Thursday, February 02, 2006

TROY

勝利したのは兵士だと言うアキレスの言葉を押しつぶすように歴史に残るのは国王だと言うアガメムノン。このイデオロギーは西洋も東洋もなく歴史に名を残す王に共通したものだと思うが、それに従って現場で闘う男たちを現代から傍観すると、そこには戦士としての誇り以外に闘う理由が見出せない。国と国の争いを決闘だけで決着させうることが出来た思想とは何であろう。負けた側はそれで絶対服従を宣言され奴隷となるのに、である。そこには最も強く、且つ最も誇り高き戦士として生きた存在となりたいと願う、男たちの共通した目標があった事を示している気もする。正々堂々としていること。後々に語り継がれても子孫が誇れる生き方と死にざま。王子が目前で死ぬのを見守れる王がいる。それは単に殺されたのではなく敗れた結果としての死である。だからこそ王は見守れる。息子の誇りを優先する。死という結果ではなく、いかに…というプロセスに重点が置かれる思想社会。そこに武士道精神を垣間見るのは僕だけだろうか。

この映画は、なぜか物語そのものではなく、その奥にある物事への連想ばかりが頭を過ぎる映画であった。そうさせたのはこの映画の舞台の描かれ方のせいかもしれない。ほとんどすべてがコンピュータの仕事だと知ってしまったせいで、ありえないスケールでの戦闘も、リアルに描き切った古代の都も、すごいなとは思うがそれまでである。確かに千艘の船がエーゲ海に並ぶ景色も平原を埋め尽くす兵士も凄い迫力だ。しかしそういう光景は今や歴史物には必ず登場する見慣れてしまった光景でしかない。その点では「キング・アーサー」や「アレキサンダー」の方が上であろう。壮大さを描く要素を抜きに古代物語の映画は成立しないのであろうが、今後はますます数という要素だけではなく、映像としての構成力が問われるであろう。その一方で、この映画の衣装は素晴らしい。特に革で作られた鎧と兜のデザインは種類も豊富で見応えがある。またヘクトルの盾に浮かぶ文様など細かいところにも意匠が施され美しい。また殺陣も見応えがある。特にヘクトルとの決闘でのアキレスの動きには目を見張る。美術としてはトロイの木馬の造形が忘れられない。焼けた船の木材を使って作るという素材設定もリアリティがあるが出来上がった木馬は彫刻造形としても鑑賞に堪える。この木馬の再現彫刻があったらぜひ欲しい思わせる。

一方、とても恥ずかしい話だが「トロイの木馬」という言葉は知っていたが、それが何を指す言葉なのか実は曖昧だった。コンピュータウィルスの種別のひとつとして、内側に入ってから動き出すという性質は知っていたが、その名の由来をちゃんと知らなかった。さらに重ねて恥ずかしいのは、トロイが国の名前であること。また教育精神の代名詞でもあるスパルタという言葉も当時の国であり、両国の諍いが契機となってトロイがギリシャに攻められることになった事も、その争いの中に「トロイの木馬」が登場するという知識も持っていなかった。個別の名は記憶にあるものの、それをいざ語れと言われるとなんと自分の知識は曖昧模糊としたものか。ただの聞き覚えを知っているつもりになっている自分を見返ると恥ずかしい限りである。中学・高校で一応の西欧史は学んだはずだが、いま思い出せるのは近代史ばかり。西欧の古代の物語となると無学に近い。では東洋史はどうか、日本史は、日本の古代史は…と思い返すと、いずれも曖昧なこと極まりない。クールとかファッションとか目先のものに溺れるばかりで、思想の土台となる歴史に疎い自分が本当に恥ずかしい。こういう恥ずかしさは常々感じて来てはいたが、この映画を観ながら思いが帰着したところは、トロイやスパルタを始め、アキレス、ヘクトル、アガメムノン、アポロンと、とにかく物語に登場する人物も場所も出来事も、それらすべては単なるドットとしてのみ記憶に存在しているだけであり、その単点がノードとして機能していないということだ。点と点が繋がってノードとなる要因が欠如したままでは、蓄積された記憶は知識として活用されない。そしてそれらに繋がりを与える要因が「物語」であるという再確認が出来たことが、この映画を観ての最大の収穫だったように思う。ストーリーテリングだけが人々の曖昧な記憶を紡ぐことが出来る。そしてそこに新たな認知が生まれ再度記憶に刻み込まれる忘れ得ない経験が生まれる。この当たり前の方程式を再度自分に言い聞かせた。

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