Thursday, February 23, 2006

Spy Game

レッドフォードとブラピが組んでるというだけで見る価値がある…と思って観た「リバー・ランズ・スルーイット」が想定以下の不発だったので、この映画も半信半疑。さらに2001年の話題作を今頃見直してるわけだから相当遅れてる。だけど2001年は本当に映画なんて観てる余裕のカケラも無く働きづめだった。まぁそれはどうでもいい。話を戻そう。この作品によってレッドフォードに半信半疑だった僕の疑問は監督としての才能と俳優としての能力を混同していたことに拠ると今更ながら気づくことになった。映画はエンターティメント作品として観るならかなり面白い。題名に「ゲーム」とつく意味が納得できる作りで、全体の構成も、細部の構成も脚本が素晴らしく冴えている。しかし脚本のマイケル・フロスト・ベックナーはこの作品以後も大した実績を残していない。ということは結局監督のトニー・スコットの力量っていうことになる。彼はこういう種類の映画がすごく得意だ。「エネミー・オブ・アメリカ」やら、BMW FILMSの「Beat the Devil」など、スパイ系や戦争系の専門監督と言ってもいいぐらいの勢いに思う。映像はいかにもトニー・スコット。真実味を漂わせる映像の作り方はきっと誰も真似のできない彼の技なのであろう。ぐいぐい引っ張り込む最初の刑務所のシーンもぞっとするほどの細かな演出が凝縮されている。手の込んだ美術と演出、さらに瞬きすら許さないようなリズミカルなカット割りすべてが最初から計算されていたごとくに編集され、場面ごとに漂う空気感を濃密に漂わせる。こうした塗り込められたような絵づくりを見ると、昨今のヘタなヴィジュアルエフェクツ満載系の作品が大仕掛けのくせになぜ弱々しいのかがよくわかる。人間の目は認識しない次元まですべての物を正確に測っているのだ。それがどんなに巧妙でもピクチャーマッピングされた表面と実際に年月を経た表面の違いは知覚する。さて、物語は人間同士の信頼が軸になっている。それを際立たせるために秘密と裏切りと画策という逆説的な舞台が存在し、それがCIAでありスパイ。この組み立てがあるからこそ今までにないスパイ映画のトーンが存在するように思う。普通なら事件が起きて現場で必死になるエージェントを追いかけてドキドキハラハラ。それがこの映画ではブラッド・ピット演じる若きエージェントのビショップはずっと殴られているだけ。物語の絵解きはCIA本部の作戦会議室で行われ、そのすべてがロバート・レッドフォード演じるミュアーの回想シーン。そこに、ヴェトナムから始まって東ドイツ、ベイルート、香港と時代ごとにヤバかった場所での映像が枝葉として次々に描かれても主軸がブレないわけがある。構成が本当に重要なのだと学習する。また意識的に変えられた時代ごとの映像のタッチも納得できる。ヴェトナムは土色。東ドイツは重苦しい鉄色。ベイルートは明度の高い乾燥した色彩。そして中国はじっとりした深緑。どれも計算され尽くしていて目を見張る。中でもプラハの街は非常に美しく印象的に描かれているのだが、いきなり富士フイルムの看板をぐるぐる回って撮り続けてくれたのには少し驚いた。実はその場面で二度時計台が映るのだが微妙に時間の前後が交錯しているのに気づいてしまった。おれはどこを見てるんだろう。余談ついでにドイツ大使の妻としてシャーロット・ランプリングが出てきたのには驚いたが、さらにそれを引っ張らずに撲殺という見事な消え方を与えるのもトニー・スコットの為せる技だろう。ビショップが助けようとするエリザベス役のキャサリン・マコーマックについてはまったく知識が無い。しかしレッドフォードとブラピを相手にする女優としては決して悪くない。屈託の無い笑顔と壮絶さを同時に持ち合わすことが出来る女優のひとりとして記憶に留めておきたい。彼ら三人のカフェでの会話のシーンは三者三様に善人と裏の顔を牽制し合いながら覗かせる。同時に物語の主軸を決定づける重要な場面であり、とても印象深い。ラストにもヘリに座ったキャサリンの静かな演技で始まる三者三様の無言劇がある。ぼっこぼこの顔で見せるブラピの演技が本当にすごいのだが、そこにレッドフォードが重ねられ一流の役者の力を漂わせてくれる。

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