Thursday, November 24, 2005

BASQUIAT

正直言って僕は涙なしにはこの映画は語れない。ジャン・ミッシェル・バスキアは間違いなく天才だった。もし今も生きていれば、ラウシェンバーグのように偉大なる芸術家として世界を動かしていたはずだ。それがこの映画において証明されたような気がして、ジャンの盟友だったジュリアン・シュナーベルの深い想いが伝わってくる。映画で描かれるすべての物語は現実の物語であり、同時にそれが自分が青春として生きた時代の出来事であり、さらにNYCで起こっていたそのひとつひとつの出来事に遠く離れた日本で十分に影響を受けていただけに、映画の中で描かれるすべてのシーンが胸を突く。そうした個人的な思い入れがあるからか、途中から映画ではなくドキュメンタリーを見るような思いになった。「ジョー・ブラックをよろしく」で輝き切っていたクレア・フォラーニ演じるジーナとの生活は、まるで食えなかった頃の自分に重なって胸の奥がチクチクする。ボウイをはじめ、デニス、ゲイリー、ウィレム、クリストファー、トロ…。もう完璧だ。この映画だけは、映画が良いか悪いかという尺度に立ってのコメントができない。何もかもが現実のものと重なってしまう。これほど自分がこの時代のアートに影響を受けていたのかと改めて気づかされるほどだ。マイロのロフトにジャンが訪ねる場面での赤の美しさは、画面に映し出される目で見える色を越え、当時受けたインパクトの記憶が重なって僕の目に映る。アンディのスタジオとジェッソで下塗りされたキャンバスの白さも同じだ。さらに映画の中には登場しないアンディとのヴァーサスエキシビジョンの作品が頭を過ぎる。ラストのアンディの死の知らせが映画で観てではなく本当に悲しかった。見終わって思わずバスキアの作品集と、アンディの回顧展の本を本棚から降ろして見入ってしまった。ジャンとアンディの魂よ永遠なれ。

Sunday, November 20, 2005

MAGNOLIA

素晴らしい。こんな映画いままで見たことない。練りに練られた脚本。完璧な衣装と美術。印象的な映像。見事な配役と演出。そして、それらをさらに紡ぎあわせ練りこまれた編集。こんな映画に出会ったことがない。まるで個別の物語と思える話がどんどん加速しながら一本に束ねられて行く。こんな映画を思いつく才能に、底知れないものを感じる。最後までとにかく目が離せない。画面から目が離せない度でいうと過去最高だったかもしれない。ものすごく複雑な物語を追っているようで話が展開するたびにすべての糸が一本に撚り合わさっていく。だから複雑ではあるが見終わったときにはすべてが収斂されているので混乱はない。しかしそれは一瞬たりとも目を離さずに見続けていかなければならない。そこがとても力強くて素晴らしい。構図や照明、美術や衣装、そして全体の構成と全編に亘って練られ尽くした映画だと感じ続けながら観ただけに、書き残しておきたいことだらけ。まずはエントリーの形を先に作っておく。

Friday, November 18, 2005

THE LIFE OF DAVID GALE

まったくもって難しい問題をテーマに据えたものだ。難しいという意味は誰が正しくて誰が悪者かという定義が出来にくい話を物語の主軸に据えたことである。死刑そのものが物語のテーマとなっているが、法が人を殺す権利があるのかというような社会悪の側面でもなく、もう一度考えてください…という語りかけも主ではなく、死刑囚も人間ですというようなプロパガンダに立つでもなく、死刑囚となった犯罪者をステロタイプに分析させるわけでもなく、冤罪の悲哀を描き出すわけでもない。ドラマは主人公のデヴィッド・ゲイルが自ら演出したものであるから先に書いたような死刑がどうだというところはあくまで伏線としてしか存在し得ない。ジャーナリストをそこに位置させて真実を観客とともに追いかけていくのは映画として成立させるために脚本で練られたものだろう。ここにあるのは人生に生き詰まった男と女が繰り広げる悲哀の人生ドラマ。人間はこういう友情の持ち方が出来る生き物だと言いたいのだろうか。

Wednesday, November 16, 2005

INFERNAL AFFAIRS

この映画を見た後に取ったノートへのメモはとても多かった。物語の構成をメモしている。さらに登場人物の関係を図式で書いて確かめている。そこにはラウとトニーの主役二人とそれぞれの愛する女性の関係図を描き、それぞれのパーソナリティをメモしているが、配役すべてに曖昧さのない個性を与えているところが素晴らしい、と思ったのだと思う。同時にまずその四人それぞれのライフスタイルの違いを表現するところに目が行っている。このへんは職業病なのかもしれないのだが、その生活水準や暮らしの環境を画面上で明快に描き分けるところに、大きな影響を与えている美術と衣装のスタイリングセンスについてのメモも多く取った。そもそもこうしたパーソナリティ設定の表現は絶対に欠かせない要因。そこにこの映画のように理性の軸において複雑さを与えた物語では、相当に練らないといけない。欧米の映画では、そこを黒人、白人、アジアン、ヒスパニックと人種を混ぜて描く場合も多い。同時に街にはスラムもあればミドルもアッパーもある。だから描きやすいと言えば描きやすいわけだが、そこでヘタな映画は「ステロタイプ」なという罠に自ら落ちてしまう事が多い。

それは誰にでもわかりやすい設定で、幅広い層に受け、興行収入を狙うアメリカ的な映画製作では、大きな問題とされない事かもしれない。だがこの映画の舞台は香港。さらに登場人物は全員中国人で現代人。我々が見ただけではノルウェイ人とスゥエーデン人の見分けが付かないように、ライフスタイル設定とその演出が見事に帰着していかないと国際舞台では物語が楽しめなくなってしまう…という部分に意識があったと僕は信じたい。そしてその視点はアンドリュー・ラウの過去の映画を考察する限り、監督と脚本の両方に関わったアラン・マックが持っている才能なのかもしれない。また一作目はあのクリストファー・ドイルが撮っているからか非常に美しいシーンが沢山あった。主軸の二人に加え、最後に見事な死に方をしてくれるウォン警視役のアンソニー・ウォンは堂々としているし、悪役だが人情家というサムを演じるエリック・ツァンの好演も新しさを感じる。またその枝葉と枝葉の行間を埋める脇役の演出にも無駄がない。そう、一作目はかなりポイントが高かったわけだ。だから続編を見た。そしてさらに完結編も観てみようという気にさせられ、三作を続けて見たわけだ。しかし三作目を観ている最中に、元々の一作目を見ていない観客は、これらの続編をどう見るのだろう…という思いがアタマを過ぎり始めて止まらなくなった。

普通映画は複数の立場から見たところを描きながら物語が展開する。そしてそれぞれの展開に同じ時間経緯を与えながら出来事を描いて行く。そして普通はその複数の物語を編み込み、一本の展開の中に収斂させていく。多くの要素を伏線として張り、帰結させるべく紡いでいく。そしてその編込みを考えて行かなければ関係性を描けず、物語として成立しない部分が出てきてしまう。そして脚本はそこが腕の見せ所となる。そういう基本に照らし合わせながら、この三部作を続けて観たとき、一作目に存在する出来事と時間経緯を動かさずに視座だけを変えながら作りえなかったのだろうか、という思いが過ぎったのだった。言い換えればそうできたかもしれないと思うほど脚本が優れていたと言うことかもしれない。そうした続編のあり方に意識が行ったのは単品としてそれぞれを観た時に楽しめるのか…という疑問を昨今の「スター・ウォーズ」を見たときに持ったことに拠る。壮大な物語を分割しパートごとに描くのは問題ないが、各作品ごとにアタマに物語の前提を長々と読ませる導入にどこかウンザリしたのだった。どうも僕は映画の本筋を追いかけながらも別のことを考えてしまう僕はまじで分裂症のようだ。

Friday, November 11, 2005

THUNDERBIRDS

自分でもホント馬鹿馬鹿しいと思っていながらも、実写版でのペネロープのピンクの車が見たくて仕方なくて「サンダーバード」を観てしまったのだが、結局、やっぱり僕は昔の糸で釣られてひょこひょこ歩くパペット版の方が全然いい。映画は徹底して子供向けに作られている。子供たちが感情移入しやすいように思春期の子供たちがヒーローになるという映画作りになってしまったのは残念だ。それにこの出来では続編は難しいのではないだろうか。その気になれば「スター・トレック」のように大人の映画にも出来たように思う。物語の突飛さで言えば「007」シリーズにも匹敵するわけだし、有名度という意味ではジェームス・ボンドやバットマンやらスパイダー・マンに負けはしない。それに「謎の大富豪」という設定もあるわけだから、そもそもトレイシーには謎が多いわけで、この映画の中でも「お母さんのことを話して」という場面があるように、そのあたりからでも、どうにでも描けただろうに…と残念なわけだ。興行収入を考えるとこうなってしまうのか。単にプロデューサーたちの力量不足か。いずれにしろ無茶苦茶中途半端で悲しい。唯一許せるのはペネロープのピンクづくしの衣装とネイル。これは当然全部映画用に作られたものだと思うが、それなりに見ごたえがある。それ以外は徹底的に悲しい。宇宙船内部のセットも悲しい。意味なくロンドンブリッジの下をくぐる演出も悲しい。さらにロンドン銀行の金庫のセットのお粗末さもものすごく悲しい。それぞれのサンダーバードの操縦席の操作パネルデザインのお粗末さも悲しい。ていうかそもそもあんなどデカいキャップ型のロケットがすんなりロンドンに着陸するわけもなく悲しい。さらにあの「ガンジー」で惚れぼれしたベン・キングズレーが得体の知れない敵役を演じていることが悲しい。さらに彼のスタッフがたった二人というのも悲しいし、悪役たちが来ている衣装というか甲冑というかあたりも悲しすぎる。トレイシー島の遠景描写はCGで取り繕っているが中央制御室の内装や説得力のない金属の質感がかなり悲しい。さらにトレイシー宅の設計も洗練されていなくて悲しい。さらにペネロープがカンフーで頑張るリビングのインテリアに見る美意識の貧困さがたまらなく悲しい。極めつけはプールサイドでのパーティ。プールではしゃぐ子供たちのトランクスのダサさに加え、食べているのは典型的なアメリカン・バーベキュー。おぉ、おぉぉ、と、とにかく目に映るものすべてがお粗末で、悲しいばかりの時間だった。被虐的に時間を過したくなった時にこの映画を見直すと元気が出るかもしれない。

Sunday, November 06, 2005

COLLATERAL

とにかくこの映画でもお金の配分が悪いと思ってしまった。どうしてこんなに偏った予算配分になってしまうのか理解がむずかしい。トム演じるスゴ腕の殺し屋を雇っている側のリアリティ表現が徹底的に欠けていて何度も途中に醒めてしまう。なんであんな場末のクラブでこれ見よがしに派手に飲んでるかなぁ。場末という表現はしっかりされているのにワルの中にもあるクラス感が欠けていて腑に落ちない。僕の知る限り、いまどきのヤクザはもっとスタイリッシュだし、あんな遊び方をしてるのは末端の末端のいわゆるチンピラさんたち。ワル側の描写は、この作品として重要ではないと決めたにしろ、元々の殺意は物語の底辺を流れる根幹にあたる部分。ある程度の俳優も置かず、そこを描こうともせず、ステロタイプに「裏の世界で悪いことしてお金を得ている人たち」と安易な設定で済まされてしまってはどうも物語に入り込めない。それはノートのメモにも書いていて「悪者側の描き方がいい加減。すごくわかりやすい悪人の演出。ファッションもキャスティングも演技もダッサダサ。全部っぽいでしょという観客側に媚びたモノ作りの姿勢にウンザリする。同時に、刑事も、マフィアも、検事も、もっとリサーチして欲しい」という具合に枝葉の描き方に対する不満足が書かれている。一旦それは置いておいて、良いところを探すと、もうジェイミー・フォックスしかいない。彼が断然光ってしまっているのはトム的にはどうなのだろう。映画のタイトルである「コラテラル」は「巻き込まれる」という意味なわけで、映画の主人公はジェイミー演じるマックスが主演として観れば悪くない映画ってことになる。そう見れば逆にトム演じるヴィンセントも悪くない演技を披露している。だが、どこか冷徹な殺し屋に見えない甘さの残し方はどうなんだろう。ミッション・インポッシブルでもその部分が気になった。キャプチャした場面はいきなりズドンとジャズクラブのオーナーを殺す場面。それにジェイミーがうゎっちっちと冴えた演技を見せるわりにトムは普通にしてるだけに思えてしまう。白髪にしてキャラ変えようとしたのかもしれないけれど、トムはこういう役はもうやめた方がいいと思うのは僕だけだろうか。正直「ラスト・サムライ」でのトムの演技は本当に素晴らしかったと思うし、酷評されている「宇宙戦争」のトムも僕は好きだ。結局この映画、見終ってみると何も残らないことに気づく。そう。テーマも何も、噛み締めるモノが見終わった後に何も出てこないのだ。何を描こうとしたのか読み取れない僕が間違っているのかもしれないが、どうも後味が悪い。

Thursday, November 03, 2005

THE PELICAN BRIEF

ジョン・グリシャムの原作は読んだ。それを読むに至った経緯やその本を手にした時の記憶は大切で忘れられない思い出ではあるが、ここでは映画のことを書こう。正直、ダービ-役がジュリア・ロバーツだというキャスティングを知った時にどうなのかなぁと思った。僕のイメージではもっと知的であって欲しかった。ジェニファー・コネリーあたりのイメージが近い。美しいけれど滑稽さも持ち合わすジュリア・ロバーツはどちらかと言うとユーモアの入った役が似合うと思っている。原作のダービーは芯に強さは持っているが一見すると逃亡劇など考え付かないようなか細い女である。そこを聡明さのみで抜け切って行くさまが原作の面白さだった。なによりジュリアは老けすぎていてとても大学生に思えない。キャラハン教授のサム・シェパードは外していない。僕のアタマの中でのイメージは今ほど年老いていないクリント・イーストウッドだった。原作ではグランサムを黒人として書いていなかったように思う。デンゼルも悪い役者ではないが、彼は違うと感じた。欲を言えばトム・ハンクスだろうか。そんな違和感を持ったまま映画を見始めてしまったためだと思われるが、今思い出そうと思うのだが、どうも映画の中身を覚えていないので再度見直してみたが、どうも原作との比較で見てしまう。キャラハンが爆破されるのはフォードだがポルシェじゃなかったっけ。しかし恋人が目の前で爆死したときのジュリアの演技は最低だ。演技力のない女優の典型の演技を見るようでもある。悪賢い補佐官を際立たせるためとはいえ大統領をここまで馬鹿に描く必要もないだろう。衣装も悪い。意識的に通販の服っぽくしているのかもしれないがセンスが悪すぎる。美術も駄目だ。目を引くような美しさがない。カメラワークも特筆する部分はないしシネスコの良さをまったく生かせないレベルで、テレビドラマを見るような印象はそのせいかもしれない。結局のところ音楽も編集も何かを見出すモノがなかった。記憶に残らないのは仕方ないのかもしれない。

Tuesday, November 01, 2005

SWORDFISH

swordfish screen imageこの映画のメモをノートから拾おうとしたが、とにかくメッタ切りにコメントが書き殴られていて自分でも笑ってしまった。僕はこの映画を観たとき、相当アタマに来たらしい。以下、そのままメモを拾って書いてみる。「面白く作ろうとしたところが全部裏目に出た駄作」。「ハル・ベリーのセクシーさをプロモーションするために作られたようだ」。「とにかくストーリーの脇を固める部分にお金が使われていない」。「どのシーンでも説得力が弱く、疑問符の連続」。「カーアクションのシーンにしてもツメが甘い」。「別の作品に仕上げてやるから俺に編集やらせろと言いたい」。と、こんな感じだ。言わんとすることは今も変らない。スタンレー演じるヒュー・ジャクソンの弱々しさも目をつむろう。「オーシャンズ11」シリーズで味を出すドン・チードルや、「ライト・スタッフ」のサム・シェパードなど脇もばっちり。ジョン・トラボルタもハル・ベリーもこういう感じしか出来ないのかよと思うけれど、この映画の役どころは二人ともハマリ役そのもの。じゃぁなんで楽しめないのかを探っていくと、結論として編集が最悪という思いにいたる。物語りもやろうとしてることも悪くはないと思いたい。大量の人員と巨額の費用をかけたワンシーンがある。しばらくすると同じようにすっごいお金がかかっただろうなと思うシーンが来る。しかし、その間を繋ぐシーンが手抜きだらけなのだ。同時に映画全体に亘ってのリアリティに対する緊張感が欠けている。伏線の派手さに対してピンチになる部分のトリガーが安易すぎる。なんでこんなに周到な計画が立てられるチームが派手なパーティをキッカケに足がつくのかお腹に落ちない。バスが宙釣りになってヘリに運ばれていくシーンでも、通行止めで撮影してるのがバレバレの引きの絵をなんでくどいほどインサートするのかわからない。そうしたことでいっぺんに醒める。冒頭の爆破シーンでタイムスライスの進化版とか見せつけられてうぉっとなったも束の間と言う感じで、盛り上げては醒める。続きそうで続かない。最後の最後までまるで煮え切らない映画だった。僕とは違って褒め系のコメントを読むなら蜂賀亨が書いてるUNZIPあたり。ホント最近ビジュアルエフェクトでどだっていう作品が心に残らない。