Saturday, April 01, 2006

SIDEWAYS

三月はかなりのピッチで映画を見たわけだが一本ずつノートをまとめる作業も含めるとかなり時間を食う。また、映画を見続けていると、また前のように本も読みたいし美術館にも行きたいという気持ちになってくる。でもそれは正しい反応だと自分では思っていて、映画は凝縮されたものを見る行為なので味わいがどうも一方的に渡されたものの解析作業になってしまう。その反動として、活字によって想像力を働かせたり、美術を前にして受動力を高めたくなるのは当然なのだ…と思うわけだ。なので映画の方はちょっとペースを下げるつもり。さて映画だが、単に聞こえの善し悪しなのかどうか「ズ」が抜かれる真意が不明なのだが、邦題は「サイドウェイ」。「グリーン・デスティニー」を見てまた構成と脚本のバランスに意識が行ったこともあるが、とにかく「ビー・クール」での失敗の余韻を一掃するために、アカデミーで脚本とか脚色で賞を獲った作品でも見て、もう一度良い映画とはどういうものかを考えたくなった。映画が始まってから彼らが出発するあたりまでの数分でその期待は満足に向いた。出かけようとする二人の会話だけでわくわくしてくる。主人公の設定が作家系の映画は数多いが、どれも知性のあるセリフが交わされるところが好きだ。と思った途端においおい母親のヘソクリ盗んじゃうのかよ。なんちゅーダメ男と思いきや、彼の繊細さの表現の一環。最初のワイナリーの案内のシーンは面白い。観客をそのまま薀蓄屋にしてしまいそうな勢いのたっぷりな情報量をどっさり盛り込みつつぐいぐい引っ張る。良い脚本ってこうじゃなくちゃという感じ。「ガム咬んでるのか」のセリフで締めくくるあたりもうまい。男二人の状況がほぼ見えて来て、中年丸出しの彼らそれぞれが背負っている大まかな背景も設定完了。さて、ここから物語が始まるというところで約20分。つまり全体の一割で設定を完了し、展開に移るという基本もばっちり。夜道を二人で話しながら正面向いて近づいてきて、マヤを登場させるシーン。そして同じ夜道を二人で後姿で話しながら遠ざかっていく。この構成はすごくさりげないけれどシンメトリカルな撮影演出になっていて強制的に時間経緯を意識させる。これは覚えておきたい。途中ワイナリー回りの場面で画面分割の手法があるが、ジョージ・クルーニーの映画ならまだしも僕はこういうのは好きではない。まぁでもその直後にステファニーの登場ってことで勢いは止まっていない。さぁこれで役者が揃ったと思ったとたんにマイルスの前妻の再婚を聞いてがーん。ここにこれを持ってくるのも脚本の技だ。いよいよ4人揃ったところで40分。すごいなぁ。ちょうど二割。映画の世界ではあたりまえの基本なのだろうが、ここで余計な伏線は土曜日の結婚式を残して皆無っていうところが素晴らしい。レストランでの四人の食事。その後のマイルスが酔っ払って電話をするところの撮影が興味深い。引きの絵はほとんどナシで短い被写界深度のクローズアップ。マイルスが動くのでピントがボケたり来たりするのが、まるで酔っている表現になっている。後半にマヤに会いにレストランに行くが一人で飲みすぎて千鳥足で帰る場面でも同じ手法が見出せる。引きの絵ではあるが酔っ払ったときの揺らぎが伝わる。これは初めて意識した手法だが、おぼろげな意識状態を表現する素晴らしいアイデアだ。余談だがステファニーの家のようにテラスにもソファを置くような生活に前々から憧れている。だが日本では初夏と晩秋のみ可能という気候では、ソファを捨てる覚悟が必要なスタイルに中々踏み切れない。ロスやナパのような気候でこそのカウチだがここは日本。白一色の雪景色から鮮やかな紅葉まで、四季の変化が楽しめる気候では、やはり縁側のある日本古来の住み方を望むべきなのだろう。だが今の東京ではそれの方が難しい。日本に住んでいるのに、日本を楽しみにくい住宅スタイルしか手に入らないというのは皮肉なことだ。揃った四人の設定も主軸を外さず物語は展開していく。結局、登場した順にそれぞれが消えていく。残るのはマイルス。そして階段を登ったところでの終わり。どこかフランス映画的な余韻を残しての幕引きは、なんとも素敵な終わり方だと感心した。アレクサンダー・ペインが監督した「アバウト・シュミット」は飛行機の中で観たのだが、ジャック・ニコルソンが涙するラストシーンで思いもせずもらい泣きした記憶がある。この作品でもやはりラストに引き付ける力はペインらしいと言えるのだろう。

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