Wo hu cang long
寝る前に映画を見ることが習慣になってきたが、やはり外したくないという思いがまだまだ強い。出来るだけ冷静に平常心で作品に接するようにしたいと思うが中々そうはいかない。それは、僕の目はまだまだ甘い素人のものであり、正確に分析する方程式が確立していない証拠だろう。もっと考えながら作品に触れなければただの映画鑑賞になってしまうと自分に言い聞かせる。この映画が始まってしばらくの間、不思議にニューヨークのメトロポリタンミュージアムのことを思い出した。METの2階の左奥にある中国の部屋には小さな中庭があり、そこは小ぶりながらもこの映画の中で豪商の家に見るような美しい様式に触れることができる。さらにその庭の周りは細い回廊のようになっていて、外に出ることも出来る。僕はメットに行くたびに必ずその小さな庭のある場所まで行き石の床に立つ。そこは明るく、美術品を傷めないための薄暗さからひととき開放され、リフレッシュしてからまた鑑賞に戻るわけだ。その小庭以外にもMETにはこうしたちょっと一息という気分転換が出来る場所が数多くある。入り口のすぐ上の回廊は真下の一階の騒々しさが響いてきて決して静かではないが、いつもまずそこに上がって、手を伸ばせば触れることが出来るほど近くにアキレスの足の指の細やかな造形に見惚れながら今日の鑑賞のルートを考える場所にしている。現代美術のところからエレベータで上がる屋上も好きだ。アフリカ室に入る手前の横長の細い隙間にある大理石のギリシャ彫刻が置かれた天井の高い空間も好きだ。またエジプト室のあの豊かな水をたたえる神殿のある大きな空間。神殿は何度も行って知っているのだが、常にすぐには左に曲がらず、いつも神殿のところまで行く。そうすることでナイル河のほとりに立っているような切り替えが出来る。実際にカイロに行ったことはないが、そうして栄華を誇った都に意識を運んでから、エジプト美術の鮮やかな色彩に触れると、そのみずみずしさが違ってくるのだ。どうしても美術に意識が走ってしまうのが僕の性分だからか、余談が過ぎた。映画に戻る。原題は「臥虎藏龍」。英語版では「Crouching Tiger, Hidden Dragon」というタイトル。直訳すればうずくまる虎と隠れた龍となり文字の意味はあっている。この四文字に何か深い意味が隠されているのかもしれないが中国の詩の世界までは到底知るよしがない。いま調べてみると「見かけ通りではないこと」を指す格言とのこと。つまりはチャン・ツィイー演じるイェンの二面性が題名となっているようだ。その一方で邦題は「グリーン・デスティニー」。どうも突飛な感じを持っていたが、映画を見終わってみると「碧名剣」を指していることに気づいた。しかし映画は決して400年前の剣が主役ではない。剣そのものの説明はいたって簡素だし。剣を持つものに及ぶ怪しげな魔力なども描かれない。深読みすれば二面性は剣から発せられたともとれるが、本来の題は剣を示していない。だが、おそらくあの竹林での場面が最も印象的である点や、剣の放つ光などなどを考え合わせてこの邦題に決めたのであろう。善し悪しは別にして、原題に囚われずに自由に決めろとなったとき、言葉の響きやイメージ、展開のし易さなどマーケティング側面も合わせて見据えるであろうこの作業、かなり深いものがあるように思う。ある日瞑想をしていると空となった。しかしそれは歓びの世界ではなく悲しみに包まれ未練に引き戻された…。この東洋的で仏教的な概念。僕にはとてもよくわかるが西欧人に理解を求めることは不可能に近いだろう。観念ではわかっても仕方がない境涯。未練が執着であり、それを捨て切らないと悟りには至らない。それは言葉通り疑いのない信を持って体験を思惟し続けるしかない。映画の中には到底西欧人には理解できないという要素が数多く詰まっている。それは国際的なマーケットを視野に入れて作品に投資する側から見るととても危険な賭けだが、現場はそこを貫いている。余談だが、日本刀はおそらく考えうる刃物としての武器において最も切れると言われているのを思い出す。切れるから斬れるわけではないことは、中学から高校まで剣道を習っていただけの僕でもわかる。宮本武蔵が巌流島で手にした武器が船の櫂であったように太刀は使い手の技による。話を戻す。極めて東洋的な展開はアクションにしろ舞台にしろ数多い。そしてそれは一応成功している。その点では、終盤の竹林でのアクションはとても素晴らしい。ワイヤーアクションの連続はどの場面も結構すごいと思うのだが、その舞台を竹林に置くというアイデアは、西欧の概念では出てこない。前半、中盤、後半と何度も出てくるワイヤーアクションのある場面はすべて舞台が固定された場所だ。最初は城壁に囲まれた広場、次は屋敷近くの境内のような場所、荒野、二階建ての料理屋などなど、すべてまるでセットという場所である。だが最後の竹林の舞台設定はそれらとは違って最大効果を出している。ゆらぐ竹の動きに合わせて繰り出される攻撃や防御などはスパイダーマンを作る欧米には考えつかないものであろう。さらに舞台はますます東洋思想的になり、最後には霞の中を舞う天女の姿にまで拡大される。これが計算の上で行われたとすれば、絵を作っている側の人間たちは相当のつわものと言えるだろう。構成はさまざまな対比を組み合わせていくところに興味を引かれた。中年のプラトニックと、若さが持つ激情という対比。一本の剣と、剣が交わる多種多様な武器という対比。喧騒渦巻く大都会と、荒野・峡谷・竹林といった舞台設定の対比。平和を願う武侠の知性と、力を示して強奪を行う野蛮性という対比。裕福と貧乏などなど、数多くの対比が絡み合う。撮影は美しく成功している。カメラワークは正確だし、フォーカスも要所要所で適切だ。シネスコサイズも十分に効果的に使っている。同時になかなか見ることのない中国各地の雄大な景色を堪能した。山がまるごと竹で覆われた景色もめずらしい。ニュージーランドのフィヨルドかと思うような奥深い峡谷には圧倒される。砂漠や岩山など中国の国土の広さを思い知らされる。一方脚本だが、こちらはかなり深刻な問題が散見される。碧名剣という名剣を巡って二組の男女が絡む物語だが、編みこみの多様さと壮大さに比べて、主人公個々の背景描写がとても薄く感じる。アクション場面をそこまで長々と描く時間があれば、そうした適切な伏線描写に回すべきだと強く感じた。誰と誰が仇なのかは序盤にさらりと設定される。そのあたりの手際は悪くないのだが、ではイェンはどうなのかと目を向けるとさっぱりわからない。武侠側からは碧眼狐が師匠の仇であり婚約者の仇でもあると明快だ。碧眼狐がイェンに嫉妬して果てるというのもわかりやすい。ではなんでイェンはあんなに暴れるのか。象牙の櫛ひとつ取り返すために行くところまで行ってしまう激情型なのはわかった。でも、なんでイェンは何度も碧名剣を盗み、また手放そうとしないのか。僕にはどうしても不満が残る。妹にして、わかったわ、で始まる女二人も、とても唐突に仲たがいする。そして許さないと罵り合ってまたアクションだ。伏線として張られたものをことごとくイェンは無視して物語が進んでいくがいつまでたっても帰着しない。最も最悪なのはそのアクション場面の前の「私はひとまわりしてこようと思う」というリー・ムーバイが使うセリフだ。ひとまわりする理由がわからないまま、その後に一度静けさを描き、唐突に女同士の闘いがやってくる。そして危ないという場面になると「まて」と登場する。これは無粋すぎていただけない。ただいただけないだけでなく、前半にも中盤にも、アクションの場面の直前にこうしたフリが同様の流れで行われる。これは練られていないのを吐露しているようなものだ。さらに、最後にイェンが身を投げるのもどうにも着地しない。親の重病が治るように山頂から飛び降りたら傷つかず空に舞って消えた。そして親は病気が癒えた。物事はすべて信じれば叶うのだ。という洞窟でローが語って聞かせた振りを受けてのラストなのだろうが、イェンがそこまで思いつめて祈るところに心が動かないのだ。そこが繋がれば文字通り感動が来るのはわかってるのに来ない。最初は美術に目が行き、途中から東洋的な表現に意識が向いた。そして最後には脚本に対する不満で終わってしまった。
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