Wednesday, October 22, 2008

BABEL

21グラム」のアレハンドロ・イニャリトゥが監督した「バベル」。まったく関係ない複数の物語と思えるものが織り合いながらひとつのテーマを描いていく。正直、僕はこの手法はあんまり好きじゃないんだが、「マグノリア」を見て、脚本が深くて考えを改めた。なぜ好きじゃないかというと、状況が掴めないままに伏線が続くのに我慢強くないのかもしれない。さてこの映画、極端に言うとライフルという武器(この場合は凶器と言うべきか)が主人公だ。それを軸に、ちょっと考えられないような広がりを持って物語が紡がれていく。だけど東京にいる安次郎とモロッコの羊飼いとが繋がる設定にはちょっと無理を感じた。いま東京で、を考えるとリアリティがない。このあたりは「21グラム」でも脚本を手掛けたギジェルモ・アリアガらしさだろうか。メキシコの結婚式に連れて行かれてる二人の子供が、この物語の何を意味するのかもずっと分からない。しかし、それが伏線かもしれないと思うから物語から目を離せないのだが、ずっとわからない。帰着しないで裏切られた映画のほうが多いからか、こういう一杯枝葉を広げまくられて、ずーっとわかんないままに、後半まで引っ張るっていうやり方が好きじゃないんだな。その結婚式のシーンもやけーに長い。だけどその長さの意味がわからない。ちゅーか白昼堂々、麻布十番の公園で酒入れながらレッド食って「このへん警察来る?」とか、ありうえないでしょーっていうようなのも嫌だ。耳が聞こえない千恵子の描写も長い。でも千恵子の存在感は素晴らしい。、やっぱりこの映画、なんだかんだ言って、ものすごく力がある。なぜ素っ裸っていう演出なのかも考えさせられる。刑事が最後に読む千恵子のメモの内容も想像が走る。ちゃんと心に残すものを作っている。ブラッド・ピットといい、ケイト・ブランシェットといい、そういうところを脚本から読み取ったから出演したのだろう。それと映画のテーマとは関係ないけれど、衝撃的だったのは、東京の景色とモロッコの景色の対比だ。ハッキリ言って東京の風景は自分たちにはあたりまえの景色だが、モロッコのそれとの違いをこうも明瞭にされると、東京という街のグロテスクさに、吐き気に近いものを覚えた。異常も続けばあたりまえ。人殺しがあたりまえになる戦争みたいなものだろうか。かなりやばいところで暮らしているんだよ、僕たちは。

Friday, October 17, 2008

Das Leben der Anderen

やばいよね、こういう映画。邦題は「善き人のためのソナタ」。ぐっさり来ました。アカデミー賞をとったっていうのも納得。ベルリンの壁が壁崩壊前って、時代としてはライブで見てたわけだし、ソ連が終わってロシアになって、という混乱期に僕自身、ウラジオストクにも行ったわけで、そのウラジオストクに行った時に、シャンペンを出してくれた軍幹部向けの隠れサロンのマダムが、政治的な会話は一切答えず、黙って壁と天井の角を指差したんだけれど、この映画を見て、その頃の、いわゆる秘密警察の感じっていうのが、ヒシヒシと伝わってきて、ちょっと映画だけではない感触を覚えながら見た。それから、この映画、国家保安省・シュタージという極端な組織で洗脳されている局員であろうが、ヴィースラー大尉のように、音楽や文学やアートなど、心を捉える芸術には、概念の信奉など吹きとばすチカラがあるんだなという、そういうメッセージのも思えて、ぐっさり来ました。いい映画でした。

Wednesday, October 15, 2008

I am Legend

「レジェンド」って普通に日本語になったよね。「アドバンテージ」とか「オファー」とか「レバレッジ」とか、広告やメディアで訴求されて日本人の耳にも意味が分かる感じになった単語って少なくない。そういうことももう一回復習しなきゃなぁ…、とか思いつつ、この映画の砲台、ちゃう邦題も英語でのタイトルどおり「アイ・アム・レジェンド」。んで、昔から、こういう細菌などで人間が突然変異してゾンビ化して人類が滅亡しそうになり、主人公がなんとか生き抜くっていうプロットの映画ってかなりあったように思うんだけどどうなんだろ。ホラー系に分類される映画って詳しくないし、そもそも気持ち悪いから見たくないし…って感じだけど「28デイズ」みたいなのも、そういう企画のひとつだろか。そんな中でこの映画がちゃんと製作されていることに軽い驚きを感じざるを得ない。そういえばスティーヴン・キングの「セル」も夜は動かないゾンビたちとの攻防っていう感じで同じような設定だった。この映画の原作はリチャード・マシスンの「地球最後の男」。過去に二度も映画化されているのに、もう一回掘り起こして映画化したわけだ。なんせ「地球最後の男」なわけだから、映画化するにしても、もう主役俳優の独演なわけで、前の映画化ではチャールストン・ヘストンだったようだが、今回はウィル・スミス。しかしまぁ、脚本がひどいのには別の意味でびっくりした。特に後半、主人公のロバート・ネビルが、突然現れた女性に、田舎の方に生き残った人々の共同体があると言われて、「なぜそれを知ってる?」と聞いたら「神からのお告げよ」って答える。このセリフ、ありえないぜって思ったのは僕だけだろうか。さらにそのコミューンは朝出れば一日で行けるところにあると言う。なんやねんそれ。全然地球最後の男じゃないじゃんよ。確かにメトロポリタンで釣りをしてたり誰もいない朽ち果てていく途中のNYCは壮観だったけど、それが何を生み出したかって言うと何もなかった。僕はシェパード犬のサムが素晴らしかったと思う。愛おしくて主人公の涙はすごく胸に来るものがあった。ネビルがゾンビの罠にかかってぶら下がっちゃった時、あんな風に心配してくれたりするんだよね…犬っていういきものは、っていう感じで、なんか胸が熱くなった。人間って、見た目を飾ったり、言葉でごまかしたり、嫌いでも好きなフリしたりと、心の中の本当の気持ちを見せないいきもの(まんま見せたら袋叩きに会うっていう社会だし)だから、余計に、そういうものを持たずに人間と仲良くしたいっていう犬の持つ純真さが、今の僕には重たいものに思えてならない。

Sunday, October 12, 2008

The Pursuit of Happyness

原題を直訳すると「幸福の追求」、でも邦題は「幸せのちから」。pursuiteを「ちから」に置き換えたのは、とってもいい邦題だと思う。でも「幸福」ってHappynessとも書くんだね。おいらはHappinessと習ったぞ。それはさておき、ウィル・スミスって本当に役者としてどんどん成熟して行ってる感じがあって、見続けて行きたい人だなって思ってたけど、だんだん自分が演じる「ウィル・スミス」っていうパターンに陥って行ってる感じがしたのはなぜだろう。彼の出演作は結構見てきた。「インデペンデンス・デイ」とか「バッドボーイズ」とか「メン・イン・ブラック」とか初期のものも見たし、「エネミー・オブ・アメリカ」あたりでジーン・ハックマンとの存在感比べも見た。だけど「アイ・ロボット」のスプーナー刑事、「アイ・アム・レジェンド」のロバート・ネビル、んで、この作品のクリス・ガードナーって、なんかみんな同じようなものを表出させることで、「演じる」ってことを終わらせてないか?っていう気がしたのが理由かもしれない。残念ながら「ハンコック」を劇場では見逃したので、DVD出たら改めて確かめてみたいし、新作の「7ポンド」も見てみたいと思うんだけれど、ある役者が、あるパターンを繰り返し始めるのが、僕は好きじゃないのかもしれない。僕は、ラッセル・クロウやケイト・ブランシェットに心酔する。一方、何を演じても同じ、という方向で確たる位置を築いている役者もいる。僕はウィル・スミスにそうなって欲しくないと思っていたのかもしれない。もちろんウィルの演技は一流だし、人間的にも素晴らしいことは間違いないし、見ていて納得できることばかりだ。今回はマトリックスの続編系とか、コラテラルとかに出てたジェイダ・ピンケットとの間に生まれた実の息子のクリストファーを共演者にしての映画だから、余計に生のウィル・スミスが出たのかもしれないけれど、その生な感じと、演技の幅とが、どうも見えない感じだった。んで、映画だけれど、アメリカ映画にしては、最初から最後のエンディングの直前まで、ずーっと不幸。また不幸。どんどんつらい状態が重なって最後の最後に「ハッピー」なんだけれど、その幸福な状態が、日本人からすると、言ってみれば「普通」って感じで終わる。つまり、仕事があって、お給料がもらえて、帰る家があって、息子も学校に行かせられて…っていう普通だ。能力主義のアメリカでは、こういう絶望があるのか、って思わされるが、そこに東京に住んでいる僕には中々リアリティは湧かない。ホームレスが増えているとはいえ、日本という国の社会観には、いざとなれば頼ることが出来る(かもしれないってことだけど)友人や親戚がいたり、完全なる絶望に陥る前のところが、もう少し豊かな気がする。この映画であるような、半年間のインターンも、無給なんてことは日本では社会が認めない。もちろん、この映画の主人公のように将来性まで考えての大きなチャンスを掴むっていうのは、アメリカも日本も同じだけれど、社会保障の次元が違うところでの悲劇という感じがあって、正直、最後まで映画自体を楽しめなかった。もちろん、息子に向けた言葉など、脚本も良かったんだけどね。

Wednesday, October 01, 2008

The Kingdom

うぉっと、ずいぶんここを更新してなかったってことに、いま気づいたわ。まぁそれはいいか。この一年、まったく映画に触れなかったわけではなく、飛行機の中で新作見るとか、BSとかCSとかで見るとか(最近のNHKは名作放送が素晴らしい)で、それなりに映画は見てきたわけで、自分の中に残っているものはある。ただそれをココに書き記さなかっただけってことだ。思い出したら書き足すようにしようと思うし、IMDBのほうには見たものを出来る限り思い出して更新しておこうとは思ってる。

さて、この映画。邦題は「キングダム 見えざる敵」。だけど配役にジェイミー・フォックスが出ていなかったら、まず見なかっただろう。そもそもこの映画のテーマと自分とはあまりにかけ離れていて、興味そのものも湧かないわけだ。正直、自分は日本に住んでいて平和ボケと世界中から言われても仕方ないぐらいに平和にどっぷり浸かっていて、すぐそばに危機があるよっていうイマジネーションすら出来ないのが実情。危機と言う前に、危険ってことすら忘れて暮らしてるわけで、それはそれで戦後の日本が作り上げてきた国家としての持てる力なのかもしれないが、徳川藩制の鎖国によって、一度は平和ボケに陥った自分たちの祖先のように、情報の読解力が弱まり、蝕むように平和・楽観主義者へと自分たちを追いやっていったことと重なるように思えてならない。まぁ、簡単に言えば、少々高くてもガソリンスタンドに行けば石油は買えるし、ガズも電気も水道も「カネ」さえ出せばいくらでも供給してもらえる日常に僕たちは暮らしている。もしそれが止まれば、それを供給している「企業」に文句を言えば気が済む。実際、東京電力の工事ミスで突然停電ってのが起こったりするけど、原油価格が高騰というニュースを耳にしても、それを危機という緊張に繋がらない。日本は、それを失うということへの微かな実感すら持たないが、そうなったらヤバイという恐怖を少なくともアメリカは常に強く認識してる。そういう感じで、目線としてはアメリカの掲げる正義側に立って作られている映画なわけだけれど、物語を追いながら、その逆、つまりここで描かれる「敵」の視線からするとどうなのか…というところに意識が向くようにこの映画は作られている。しかし悲しいかな平和ボケの僕にはそれを想像することがまったく出来ない。資本主義側から見た場合、貧困と教育の低さが根底にあり、宗教の違いと相まって、そこから生まれてくる打開策がテロとなっている、と教えられてきたが、真実はどうなのか。殺し合いの連鎖はどこから来たのかと言えば、それは資本主義の「強欲」が出発点なのではないか…。互いの利益のバランスの上に国家の存在というのは認可されると歴史は示しているではないか…。北朝鮮はそれを最大限に利用しているじゃないか…。そんなことを考えながらこの映画を見ていた。国際社会の裏側をもっと勉強しないとダメだな。蛇足だけどイントロのところのグラフィック処理を多く含んだ状況説明のシークエンスは非常に良くできていると思った。こういう仕事が出来たらいいな。

●11月22日に追記:ハリウッドの大作から、ドラえもんの劇場版まで、まったく手を抜かずに丁寧に所感を述べられる得がたい映画評論に、心底敬服している前田有一さんの「超映画批評」に、この映画が描かれた背景の解説があった。アメリカがイラクでぐずぐずしてる理由や、サウジの事情など、すっごく勉強になった。前田さん、ありがとうございます。