Monday, February 13, 2006

Cinderella Man

さすがにロン・ハワードにラッセル・クロウ。外さない映画を作る。男、女、家族、信念、愛、挫折、屈辱、情熱、友情、貧乏、悲哀…と、よくまぁ織り込んで編みこんだもんだと感心する。クリフ・ホリングウォースの原作を「アイ・ロボット」や「ビューティフルマインド」を手掛けたアキヴァ・ゴールズマンが脚本として組み立てたようだが、アキヴァがやっぱりすごいって事なんだろう。映画ではボクシングというスポーツを描くが、舞台は大恐慌の煽りを受けた哀しき貧乏一家の物語。良かった時代からどん底への一転を、箪笥の上に並ぶドレッシング小物の質の違いを持って表現する手法も見事。また壁紙そのものの質などにも目を奪われる。照明も素晴らしい効果を出しているが、肉厚の金時計や絹のレースなど、その小道具の一点一点に細かい配慮が見出せて楽しくなる。またNYCが舞台だから変に土地勘も働いて、ブラドックが港湾仕事を得るために相当歩かなきゃならなかったあたりまでキチンと描かれていて構成に手抜きがないこともロン・ハワードらしさの一端を見る。物語の終盤に延々と続くラウンドの場面でも目を逸らせない構成が見れる。その継続性には本当に舌を巻く。当然リング上での駆け引きや闘いの様子はあの手この手で描かれるが、その試合の展開を見守る数多くの情景が次々に差し込まれる。仲間たちの集う酒場、教会、姉の家の子供たち、リングサイドの新聞記者、マディソンスクエアガーデンの顔役たち…。彼らが徐々に目を見張っていく感情に観客を巻き込んで行こうという思惑が見事に具現化されていて、否応なしに頑張れという応援の一員にされてしまう。本当に、どの場面も印象深いが、それはロン・ハワード好みの撮影手法と編集で重ねるテクニックがこの映画でも如何なく発揮されているからだろう。同時に何気ない場面であっても印象を強めるためにはどう構成すればいいのか…という点ではとても勉強になる映画だ。二人が対話するシーンは当然一方に一台という画面と引きの絵を映して状況を示すアングルがあるわけだが、焦点を移動させるフォーカシングと徐々にクローズアップしていくモーションによって8台ぐらいカメラを回しているような錯覚を覚える。もちろん決めのフレーミングがとても美しい。親分プロモーターのジョンソンのオフィスでマネージャーのジョーがジムとの試合を捻じ込むシーンはそうした映像的演出がすべて入っている。このシーンではジョンソンの持つ葉巻からシーンが始まるように、寄りの場合は小道具が重要な役割を果たす。盗んだサラミを返しに行ったあとのジェイとジムの会話も歩く二人を引きで撮り、立ち止まってから両者を映す固定構図になるがジムが腰を曲げて座り込む動きに合わせて構図が徐々に動き、最後に抱きしめてから立ち上がり、歩いて画面からワイプアウトするまでの流れるような流れも教科書的な演出として学習する。キメ絵が中引きの場合は手前と奥に人物や大道具がボケで入る基本の絵づくり。人が沢山いてカメラが左右に動く場合は要素が込み合って散漫な絵になりがちだが、そこをこの映画では色と柄を構成した衣装で見事に美しく仕上げていく。教会の前で開かれる誕生パーティで子供や母親たちの表情を組み込みながらジムと牧師が会話するところに軸を持っていくシーンはそこが見事だ。ジムが着ているブリティッシュグリーンのシャツが映える色柄の衣装だけでこのシーンが構成される。ワンピースもあればセーターもあり全員違う衣装だが色彩感はひとつにまとめていて美しい。ラッセル・クロウとレネ・ゼルヴェガーはもう文句なしの演技と言ってもいいと思う。二人とも美形じゃないし普通のオッサンとオバサンのキャラなわけだが二人とも一目瞭然に一流の俳優としての存在感が滲み出ている。そしてそれがルックスではなく演技の力であることを如実に示し続ける彼らにアカデミー受賞俳優の底力を見る思いがする。余談だが彼女の名前の片仮名表記はレネ・ゼルヴェガーではなくレニー・ゼルウィガーなのだろうか。どうも発音がむずかしい。余談ついでに変に気になったのはタイトルマッチ直前にジムがマックスとサロンで鉢合うシーンでジムの切り返しに笑うフラッパーガールのロマーナ・プリングルの扱いだ。その他大勢のエキストラの中で彼女がやけにフィーチャーされて記憶に残った。ロン・ハワードが何か企んでいるのかもしれない。

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