Friday, February 24, 2006

Bridget Jones: The Edge of Reason

邦題には「きれそうなわたしの12か月」という副題がついている本編は、2001年公開の「ブリジット・ジョーンズの日記」の続編。役づくりのためにぷっくり太って演じまくるレニー・ゼルウィガーの熱演は素晴らしい。だが、内容は文字通り世界中の心満たされない乙女たちの夢想物語。いきなりジュリー・アンドリュース気取りのブリジットをサウンド・オブ・ミュージックのメロディで登場したときには正直に言って男である僕はどこか馬鹿馬鹿しくて見てられないという想いを持たざるを得なかった。真面目に作られているだけに、逆に飛びすぎな夢想についていくのが精一杯。そういえばパラシュートで飛び降りる場面にはカーリー・サイモンの「Nobody Does It Better」が流れて、それはそれで好きな歌手だし曲なので良かったが「007 私を愛したスパイ」の気分で観ろという暗示かと思うと、とほほという感じだった。さてさて。前作を見たときも徹底してブリティッシュ世界を描いているなと思ったが、本作でもその点は変わらずに徹底していて興味深い。原作がロンドンに暮らす女性なのだから当たり前なのだが、ヤケになったブリジットがばくばく食べるアイスクリームやら、マークの家のキッチンに映るパーシルの洗剤やら、友達はブリティッシュグリーンのミニクーパーやらやらやら。衣装もジグゾーとかマーク・ジェイコブズとかFCUKとかどこか英国っぽい。ブリジットがずり落ちるガラステラスのようなマークの家のコンサバトリーも英国住宅の特徴だし、母に呼び出されるデパートの内装など、もう徹底的に「脱アメリカ」な志向が窺えて目にも楽しい。そうした見た目以上に、なによりも英国的なのは実存するクラスが描かれているところかもしれない。女王を頂点としたクラス、つまり階級は英国の誇りであるわけだし、貴族も労働者もいまだに歴然とした相応の生活様式が存在している。くだんのデパートもアッパー志向のハロッズやハービーニコルズじゃなく中産階級ご用達のドベンハム。つまりブリジットの家柄は庶民ということを暗に示している。育ちもドイツの場所もわからない程度の教育だしアッパー・ミドル気取りの母親には常に言葉を注意されているわけで間違いなくミドルクラスの家柄となるのだろう。一方のマークの実家のダーシー家は五代続けてイートン校に通わせてきた家柄だし、仕事は人権擁護派の弁護士で大使たちにも顔が利くアッパー・ミドルの理想的な男。さらに謎のクラゲ攻撃で判明する美しくてスリムで足の長いマークの同僚・レベッカの親はコットランドの半分を所有してる大地主。つまりアッパーかもしれない裕福な家柄の娘。つまり釣り合う家柄なのかどうかという側面が暗に張られていて、そこにブリジットが思い込む浮気疑惑を増長させる要因がある気がする。同時に結婚できないかもしれない…という感情をブリジットが抱えるところにも階級という概念が大きく影響している…と読むのは考えすぎだろうか。いずれにしろ僕は英国のことを本当のところは全然わかっていないわけだし、アンドリュー・デイビスのTVシリーズ「高慢と偏見」を知らない僕には、オチを読みきれないフリが数多くあって、そこでの不完全燃焼は残念だった。

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