Saturday, November 15, 2008

BOBBY

戦う相手の力(信念と言うべきか)を読み誤ったCIAと軍部からの情報を元に、ジョンソン大統領とマクナマラが誤った判断を繰り返し、アメリカはベトナム戦争にのめり込んで失敗した、というのは歴史が語っている。ブッシュ大統領も親子で同じ過ちを犯した。前者は共産主義、イコール中国とソビエトという明瞭な国家としての敵であったが、後者は中東における石油確保、イコール国家安全保証が目的であり、国家としての敵を後づけしたカタチで強引に国連を巻き込み、多国籍軍を動かすという仕組みを作ったかに見えた。しかし、ブッシュは「力」で相手を消そうとする「戦争」というものに「正義」を掲げてみても、実際の「痛み」を伴った人々の声が、掲げられた崇高な正義に疑問符をつけ、理想という名の外殻はメリメリと剥がれ落ち、いずれ破綻する…、ということを学んでいなかった。ネットワークが発達したこの情報化社会の中での常識をブッシュは自分の判断に生かせなかった。アメリカという大国を大統領として司るのは容易なことではない。国家統治の基本は貧困や飢えや差別をなくし国民の生活を豊かにすることであろう。しかしそれを行うための方法論が他国からの搾取であっていいという価値観は、アメリカが今後も最も悶え苦しむ根本的な悩みだろう。ベトコンがアメリカに勝ったのは国力や戦力ではなく、一方的に悪者にした相手になど絶対に負けないという誇りと信念だった。日本が第二次大戦で負けたのは、日本軍部がそういう信念を後づけしただけで、実際はブッシュと同じように自国に無い資源確保のため、他国から搾取することを目的として国民を戦わせたからである。戦争に負けた日本人は、その後、歴史を十分に検証し、搾取に走ると必ず破滅するという鉄則を学んでいる。アメリカはそれを知りながらも圧倒的な力こそが解決の道筋として今日まで来たが、この先、どう変わることが出来るのだろうか。「ボビー」という映画を見てこんなポリティカルなことを書いてしまったのは、時代の違いはあれど、当時と今が近いと感じるべきだ、というメッセージを映画から受け取ったのかもしれない。当時はベトナム戦争、人種差別問題、麻薬など、アメリカの価値観が大きく揺さぶられ、今までどおりに続けたい側と、もう変わらざるを得ないとした側との間でアメリカは悶えまくったわけだ。そしていまブッシュは完全否定され、保守派のマケインを下し、革新派のバラク・オバマが次期大統領となった。しかし得票実数は拮抗し、53%対46%と、国をほぼ二分していて、クリントン後のブッシュとアル・ゴアの選挙に近い。いや、ボビーが暗殺されたあとの大統領は共和党のニクソンになったが、ボビー亡き後の民主党候補のヒューバート・ハンフリーとの得票差はわずかに1%。まさにアメリカの価値観は二分していたことになる。現在のアメリカも、こうした状況に近い。そういう現在、ボビー・ケネディが暗殺されたときに、どういう空気がアメリカに漂っていたのかを知ることが出来たのは、偶然ながらも新たにアタマの中を整理することに繋がった。映画は、そういうアメリカの価値観が揺れ動いている真っ只中、非常に幅広い種類の人間たちの様子を描く。舞台はホテル。多くの人々が集まり、時間を共有する場所として「ホテル」という設定は最も望ましい。そもそもホテルには、そういった辿り着く場所=ディスティネーションという概念が存在する。空港や駅にも多くの人々のドラマがあるが、そこは通過点でありディスティネーションではない(それを逆手に取ったトム・ハンクスの「ターミナル」は脚本として秀逸だった)。しかもこれは実際に起こった出来事であり、1968年6月5日のロサンゼルスのアンバサダーホテルでロバート・ケネディが撃たれたときに、その銃弾に巻き込まれた人たちの物語。しかしまぁ、よくぞこんだけ個性的な俳優を集めたもんだ。どの俳優も役柄にぴったりのキャスティングではある。一覧は東宝のサイトに詳しい。ただ映画で描かれる「そこにいた人々の抱えたドラマ」は暗殺事件とは直接的には関係がない。人々の結びつきは「そこにいた」だけ、という脚本だが少し物足りない。へザー・グラハムは相変わらず美しい。ローレンス・フィッシュバーンも存在感がある。アンソニー・ホプキンス、マーチン・シーンあたりが映画として重要なセリフを任されていて納得。しかし誰よりもボビーの言葉が重い。ちょっと長いが映画の最後に流れるボビーのスピーチを記録しておく。アンバサダーホテルで死ぬ2ヶ月前、1968年4月のスピーチだ。40年前のメッセージだが偉大な演説と思う。学習を怠り過ちを続けている今だからこそ、深く深く自分の心に響く。
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今日は政治を語ることはしません。この機会に、ぜひ伝えたいことを簡単にお話します。アメリカでの心ない暴力について。暴力は国の名誉を汚し、人々の命を奪います。それは人種に関係ありません。暴力の犠牲者は黒人、白人、富人、貧人、若者、老人、有名、無名。何よりもまず、彼らは人間だということ。誰かに愛され必要とされた人間なのです。誰であろうと、どこで暮らそうと、どんな職業であろうと、犠牲者となりえます。無分別な残虐行為に苦しむのです。それなのに今もなお、暴力は私たちのこの国で続いています。なぜでしょう?暴力は何を成し遂げたでしょう?何を創り出したでしょう?アメリカ人の命が、別のアメリカ人により、不必要に奪われる。それが法の名の下であろうと、法に背くことであろうと、一人、または集団によって、冷酷に計画して、または激情にかられて、暴力的攻撃によって、または応酬によって、一人の人間が苦労して自分や子供のために織り上げた生活や人生を、暴力で引き裂く。暴力は、すなわち国家の品位を貶めることです。それなのに私たちは暴力の増徴を容認する。暴力は、私たちの人間性や、文明社会を無視しているのに、私たちは、力を誇る者や、力を行使する者を、安易に賛美する。自分の人生を築くためなら、他者の夢さえ打ち砕く者を、私たちは、あまりにも安易に許してしまう。でも、これだけは確かです。暴力は暴力を生み、抑圧は報復を生みます。社会全体を、浄化することによってしか、私たちの心から病巣を取り除けません。あなたが誰かに、人を憎み、恐れろと教えたり、その肌の色や、信仰や、考え方や、行動によって劣っていると教えたり、あなたと異なる者が、あなたの自由を侵害し、仕事を奪い、家族を脅かすと教えれば、あなたも、また他者に対して、同胞ではなく、敵として映るのです。協調ではなく、力によって征服し、従属させ、支配すべき相手として、やがて私たちは、同胞を、よそ者として見るようになる。同じ街にいながら共同体を分かち合わぬ者、同じ場所に暮らしながら同じ目標を持たぬ者として。共通するものは恐れと、お互いから遠ざかりたいという願望。考え方の違いを、武力で解決しようという衝動だけ。地上での私たちの人生は、あまりに短く、成すべき仕事は、あまりに多いのです。これ以上、暴力を私たちの国ではびこらせないために。暴力は、政策や決議では追放できません。私たちが一瞬でも、思い出すことが大切なのです。共にクラス人々は、皆、同胞であることを。彼らも私たちと同じように、短い人生を生き、与えられた命を、私たちと同じように最後まで生き抜きたいと願っているのです。目的を持ち、幸せに、満ち足りた達成感のある人生を送ろうと。共通の運命生きる絆は必ずや、共通の目的を持つ絆は必ずや、私たちに何かを教えてくれるはずです。必ずや私たちは学ぶでしょう。まわりの人々を仲間として見るようになるはずです。そして努力し始めるでしょう。お互いへの敵意をなくし、お互いの心の中で、再び同胞となるために。」(ロバート・F・ケネディ)」全文は以下から読める。"Robert F. Kennedy, Cleveland City Club,April 5, 1968"
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現在のアンバサダーホテルについてはこのサイトが詳しい。あと、取り壊される前の建物の航空写真が見れる(動かすと取り壊された状態になる)。また、解体が始まった頃の内部の様子や、40年代の頃など。この映画の撮影時はちょうど取り壊し中だったらしく、本物の場所にセットを組んだシーンもあるらしい。

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