Tuesday, November 25, 2008

Indiana Jones and the Kingdom of the Crystal Skull

邦題は「インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国」。インディシリーズの19年ぶりの新作。っていうか19年も経ってたんだ!ハリソン・フォードっていま何歳なんだろう。この年齢で冒険モノの主人公というのは相当無理があるんだけど、物語はちゃんとそういう役どころになっている。映画の構成、脚本、演出、照明、撮影、衣装、美術、音楽、効果…、どれを取っても前の三部作を踏襲していて、ここまで手法の一貫性を見せ付けられると、「インディジョーンズ的」というひとつの分野が出来たような感じがするが、それも含めて第一級の活劇を見た満足感を得た。中でも驚いたのは活劇となったときインディ自体の存在感が過去の映画と変わらないことだ。それは衣装やメイクアップの力が大きいと想像する。さらにこの映画シリーズの画面のタッチが一貫して独特なものを持っているような気がした。それは少し明るめで彩度もあり質感が明瞭であること。また色彩設計も一貫している。舞台が別の場所に変わるときのノスタルジックなグラフィックなども一貫している。しかしなんと言っても最もすごいのはスピルバーグだろう。おそらくこの映画はプレプロダクションの時点でスピルバーグ世界を煮詰めに煮詰めた状態になったはずだ。それはつまり、そういう「インディジョーンズ的に一貫して持つべきもの」が完璧に整理されているということの他ならない。シリーズでモノを作る時、そうしたマネジメントがいかに重要かを教えてくれる。これは「継続性を保ちながら新たな興奮を起こす=ブランド」という視点で、自分が作るコミュニケーションを考える時にも忘れてはいけない。そしてたぶん、これは「チーム」の力だと思われる。ひとつのコンセプト(映画の場合はキャラクターやトーン)を理解しているチームが無ければ、こんなに見事な一貫性は紡げない。物語は、そうした「お約束」を十二分に盛り込みながら先へ先へと引っ張っていく。「謎を解く→冒険→辿り着く→謎を解く→奪い合い→辿り着く」を繰り返しながら、その合間合間に主人公を取り巻く人間ドラマを挟み込み、最後に「こういうことでした」と終わるという冒険活劇のセオリーもお約束どおり。同時期に同じような物語を持って製作された「ナショナル・トレジャー/リンカーン暗殺者の日記」も見て、かなりガッカリしたが、なぜにこれほど差が出るのだろうか。主人公たちのパーソナリティ表現の深さ。謎解きにどの程度ドラマを与えるかの知性。邪魔したり横取りしたりしようとする存在の設定の明瞭さ。いずれもルーカスとスピルバーグの勝ちだ。ネバダでの原爆実験(ちなみに本物の原爆実験の映像はここあたり。また1950年代当時のアメリカの様式などがよくわかるのはこれ。ダミーの家とかも映っていて映画もこれらの映像を参照したと思われる)に立ち会って冷蔵庫の中に入って吹き飛ばされて助かったり、見つけたスカルがエイリアンのまんまだったり、謎の存在に辿り着くのに「三度落ちる」という滝(イグアスの滝はほんとすごいわ)からの落下で誰も死なないし怪我しなかったり、リーゼント猿に導かれてターザンみたいに蔓で移動したりとか、「ありえなーい度合い」もナショナル・トレジャーと変わらないのに、なぜあっちはウザくて、こっちはOKなのか…。滝壺から奥に入るとエルドラドが存在するってのは、もうまったく同じ伝説じゃないか。そこで実際の黄金宮殿を出すのか、異次元人【謎】で話を押し切るのか、どっちも「ありえねー」ですよ。だけど、あっちよりこっちの方がスッキリ、はなぜ?。自分でもよくわからないけれど、そこに才能の違いが存在するのは確かだ。これは個人的にとても興味深い。もっと細かく分析してちゃんと考えようと思う。美術は、大学の教室のシーンに興味が湧いた。前はもっと重厚な印象があった。今回は照明も明るく色々なモノが見えてしまうので、逆にどこまで美術を入れれば大学の教室としてリアリティが保てるセットになるかっていうあたりが学べた(廊下にあるトロフィーの棚とかもそのひとつ)。衣装は活劇中のインディはワンパターン(とはいえ柔らかいのにカタチを崩さない帽子といい、適度な傷みがあるけれど上質さを失わない革ジャンといい、上質なモノを揃えているのは見ていてもよくわかる。)だから、それ以外のシーンの衣装に目が行った。興味深かったのはラストの結婚式で皆が着ている衣装の色調。インディ自身も白ではなく、また参列者もすべてに明るいけれど、少しくすんだ衣装を着せている。ハッピーエンドな演出と時代観の表現のミックスが興味深かった。効果で面白かったのは強力な磁力を持っているという表現。それが運ばれると、天井の照明が動いたり、床にある金属類がずるずる動いたり。磁力を視覚化するすごいアイデアだと思う。失われたアークの箱がちらっと見えたりするのもファンサービスかな。CGもVFXも随所に使われているが、最近のハリウッド映画の「これでもかVFX攻め」は、この映画ではラストの宮殿あたりからピラミッドが吹っ飛ぶところあたりまで「攻め」で使われないところも、クラシックさを醸し出す映像のトーンと相まって高感度高し。あと俳優だけどケイト・ブランシェットってすごいね。僕は事前にこの映画に出てるって全然知らなかったからか、ソ連の敵役の女が最初は全然ケイトだって思わなかった。あ、ケイトだって思ったのは随分あと。眼から火炎をぶぉーと出して燃え尽きちゃうのは悲しい最後だけれど、「もう見たくない!」って叫ぶシーンは、なんだかケイトらしい感じがして存在感があった。エリザベスとボブディランを演じ分ける人だから当然かもしれないけれど、自分らしさの前に役があって、それを演じ切るプロだということがよくわかった。きっと誠実な人なんだと思う。

Friday, November 21, 2008

Lions for Lambs

おおお、この映画、いきなり主要な主人公たちの興味の中心をスコスコっと描くところから始まる。映画のタイトルや、出演は誰とか監督は誰とかいうのも軽くすっ飛ばしながら折り込むだけ。これって、のっけからカツっと掴んでチャンネル変えさせないテレビドラマの演出手法だけど、映画でこういうサビ頭な感じな手法ってあんまり無かったような気がする(曖昧だけど)。監督はロバート・レッドフォード。って、監督久しぶりじゃないの?確か「モーターサイクル・ダイアリーズ」は製作だった気がするけど、前に監督したのなんがっけ?すぐ思い出すのはブラピが演じた「リバー・ランズ・スルー・イット」だけど(あれれ、すっごくいい映画だったのに、ここにエントリーしてないな…)、ダメだ。わかんない。また調べてみよう。邦題は「大いなる陰謀」。えええ?原題は「Lions for Lambs」で、直訳すると「子羊たちのためのライオン」だぜ。すげー違う印象の題名だけど、まぁこれだけのキャストの映画だし、日本じゃそんな感じが正しいものなんだろう。ちょっとこの映画とは話がずれるが、邦題しか覚えてない映画って多いわけで、海外に行ってバーとかで話していて、「あの映画のあのシ-ン」って言うときに、その映画の名前そのものが通じないというか、キャストの名前とか主題とかを言って、相手が「おー、それは何々だね」とか言われても「その映画の題名ってそうなんだっけ?ううう…わかんねー」みたいになる事があって、かなり恥ずかしい経験をしてきてる。っていうか、そもそも映画を字幕抜きでネイティブに鑑賞できるだけの英語力がないってのが問題ってことは重々承知してるケド、ずっと東京に住み続けてる限りは、それは無理だわん(ネイティブのステディでも出来れば別かもしんないケドね)。話を映画に戻すが、内容は「大いなる陰謀」というものではなく、まさに「子羊たちのためのライオン」だった。今のアメリカ映画は、VFXだらけのアクションやファンタジー映画と、こういうテーマに始終する社会派の作品に分かれるということか。これはアメリカの戦没者たちへのオマージュだ。陰謀はある。でも物語は子羊側に立ったところからの気づきを促す。映画が始まったところで数種類の書類に記されたデータが提示されるが、映画が終わってみると、これがちゃんと帰着している。データで世の中を見る人(いち早く見れるひと)が権力を持ち、国益という名の名目の下に物事を決めているが、それは子羊たちにとってどうなのか…。子羊たちは、黙々と「現場」にいて、悶えながらも、ささやかな小さな夢を成そうとし続ける…。脚本は製作も兼ねてのマシュー・カーナハン。この作品とほぼ同時期に「キングダム」も作ってるが、どちらも深さがあって記憶に刻まれる感じがする。メリルが素晴らしい。彼女は女優ぢゃなくて大女優だな。それにしてもアメリカの抱える闇は暗い。「Bobby」もそうだがアメリカは出口が見つからないままに悶え続ける怪物だ。一方で中国とロシアがアメリカよりも巨大な怪物になろうとしている。日本を含めた先進国は、その巨大化への成長に為すすべも無い。なぜなら自分たちの維持に彼らの成長が必要だからだ。世界中が悶えている。

Wednesday, November 19, 2008

WALL•E vignett

PIXERの新作「WALL•E」なんだけど、まだ公開されてないから当然見てない。まずはAppleのトレイラページで、HD画質のフィルムクリップを見てみたが、びっくりするぐらいに良く出来てるのがわかる。これぞフォトリアリスティーック!良く出来てるわー。ただ、「主人公のWALL-E(ウォーリー)は、人類が地球を去った後 700年間、ただもくもくとゴミを圧縮して積み上げて塔を建て続けているロボット」っていう設定はいいわな。だけど、ありえない描画が多いです。700年もの時間が経つあいだに、大地はほとんど植物に覆われているはず。ゴミは残るだろうけど、布で出来てるブラジャーは原型をとどめているはずないし、伸縮を保ったままのゴムもありえない。消火器だってパッキンが収縮して噴射は出来ないし、そもそもウォーリーは、何を動力にして動いてんのとか、いやいや、その筐体にその目とキャタピラ入らないってば、とかとか。うーん、あかんなー。ついそういうことに目が行ってしまう。この映画は、そういう目で見ちゃいけないんだ。これは子供の心で見るんだよ!って言われそうだ。あと、予告編の2番目のやつの前半にあるピクサーのタイトルロゴにウォーリーが絡むバージョンもアイデア満載で素晴らしい。掃除機と絡むビネットも楽しい。ピクサーのタイトルロゴの「R」を倒して「やべー、これでどう?」って自分で演じる感じの演出や、ビネットの最後に自分のキャタピラの足跡を気にするっていう行為は、そのままウォーリーの持ってるパーソナリティというか心情というか、そういう人格表現の手法が素晴らしいと思った。こういう演出ってやっぱりセンスだな。

Saturday, November 15, 2008

BOBBY

戦う相手の力(信念と言うべきか)を読み誤ったCIAと軍部からの情報を元に、ジョンソン大統領とマクナマラが誤った判断を繰り返し、アメリカはベトナム戦争にのめり込んで失敗した、というのは歴史が語っている。ブッシュ大統領も親子で同じ過ちを犯した。前者は共産主義、イコール中国とソビエトという明瞭な国家としての敵であったが、後者は中東における石油確保、イコール国家安全保証が目的であり、国家としての敵を後づけしたカタチで強引に国連を巻き込み、多国籍軍を動かすという仕組みを作ったかに見えた。しかし、ブッシュは「力」で相手を消そうとする「戦争」というものに「正義」を掲げてみても、実際の「痛み」を伴った人々の声が、掲げられた崇高な正義に疑問符をつけ、理想という名の外殻はメリメリと剥がれ落ち、いずれ破綻する…、ということを学んでいなかった。ネットワークが発達したこの情報化社会の中での常識をブッシュは自分の判断に生かせなかった。アメリカという大国を大統領として司るのは容易なことではない。国家統治の基本は貧困や飢えや差別をなくし国民の生活を豊かにすることであろう。しかしそれを行うための方法論が他国からの搾取であっていいという価値観は、アメリカが今後も最も悶え苦しむ根本的な悩みだろう。ベトコンがアメリカに勝ったのは国力や戦力ではなく、一方的に悪者にした相手になど絶対に負けないという誇りと信念だった。日本が第二次大戦で負けたのは、日本軍部がそういう信念を後づけしただけで、実際はブッシュと同じように自国に無い資源確保のため、他国から搾取することを目的として国民を戦わせたからである。戦争に負けた日本人は、その後、歴史を十分に検証し、搾取に走ると必ず破滅するという鉄則を学んでいる。アメリカはそれを知りながらも圧倒的な力こそが解決の道筋として今日まで来たが、この先、どう変わることが出来るのだろうか。「ボビー」という映画を見てこんなポリティカルなことを書いてしまったのは、時代の違いはあれど、当時と今が近いと感じるべきだ、というメッセージを映画から受け取ったのかもしれない。当時はベトナム戦争、人種差別問題、麻薬など、アメリカの価値観が大きく揺さぶられ、今までどおりに続けたい側と、もう変わらざるを得ないとした側との間でアメリカは悶えまくったわけだ。そしていまブッシュは完全否定され、保守派のマケインを下し、革新派のバラク・オバマが次期大統領となった。しかし得票実数は拮抗し、53%対46%と、国をほぼ二分していて、クリントン後のブッシュとアル・ゴアの選挙に近い。いや、ボビーが暗殺されたあとの大統領は共和党のニクソンになったが、ボビー亡き後の民主党候補のヒューバート・ハンフリーとの得票差はわずかに1%。まさにアメリカの価値観は二分していたことになる。現在のアメリカも、こうした状況に近い。そういう現在、ボビー・ケネディが暗殺されたときに、どういう空気がアメリカに漂っていたのかを知ることが出来たのは、偶然ながらも新たにアタマの中を整理することに繋がった。映画は、そういうアメリカの価値観が揺れ動いている真っ只中、非常に幅広い種類の人間たちの様子を描く。舞台はホテル。多くの人々が集まり、時間を共有する場所として「ホテル」という設定は最も望ましい。そもそもホテルには、そういった辿り着く場所=ディスティネーションという概念が存在する。空港や駅にも多くの人々のドラマがあるが、そこは通過点でありディスティネーションではない(それを逆手に取ったトム・ハンクスの「ターミナル」は脚本として秀逸だった)。しかもこれは実際に起こった出来事であり、1968年6月5日のロサンゼルスのアンバサダーホテルでロバート・ケネディが撃たれたときに、その銃弾に巻き込まれた人たちの物語。しかしまぁ、よくぞこんだけ個性的な俳優を集めたもんだ。どの俳優も役柄にぴったりのキャスティングではある。一覧は東宝のサイトに詳しい。ただ映画で描かれる「そこにいた人々の抱えたドラマ」は暗殺事件とは直接的には関係がない。人々の結びつきは「そこにいた」だけ、という脚本だが少し物足りない。へザー・グラハムは相変わらず美しい。ローレンス・フィッシュバーンも存在感がある。アンソニー・ホプキンス、マーチン・シーンあたりが映画として重要なセリフを任されていて納得。しかし誰よりもボビーの言葉が重い。ちょっと長いが映画の最後に流れるボビーのスピーチを記録しておく。アンバサダーホテルで死ぬ2ヶ月前、1968年4月のスピーチだ。40年前のメッセージだが偉大な演説と思う。学習を怠り過ちを続けている今だからこそ、深く深く自分の心に響く。
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今日は政治を語ることはしません。この機会に、ぜひ伝えたいことを簡単にお話します。アメリカでの心ない暴力について。暴力は国の名誉を汚し、人々の命を奪います。それは人種に関係ありません。暴力の犠牲者は黒人、白人、富人、貧人、若者、老人、有名、無名。何よりもまず、彼らは人間だということ。誰かに愛され必要とされた人間なのです。誰であろうと、どこで暮らそうと、どんな職業であろうと、犠牲者となりえます。無分別な残虐行為に苦しむのです。それなのに今もなお、暴力は私たちのこの国で続いています。なぜでしょう?暴力は何を成し遂げたでしょう?何を創り出したでしょう?アメリカ人の命が、別のアメリカ人により、不必要に奪われる。それが法の名の下であろうと、法に背くことであろうと、一人、または集団によって、冷酷に計画して、または激情にかられて、暴力的攻撃によって、または応酬によって、一人の人間が苦労して自分や子供のために織り上げた生活や人生を、暴力で引き裂く。暴力は、すなわち国家の品位を貶めることです。それなのに私たちは暴力の増徴を容認する。暴力は、私たちの人間性や、文明社会を無視しているのに、私たちは、力を誇る者や、力を行使する者を、安易に賛美する。自分の人生を築くためなら、他者の夢さえ打ち砕く者を、私たちは、あまりにも安易に許してしまう。でも、これだけは確かです。暴力は暴力を生み、抑圧は報復を生みます。社会全体を、浄化することによってしか、私たちの心から病巣を取り除けません。あなたが誰かに、人を憎み、恐れろと教えたり、その肌の色や、信仰や、考え方や、行動によって劣っていると教えたり、あなたと異なる者が、あなたの自由を侵害し、仕事を奪い、家族を脅かすと教えれば、あなたも、また他者に対して、同胞ではなく、敵として映るのです。協調ではなく、力によって征服し、従属させ、支配すべき相手として、やがて私たちは、同胞を、よそ者として見るようになる。同じ街にいながら共同体を分かち合わぬ者、同じ場所に暮らしながら同じ目標を持たぬ者として。共通するものは恐れと、お互いから遠ざかりたいという願望。考え方の違いを、武力で解決しようという衝動だけ。地上での私たちの人生は、あまりに短く、成すべき仕事は、あまりに多いのです。これ以上、暴力を私たちの国ではびこらせないために。暴力は、政策や決議では追放できません。私たちが一瞬でも、思い出すことが大切なのです。共にクラス人々は、皆、同胞であることを。彼らも私たちと同じように、短い人生を生き、与えられた命を、私たちと同じように最後まで生き抜きたいと願っているのです。目的を持ち、幸せに、満ち足りた達成感のある人生を送ろうと。共通の運命生きる絆は必ずや、共通の目的を持つ絆は必ずや、私たちに何かを教えてくれるはずです。必ずや私たちは学ぶでしょう。まわりの人々を仲間として見るようになるはずです。そして努力し始めるでしょう。お互いへの敵意をなくし、お互いの心の中で、再び同胞となるために。」(ロバート・F・ケネディ)」全文は以下から読める。"Robert F. Kennedy, Cleveland City Club,April 5, 1968"
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現在のアンバサダーホテルについてはこのサイトが詳しい。あと、取り壊される前の建物の航空写真が見れる(動かすと取り壊された状態になる)。また、解体が始まった頃の内部の様子や、40年代の頃など。この映画の撮影時はちょうど取り壊し中だったらしく、本物の場所にセットを組んだシーンもあるらしい。

Wednesday, November 12, 2008

National Treasure: Book of Secrets

この映画の内容について、ここがこうだったとかを書く気になれない…。陳腐でくだらない映画と、そうではないエンタテイメントの境目はシビアなものだと思われる。特にこの映画のような冒険モノっていうカテゴリーには駄作が多い。そのほとんどが次のようなパターンを持っている。まず帰着しない枝葉を次々に広げる身勝手な脚本が挙げられる。そして、その脚本の支離滅裂さを、主人公に超人的な身体能力を持たせたり、脇役にありえない技術を駆使して次々に暗号を解いたり、難攻不落な場所のセキュリティを突破させたりして帰着させようとする。もちろん主人公はひたむきな善者で、それに対して凶悪な悪役を存在させる。悪役との関わり方に人間性などは一切無視。その凶悪さを支える資金や組織面も無視し、ド派手なアクションを唐突に挟み込むことで悪の存在を強調しようとする場合が多い。さらに「ここがみどころ」というつもりで入れ込まれたと思われるそうしたアクションシーンは、建物の大規模な爆発,ヘリコプターの墜落、危険が次々に起こるが最後には振り切れるカーチェイスなど、すでに形骸化したエンタテイメント表現を照れもなく持ち込む。さらに「助かったー。うまく行って良かったー」ということだけしか残らないエンディングだろう。この「ナショナル・トレジャー/リンカーン暗殺者の日記」って作品は、正直言って上に掲げた「くだらない映画」の要素だらけである。ここに記録として残していないが、第一作の「ナショナル・トレジャー」も見た。だが第一作からは全然そういうことを思わなかった。しかし、続編となると、前作以下という評価や興行収益的な失敗が怖いからなのか「あれも加えて、これも入れるべき」ということを処理できず、結果的に「支離滅裂作品」に成り下がってしまった典型的な作品のような気がする。ヒットすれば巨額の利益が見込める映画というビジネスモデル。それもハリウッドという場所においての損益分岐点がどのぐらいの金額なのかわかないが、上に挙げたようなパターンを踏襲している企画や脚本に、投資しないかと呼びかけるプロデューサの頭の中が、僕にはよくわからない。しかし、これを作ったディズニーっていう視点から言えば、ニューヨーク、パリ、ロンドン、ワシントンなど、世界中のロケ敢行という企画も、これだけの俳優を揃えたことも、「とにかく盛りだくさんで楽しめるファミリー向けエンタテイメント」ということで、彼ら的には満点なのかもしれない。そう考えれば納得が行く部分が見えてくる。ハリソン・フォードのレイダースのような歴史モノに現代劇の冒険要素を組み合わせたら面白くなるんじゃないかという企画に、ミッション・インポッシブルとかボーン・アイデンテティのような映画の持つ要素をそのまま移植しちゃうセンスが、ディスニーの世界ってことになるのだろう。ブラッカイマーが絡んでいるからこそと思える出来のところも多いが、なんかそういうものも消してしまうディズニーっぽさってモノの根底にあるファンタジー的信念ってなんなんだろう…。

Saturday, November 08, 2008

Three Kings

ジョージ・クルーニー主演の「スリーキングス」を、CSのムービープラスHDで見た。DVDではなくCSで見たのでキャプチャー画面はオフィシャルサイトから拝借したので、でっかいワーナーのマーク入りになっている。んで、この映画、1999年のものだから、ほぼ10年前の作品なわけだけど、正直めちゃくちゃ面白くてびっくりした。なんで今まで見なかったんだろう。この映画は湾岸戦争でバグダッドを陥落させた直後に、こそっとフセインがクウェートから搾取して隠してた金塊を奪取しちゃおうぜっていう「掴み」のところでプロモーションされていたので、ひょっとするとコメディ扱いだったのかもしれない。けれど中身はそんなに軽いものでもなく、戦場を舞台にするものの人間ドラマとしても立派に通用する内容を持っていて驚いた。監督を務めたデヴィッド・ラッセルが脚本も手掛けているとのこと。この人の作品は要注意だ。さらに構成と編集が秀逸だ。とにかく最初から最後までのテンポがいい。次々に物語が展開するが、政治的にシリアスな内容もこれでもかと含んであるし、現実の湾岸戦争のCNNなどの報道に慣れた自分には、アメリカと多国籍軍がイラクの人々にどういうことを与えていたのかの点について認識を新たにした。しかし、そういうシリアスな局面に真顔で「なんなんだよ、あのマイケル・ジャクソンの顔は?」っていうセリフを持ってくる脚本のセンスはすごい。そうした構成と、個々のチャプターにおけるテーマがいちいち素晴らしいので、まったく飽きることもない。映像の質も高いし、大道具も美術も、無駄なものは全然なく、かつ手抜きが無いのも見ていて気持ちいい。ビーチボーイズとか、シカゴとか、ところどころに挟まれるアメリカを思い出させるサウンドトラックの数々と、それに合わせたゆったりとした映像のインサートなど、とにかく編集の力でここまで映画って面白く出来るのかと、深く学ばされた映画だった(なんかベタ褒めだよなー)。ジョージも99年にこの映画に出演して、2002年に「コンフェッション」を初めて監督するわけだけど、このデヴィッド・ラッセルの影響をかなり受けたんじゃないだろうか。その後のオーシャンズのシリーズにも通じるエンタテイメントの方向性がこの映画からは読み取れる。

Monday, November 03, 2008

The assassination of Jesse James

邦題は「ジェシー・ジェームズの暗殺」。原題は「The Assassination of Jesse James by The Coward Robert Ford」と長い。なんで今頃になって拳銃連発とか銀行強盗とか、悪党が跋扈してるアメリカ西部開拓時代の映画なんだ、って感じだが、ブラッド・ピットが演じてるってことだけではなく、製作も手掛けているということは、それなりに心を打つ物語があるのだろうということで見てみた。物語はロブの見た世界で進んでいく。というか主役はロブだ。だけどこの映画、「ジェシー・ジェームズって言えばアメリカでは誰もが知ってる。さらにそれを殺した男も」っていうのを前提にして作られていて、どうにも入っていけなかった。こいつは愛された悪党なんだ…。日本だったら誰なんだろう…って思いながら映画を見る。でも何も思いつかない。ほとんどストーカーみたいなボブ・フォードの情けない人生をなぞる。うーん、そんな感じがどこかしんどい。歌っている曲をあまり知らずに足を踏み込んでしまった歌手のコンサートみたいな気分とも言えるし、そもそもイデオロギーや歴史が違うのに、そこを主軸に描かれた映画を見てしまったときの「イキそうでイケない」感じっていうか…楽しみたいのに楽しめなかったのが残念だった。ただ、この映画が持つ力は十分に感じた。また映像は素晴らしくきれいで驚いた。アンドリュー・ワイエスの絵の世界を映像にするとこういうタッチにすればいいのか、という驚きもあった。撮影も秀逸で構図、連続させる画面構成、ボケ足の使い方なども計算し尽されたものだった。さらに微細なところを画面の中でキチンと描いているからか、遠景に引いたときにも、そこにある空気の湿度のようなものまでを感じることができた。人間は自分の経験を引き出しながら眼で見たものを受け止める。そこに深みが生まれ、感動も埋め込める。それを忘れずに、丁寧に絵を紡いで行くという姿勢を学びたい。