Tuesday, August 23, 2005

Shinzo's Cinema Log

何年も殺人的な忙しさを日常とする生活を続けていた僕は2005年の初夏に仕事を離れた。数ヶ月間は徹底的に仕事関連から離れる努力をした。サイトも見ないし検索も滅多に使わない。ウェブよりも美術館、博物館、書店などに足を運び、置き去りにしてきたものに触れる事を心がけた。それは自分の持つ方程式に乗せる因数をすでに絞り出し尽くしてしまっている事を確認する時間でもあった。同時に自分の精神的な疲弊を実感する事にも繋がった。乾き切った自分を癒すように、優れた美術を貪るような勢いで目に焼きつけて審美眼を鍛え直し、書の行間から歴史を観想する事で思想を追い、強い文章に触れることで自分の脳髄を洗い直す…。肉体的な健康回復の取組みと同時にそうした充電を優先してきた。そして残暑の蒸し暑さは残っているが徐々に陽射しが和らぎ始めた頃、映画を見るようになった。腰を据えて見直し始めたと言う方が適切かもしれない。とにかく以前は仕事仕事で休日は寝てばかり。最新の情報には敏感だったが映画館で数時間を過すという行為は余程の事がない限り自分のスケジュールの中に組み込むことが出来なかった。それを少しでも取り戻そうという思いがあったからか、方向を定めず、興味を持ったらとりあえず観るというような乱読ならぬ乱観状態に入った。僕はデザインを自分の仕事にしてから、ずっと平面構成の世界で表現に携わってきた。そこでの経験は、僕の審美眼を鍛えた基礎であり、物事を分りやすく魅力的に整理する基本は今も変ることがない。それはインタラクティブの世界に活動を移行した後でも同じで、基本的にはその軸足を動かさず、動的な美しさを計算に入れながらも静止した状態でどれだけ美しいかを常に追い求めてきた。一方、モーションという表現要素とファッションエディトリアルの経験で学んだストーリーテリング。この両方がFlashを使った表現を追及していく中ではとても重要だと思うようになった。もちろん僕の基礎である平面構成の中にはそうした概念は深く組み込まれている。その点で言えば違うのは、見ているものが動くか、見る側の意識と視線を動かすかだけである。意図するものは同じであり、それはコミュニケーションデザインの基本の基本である。しかしこれからはその両面を確実に且つ同時にコントロールすることを学習し自分の基礎をより一層固めたいと思った。なぜなら使える要素が格段に増えたからだ。そして、それを根本的なところから学習するには映画から学ぶしかないという結論に至ったのだった。

実際に色々と映画を見て思うのは、本当に力のある強い映画は鑑賞中に物語の本筋以外の事を思考させないということだ。そんな秀作には滅多にお目にかかれないが、良い映画はおよそ二時間をぐぃっと掴んだまま離さず終わる。そうした映画は見終わった直後から一気に分析解釈が始まり、その要素ひとつひとつを噛み締めながらの連想が始まる。一方、僕のアタマはどうも分裂症気味に動くため、すぐにアタマが寄り道を始める。それは、たとえば衣装の抑えた色彩の妙であったり、音響効果の出来の善し悪しであったり…。しかし時間が経つと、そうした細かな連想と同時に行った小さな学習は忘れてしまう。素早く学習し身についてしまったから忘れるのだろう…と考えれば、それはそれで良いのだが、どうも大事なことまで忘却の彼方に捨て去ってしまっている事も少なくない。後にふとイメージは浮かぶのだが、何の映画の何のシーンだったのかが思い出せずイライラするという体たらくである。そんな忘却を少しだけ改善するため、映画を見て思いついた事を随時ノートに書き残してきた。そのノートはスケッチとメモが入り乱れた落書きに近く、脳内に残る画面の記憶を鉛筆で簡単に描き、そこに細々と注釈を書き込んだようなものだ。ストーリーテリングと構成に力がある映画の場合は見終わってから書いた。見ながらメモを書いた場合もあったが、そういう映画は大抵枝葉は見事だが幹が見えない遠目で見る紅葉のように諸々の映画に紛れても仕方ない一作であったのだろうと思う。そんなことを続けていたある日、ふとaltbaのサーバに置いていた「shinzlog」を思い出した。すでにaltbaはサーバごと失せていて、自分の日誌もクリッピングも思考メモも消えてしまっていた。だがそれはもういい。そもそもそういう場所を持っていた事さえ忘れている自分にも気づいて、ほのかな安堵を覚える自分がいた。

過去のそうした記録方法を思い出し、とりあえずもう少しマトモな内容の映画記録を残してみようとも考えて、ノートの手描きメモをここに書き移し、集約を試みる気になった。なるべく見た順に記して行こうと思うがたぶんそこもかなり怪しいことになるだろう。とにかくスケッチやメモは膨大にあるが、まとめて書き移すことも出来ないので少しづつエントリーを作っては書き加えていくことになるだろう。作品はあえて分類しない。そもそも作品を分類するという行為はここでは意味を持たない。新旧とりまぜての鑑賞記録になると思うが、物語そのものがどうだったかよりも、その時々に感じたことや頭を過ぎったことなどを記録しておきたいという思いの方が強い。その意味ではクリエイティブ・リソースとしての視点が強まると思われる。ただ、これまで触れてきた美術や書籍などから得たことについての考察などはこことは違うブログに残している。本来のクリエイティブ・リソースという側面ではそちらが主軸だろう。また、記するに値しないほどに何の感想も思考も浮かばなかった作品も実は数多く見てきている。そうした作品もここに記録していくかどうか考えたが、どんな映画にも見出すものは存在しているはずなので酷評となるものでも出来るだけ書き記すことにする。

それから重要なことなので最初に書いておくが、ノートへ書き込んだメモと同時に個人的な資料として画面のキャプチャ画像は数多く残してきている。その画像の一部を各エントリーごとに加えていくが、画像の著作権はすべて映画を製作した会社と配給元にあり僕にはない。僕が保持する著作権はテキストが中心となるはずだ。基本的にこのブログは誰かに読まれることを前提としない。自分のための学習記録でありメモでしかない。そうした個人的な利用という前提において自分の記憶を即座に呼び起こす目的で画像を貼り付ける。著作権保護法に沿って言えば本来なら画面をデジカメで撮影して画像化するなりスケッチを上げるなりの手間が必要であることは分っている。だが正直面倒くさいのでこの際その手間は省くつもりでいる。

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