Wednesday, December 03, 2008

CAPOTE

この映画が公開されると聞いたとき、真っ先に思い出したのは35年前に読んだ「冷血」という本が持つ、遅々として進まない語り口だった。ある田舎町で起こった一家惨殺事件を主題に、事件簿という要素だけでなく、惨殺された家族4人と事件を起こした犯人たちがどういう人間だったのかを報告する膨大な、そう、文字通り膨大な記録を淡々と読み続けていく中に、ここまで微細な情報がこのひとつの小説に必要なのかよ…という疑問符が数え切れないほど何度も何度も自分の中に浮かび上がって来たのを思い出した。でも「冷血」は確かに事件簿ではなく小説家が書いたものだった。この小説は「ノンフィクション・ノヴェル」とカテゴライズされたらしいが、当時の僕はまだ15歳。半分は苦痛、半分は乗りかかった船の帰着まで知りたいの両面を、揺れに揺れながら読み終えた記憶がある(結構長いんだよね)。そのせいか、僕にとってのカポーティは「ティファニーで朝食を」の原作者というイメージはまったく存在しない。彼は「冷血」を書いた人でしかない、と自分に位置づけなければならないほど「冷血」は強烈に自分の中に残っている。そういう自分側の事情もあるからだろうか、今もその理由は明快ではないのだが、この「カポーティ」という映画が公開されると聞いて、すぐに映画館に行くことが出来なかった。何をしたかと言えば、アマゾンで「冷血」を買って読み直したのだが、再度読み終えるのにも随分と時間がかかった。それなりに大人になったのだから、あの子供の頃とは違ってスイスイ読めると思ったのが間違いだったようで、15歳の頃の僕を悩ませた一行一節の濃密さは変わる事なく、またそこそこ経験をつんできた僕をして、余計に詳細なディティールが喚起されるという結果となり、これだけのものを活字にして詰め込むというのは、いったい何なんだろう、と思わざるを得なかった。さて、映画はちょうどその「冷血」を書く期間のカポーティを描く。この映画の中で紡がれる出来事がすべて真実なのかどうかはわからないが、事実だ、という前提でこの映画を見るしかない。しかし、そういう視点に立つと、カポーティが目指した「ノンフィクション・ノヴェル」というものが孕む矛盾が徐々に見えてくるように映画は構成されている。自分の小説のネタ集めのために、あらゆる力を動員し、札束をばら撒き、犯人の背景を探るために延命措置として控訴審までお膳立てし、犯人に近づき、嘘を語って心を開かせ、多くの告白をさせ、自分は君の友達だと言い続けるわけだから、彼は一流の詐欺師でもある。そもそも書く側と書かれる側の間には大きな開きがある。そこがバレないように事件当事者たちを騙しながら自分の利益のために立ち回るわけだが、善悪の二面性を自分で気づき、その深い闇に落ちて行ったカポーティが描かれる。映像は静かだ。カンザスは風景を印象的に。NYCのスノッブなシーンも控えめに。刑務所もシンプルで淡々と描く。だけど正直言うと、定番な撮り方ばっかりで空気感が弱く、絵的にもシーモアの演じる暑苦しいコポーティの顔が常に画面に出ているという印象だ。まぁ、シーモアはそれに耐えるだけの演技はしているが、もう少し照明と撮影で色々な感情表現をしてもいいんじゃないかとは思った(控訴が進んで死刑執行がいつになるかわからないって悩みながらパーティに行くがバーで一人で飲む場面の照明とかは逆にあざとくてうざい)。一方、衣装や美術は、かなり丁寧にアメリカの各所のスタイルを描こうとしている。カンザスはカンザスっぽく、NYCはNYCのライフスタイルっていう描き方だが、丁寧さはいいんだけれど、全体に清潔すぎるんだな。それが1960年頃の少し上質の生活あたりを営んでいることがわかる演出だって言われたらそれまでだけど…。でもこの映画、なんかそういう清潔な印象を強調することで、観客を惨殺事件そのものに眼を向けさせず、傍観者から当事者になってしまったカポーティに意識が向くように作られたのかもしれない。そう読み取れば、正しく深く明瞭なアートディレクションが存在しているってことになる。

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