Wednesday, April 26, 2006

Something's Gotta Give

深く考えながら作品に触れなければ、それはただの映画鑑賞になってしまう…と自分に強く言い聞かせながらの3月は総数22本、そのうちココにノートを残した作品だけでも15本と、ある意味ですごい勢いで映画を見たわけだが、それはそれでさすがに勉強になった。4月に入ってからは色々と状況も変ってなにやら忙しく、移動の時間も多くなったこともあって読書の機会が随分と増えた。さらに本は読みかけると読み終えたいわけで、どこにでも持ち歩いては栞を挟んでは読み、食べながら読み、寝る前も読むということになる。これが本というメディアの最大、且つ替えがたい利点であり特徴で、映画やインタラクティブはこうはいかない。そんなことで結局のところ4月は映画を数本しか見ることがなかった。さてこの映画、どんな作品に出ても全部自分の世界に強引に連れ込む曲者ジャック・ニコルソンが、若い女好きのスケベ親父役で主演というのだから期待してしまう。相手役にはあのダイアン・キートン。あの、の意味はウッディ・アレンをすぐに思い出してしまう意味と、確か昔ジャック・ニコルソンと付き合ってたはずじゃなかったけ…の意味での、あの。さらにキアヌ。この映画はマトリックスと同時期の製作なわけで、だけど結局、「コンスタンティン」で、元の木阿弥。どうなんですかね。邦題は「恋愛適齢期」。原題のガッタギヴのニュアンスは「なんとかしなきゃーょ」っていうぐらいの意味で使われる言葉…だったと思う。違うかも。まぁいいや。しかしまぁ、ジャックもダイアンもビックリするほど老けましたな。特にダイアンがちょっと悲しい感じだけれど、まぁ、ジャックも含めて、いまどきの60歳ってこんな感じかもな。で、映画だけど、正直言ってつまんない。物語がどうにもクサいし、金の心配のいらない熟年の男と女が過す時間なんて、全然リアリティが持てなくて感情移入のしようがない。ダイアンの笑い顔と泣き顔は全部同じ顔で同じアクションで飽き飽きする。そもそもロングアイランドのハンプトンズにサマーハウス持ってる人間だぜ。さらに熟年のいちゃいちゃを、いったい何分見せ続けるんだよっていう感じ。さらにやってることがまるで子供じみてて全然知性を感じないし、全然どきどきもしない。マンハッタンに戻ってからすぐのエリカが取り乱す場面も、演技はしているのはわかるが、ずーっとずーっと、どうなのよ、どうなの、という状態が続く。でも、それがジャック・ニコルソンの出ている映画のパターンだと気づいたのは、映画が終わってからだった。だけど、何よりつまんないのは、ハッピーエンドだからだ。「アバウト・シュミット」のように、あのままハリーがバトームーシュを見ながら、さめざめと泣いて終わってくれればまだ見れる映画だったということにしてもいい。でもそこでエリカが戻ってくるって、ったくクリスマスシーズンの映画興行成績戦線に向けて作られた脚本が丸出しで正直言って後味悪い。で、気分を変えて、この映画からはラグジャリな生活スタイルの描写を学ぶことにしよう。その視点で見れば物語がどうかを置いておいて少しは勉強にはなるかなと思った。しかし、なにせ美術の趣味趣向がアメリカ式のリッチなので、屋敷はデカいんだけれども、全部どこかのカタログで見たことがあるようなインテリア趣味。それはハンプトンズの家でも同じで、アメリカの主婦があこがれる世界観って言うのはこういう暮らしを指すのだろうか。味わいのカケラもない。一見、色彩もうまく合わせてあるように思うが、質感が画一的で、本当に見てられない。実際にある家を片付けて、それらしくセット風にモノを持ち込んだだけというような薄っぺらさが目に付く。そもそも家族の場所でもあるのだろうが、脚本家という主人公の役柄からすれば、もう少しあるべき本棚があっても良さそうなものだ。だがそうした知性を感じない。つまりそれはエリカを意味なく馬鹿女に感じさせてしまう。エリカに関しては、どこを取っても、ひとつひとつのモノが、どうも意味を為していないということで、他の美術が優れた作品に比べると、底が浅いというか、考え、練り尽くされたような印象はカケラも感じなかった。ハリーの屋敷も結局部分的にしか見せない。だからハリーの美意識や価値観が伝わってこない。仮にも成功している人間なんだから、南の島に行くとはいっても、その格好はないだろう。そこでも結局つまらなかった。興味深かったのはサザビーズのオークションディーラーの仕事をしている娘の部屋。キャプチャを上げて記憶に残しておきたいと思わせたのは、白い大理石のトルソー。これは美しかった。

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