THE INTERPRETER
邦題は原題のまんま「ザ・インタープリター」。そういえば昔の作品には「逃亡者」とか「追跡者」とか「目撃者」という直訳名がつけられていたように思うが最近は変ってきたようだ。だけど、なんで訳が「ジ」ぢゃなくて「ザ」なのか、そこがわからない。発音しにくいから…というようなマーケティング的発想なのかもしれない。ひょっとすると事前調査とかした結果なのかもしれない。だけどこういう単純な間違いは日本の子供たちのためにも迎合するべきではないと思うので僕はあまり容認したくはない。映画が始まってすぐ砂っぽいアフリカの映像。そこを埃まみれのジープが走ってくる。車内で広げられる死亡確認リストのノート。住民の半分が死んだという記録なのだが、これがとても整然と書かれていてノートも新品のように汚れていない。なんで汚れてないのよ…と、美術が甘いようなイヤな予感がしてタイトルバックが始まる前からちょっと引き気味。しかしその一抹の不安は、タイトルが表示され、舞台が国連の会議場に移った途端に消えた。国連の内部を映画で見るのは初めてだが、非常に美しく撮られていて、かなり計算されていることが窺える。というかこの映画、国連本部を舞台にしようっていうことなのだろうか。だとすると大統領府やらCIAといった飽き飽きするほど設定され尽くした舞台とは違って、この作品はかなり挑戦的なプロデュースを行っていることになる。その許可はありえないほど難しいはずだ。そう思うのは自分がUN50の仕事をを手掛けたとき、国連という機関の特殊性を十分に味わった経験に拠る。映像は全体に増感調子で彩度が高く感じるが違和感はまったく無い。確かインタープリターという言葉は通訳という意味だったっけ…と曖昧な英語の知識を手探りしているうちに、案の定、ニコール・キッドマンが通訳席に座っている。911のテロ以降に作られた映画だからか、セキュリティとリスクマネジメントが素早いテンポで描かれる。敷地から出て行く車列を確認し、「いま首相がアメリカに戻った」という台詞を警備責任者がトランシーバーに向かって吐く。それは国連と言う場所の特殊性を手際よく物語っていて、脚本は良さそうだと感じる。その予感はすぐに序盤のショーン・ペンとニコール・キッドマンの会話の中で確信となった。言葉が冴えている。またこの二人だけの会話の場面は撮影も美しい。数えただけでも10近いフレーミングがあったように思う。下から、目線から、寄り、引き、手前ボケ、重ね合わせ…小気味良く画面が切り替わるリズムも悪くない。なんだか序盤でしっかり掴まれてしまった感がある。物語はテンポを速めながらどんどん進む。あっという間に設定、人物描写、状況説明を終わらせて展開へ。映画として理想的な構成だ。そうした序盤から中盤までの小気味よいテンポは、中盤から終盤までも続く。かといって途中途中にとても静かな場面もあるのにテンポは崩れない。静かな場面はショーンとニコールが演じまくり、同時に冴えた脚本が緊張感を失わない。なにより興味深いのは画面の中の情報量にシドニー・ポラックが相当考えているのだろうと思わされる絵が続くことだ。こういうワイドスクリーンだからこそ盛り込める情報量をキチンとコントロールし尽くすディレクションが生きているのだと思われる。たとえば幅広い画面を十二分に使っての手前ボケと奥の情景。たとえばワイドな画面を使っての少し極端な構図によるその場の雰囲気の描写。その逆に一気にクローズアップしてみせるなど、何枚かキャプチャを参考につけて忘れないようにするが、そうした、普通は見逃しがちな部分での情報の与えられ方、画面サイズの有効活用が、極めて大胆、且つ精緻な感じがする。こうした仕事はかなりの集中力が必要だと思うがシドニーはやり遂げている。さらに、この手の映画は中弛みが起こる場合が多い。もしくは、中盤から終盤への展開の流れが見えてしまう。しかしテロ爆発でバスがどかーんと爆発するあたりからも、全然先が読めない。シルヴィアは急にいなくなるが、すぐに大統領が到着し視点は警備側にスイッチされて彼女がどうなったのかを忘れるほど。やっぱりそうだったのかと画策している面子が割れ始め暗殺が不成功に終わっても、まだシルヴィアに騙されていることに気づかない。結局トミーが最後まで騙されたように、僕も大方の観客と同じように最後までシルヴィアに騙され続けた。かといって、それが全然無駄になっていないこの枝葉の広げ方と帰結の手際はもう最高だ。いやー、やられた。面白い。テーマもいい。演技もいい。ショーンも貫禄の演技で悪くない。ニコールは素晴らしく素敵だ。この役柄では、ほとんど笑顔を見せないが、どんな時でもとても美しい。表情豊かなタイプではないのに感情表現にぬかりがない。なんかマジやられた。そんな感じだ。最後の最後に犯罪サスペンスではなくポリティカルなテーマに帰着させる。見終わった途端に国連ってなんなんだろうという思いが湧きあがってきた。それが作り手の意図であることはわかっているが、拒否権行使で超大国の考える自国の不利益をことごとく排除するために存在している合議機関と成り下がった今の国連の状態を思い起こさせる。同時にアタマの中にコミックスだが原潜・やまとを使って海江田艦長が問いかけた「沈黙の艦隊」がよぎる。だが、そうした思いを起こさせることをアメリカ、英国、ロシア、フランス、中国という主体者たちを直接的に描くのではなく、最も利己主義的なモデルケースとしてコソボならぬマトボという仮想国での非人道的武力行使を描きながら、最後にマホボ大統領に政治のそもそもの理想的理念を「読ませる」。そこに国益のためではなく世界平和に至る道筋として存在意義を持って生まれた国連のあるべき姿が重なるのは深読みしすぎだろうか。持つべき議論、行使されうる力というものを、この作品は僕に訴えかけてきた。
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