Kirikou et La Sorcière
邦題は「キリクと魔女」。驚いた。いやはや美しい。そして強い。本当にどの場面をここに掲げたらいいのか迷うほどだ。こんなに色が美しく思えたのがとても不思議だ。つい先日に「ベルヴィル・ランデブー」を見たこともあって、アニメーション作品という分野の作品も見直していかなければならないなと思ってこれを観ることにした。しかし、そもそも蛍光色的な鮮やかさで絵を映えさせようという色感が氾濫するテレビ的な日本のアニメは今さら見る気にもならない。同じく、実写映画をアニメに描き起こし直したような作品は、アニメになっている分まったくつまらないし、そうすることで画面からの情報量が極端に少なく思えて絵のうまいヘタが際立ってしまい見るに堪えない。一方、ジブリにしろ、手塚治にしろ、ディズニーにしろ、キャラクターは基本的に線画にベタ色であり、そこはこの映画でも変らない。だが舞台設定の描写がこの作品は決定的に違うのだ。ジブリの作品には背景描写に過多にも思える細かな描き込みが行われる。それはそれでひとつの世界観を生み出すし、それはそれでとても魅力的だ。「千と千尋の神隠し」における神々が訪れる湯屋や「ハウルの動く城」のしなる建造物の描写など、目を凝らしていても見逃すような細かな事象の描きこみは作品の質となって立ち上がってくる。ジブリの作品の傾向としてあり余るほどのモノが描かれる。こぼれ落ちそうなほどに机や棚にモノがぎっしりと積み上がったり詰まっていたり。街の景色も細かな石畳の陰影のひとつひとつや看板や街行く人々の衣装も同じように「詳細な違い」を描して、圧倒的な物質量や弁別性を画面の中に持ち込む。しかし、この作品はそうした要素を持ち込みようがない。キリクたちの生活は簡素そのもの。足元は赤い大地。家の中にはラグ、壷、甕、そして杵と臼。数ある村の家々もすべて同じ様式である。もちろん広告看板もばければ様々なスタイルの乗り物が走ることもない。生活スタイルを舞台としている。そこにどのように美しさを表現するかという工夫が垣間見られる。そしてそれがグラフィックデザインに通じる感覚であることがとても新鮮に思うのだ。今までとはまったく違った性質を持った美しさに僕が心を奪われるのは、平面グラフィック的な構成感覚だろう。わかりやすいところでは、魔女カラバのロボット的な眷属たちの姿だった。しかしこの眷属たちの姿は、僕にはアフリカ的というよりも、シェフィールド大学のデヴィッド・マクラガンが著した「天地創造」というテーマの本に記載されているアメリカ・インディアンのバヴァホ族がヘイル・チャントに残した砂絵に見られる造形に近い感じがする。造形的にアフリカにおける象徴性を示すデフォルメは常に豊かな曲線を伴っている。一方、ナヴァホ族やレナペ族が残した造形は非常に幾何学的な洗練性が見出せる。そうしたことが頭を過ぎるが、それは枝葉の話なのでここでは置いておこう。遠くにある末なし河近くの森林の様子はゴーギャンの絵を思わせるような平面性を持ちながら、グラフィック的にすべてのフォルムがリファインされ、同時にすべてにシンプルな個別性を与えている。正確なデッサンの末に行われた葉の一枚一枚の模様のデフォルメ。生きた線を残しながらコピー&ペーストではないひとつひとつ描き込まれた緻密さ。そうした手法にデザイン的な整理が見出せてとても惹かれるのだ。また横長の画面の中での構図の作り方にも共鳴する。たとえば呪いの泉に水が戻ったことを喜び踊る村の女たちの姿は、ピカソの「アヴィニヨンの娘たち」を思い出させる。一転して戻った水がキリクの死の活躍によってのものだったと知り歌を捧げる村人全員が集う場面も、線画にベタ塗りでありながら大胆な構図のカットを織りませながら微妙な色使いを見せる。この対比的な組み合わせは舞台設定、場面構成、そして登場人物たちの動きや表情などすべての要素から見出せる。たとえばキリクのちょこまかした動きとキリクの母親の常に静謐さを漂わせた動きの細やかな対比。全編に亘って臼を打つ杵の音は常に静的なシーンに重みとリズムを与える一方、喜びの感情には動的で複雑で躍動的な生命力を描くという対比。また役柄ごとにも対比を与えている。村の女たちの簡素さに対して、魔女カラバはエミリオ・プッチやレオナールのプリントのような美しい柄の生地を腰に巻き、頭から身体はゴールドの装飾に彩られる。乾いた木の椅子に座る村人の老人は黄土色の布を身にまとう凡夫だが、一方の賢者であるキリクの祖父は清浄な青の台座に座り真っ白の衣服をまとうまるでファラオのようだ。水のない場所は乾燥した色彩で、末なし河近くは極彩色のジャングル。こうした対比が細かく織り込まれていて本当におもしろい。子供たちに向けて作られた作品であることはわかる。しかしキリクの賢さはなんだろう。魔女カラバの行いの裏にある背負う痛みはなんだろう。そこに子供に媚びない作り手側の揺るぎない思想を感じる。そう思うと先に書いた昨今の日本のアニメは媚びが過ぎるのだ。いや媚びしかないと言ってもいいほどマーケティング的な方法論に蹂躙されている。そこを僕は見抜いてしまうから楽しめないのだろう。どうして人は意地悪なんだろう。母親はキリクに言う。「私はわからない。意地悪なのは魔女だけではないし。こちらは苦しめないのに人を苦しめたがる人はいる」。それにキリクは答える。「そうか。必要なのは覚悟しておくということなんだね」。思想なしに、こんな脚本が書けるだろうか。それ以外にも数多くのドキリとさせられる言葉がこの作品には散りばめられている。お山の賢者の言葉は胸に響く。キリクは常に前向きに物事に向かっていく。同時に常に正直に自分の気持ちを言葉にする。賢者である祖父のひざの上に上って抱かれる場面は、そうした素直さを忘れてしまっている自分に気づかされるようで印象深い。ラストには、そ、そこで結婚ですか…と驚くような展開が待っていた。けれどもキリクが切り開いたものは、この村の喜びの出来事だけではなく、僕の心の中にある自分が作ってしまっている殻の存在を知ることに繋がった。それを破っていくことは今の僕の大きな課題だ。あの背中に打ち込まれたトゲ。それが意味するものはとても深い。
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