として張り、帰結させるべく紡いでいく。そしてその編込みを考えて行かなければ関係性を描けず、物語として成立しない部分が出てきてしまう。そして脚本はそこが腕の見せ所となる。そういう基本に照らし合わせながら、この三部作を続けて観たとき、一作目に存在する出来事と時間経緯を動かさずに視座だけを変えながら作りえなかったのだろうか、という思いが過ぎったのだった。言い換えればそうできたかもしれないと思うほど脚本が優れていたと言うことかもしれない。そうした続編のあり方に意識が行ったのは単品としてそれぞれを観た時に楽しめるのか…という疑問を昨今の「スター・ウォーズ」を見たときに持ったことに拠る。壮大な物語を分割しパートごとに描くのは問題ないが、各作品ごとにアタマに物語の前提を長々と読ませる導入にどこかウンザリしたのだった。どうも僕は映画の本筋を追いかけながらも別のことを考えてしまう僕はまじで分裂症のようだ。
それは誰にでもわかりやすい設定で、幅広い層に受け、興行収入を狙うアメリカ的な映画製作では、大きな問題とされない事かもしれない。だがこの映画の舞台は香港。さらに登場人物は全員中国人で現代人。我々が見ただけではノルウェイ人とスゥエーデン人の見分けが付かないように、ライフスタイル設定とその演出が見事に帰着していかないと国際舞台では物語が楽しめなくなってしまう…という部分に意識があったと僕は信じたい。そしてその視点はアンドリュー・ラウの過去の映画を考察する限り、監督と脚本の両方に関わったアラン・マックが持っている才能なのかもしれない。また一作目はあのクリストファー・ドイルが撮っているからか非常に美しいシーンが沢山あった。主軸の二人に加え、最後に見事な死に方をしてくれるウォン警視役のアンソニー・ウォンは堂々としているし、悪役だが人情家というサムを演じるエリック・ツァンの好演も新しさを感じる。またその枝葉と枝葉の行間を埋める脇役の演出にも無駄がない。そう、一作目はかなりポイントが高かったわけだ。だから続編を見た。そしてさらに完結編も観てみようという気にさせられ、三作を続けて見たわけだ。しかし三作目を観ている最中に、元々の一作目を見ていない観客は、これらの続編をどう見るのだろう…という思いがアタマを過ぎり始めて止まらなくなった。
普通映画は複数の立場から見たところを描きながら物語が展開する。そしてそれぞれの展開に同じ時間経緯を与えながら出来事を描いて行く。そして普通はその複数の物語を編み込み、一本の展開の中に収斂させていく。多くの要素を伏線として張り、帰結させるべく紡いでいく。そしてその編込みを考えて行かなければ関係性を描けず、物語として成立しない部分が出てきてしまう。そして脚本はそこが腕の見せ所となる。そういう基本に照らし合わせながら、この三部作を続けて観たとき、一作目に存在する出来事と時間経緯を動かさずに視座だけを変えながら作りえなかったのだろうか、という思いが過ぎったのだった。言い換えればそうできたかもしれないと思うほど脚本が優れていたと言うことかもしれない。そうした続編のあり方に意識が行ったのは単品としてそれぞれを観た時に楽しめるのか…という疑問を昨今の「スター・ウォーズ」を見たときに持ったことに拠る。壮大な物語を分割しパートごとに描くのは問題ないが、各作品ごとにアタマに物語の前提を長々と読ませる導入にどこかウンザリしたのだった。どうも僕は映画の本筋を追いかけながらも別のことを考えてしまう僕はまじで分裂症のようだ。
0 Comments:
Post a Comment
<< Home