Sunday, March 12, 2006

Les Triplettes de Belleville

本当の題名は「ヴェルヴィルの三つ子」なのだが、その三つ子が歌う曲名が邦題となったようで日本では「ヴェルヴィル・ランデブー」。ショメ監督はこの作品の製作に5年かけたそうだが、なんだかフランスの底力を見せられたような気持ちにさせられる映画だった。デッサンがすごい。とにかくすごい。アニメーションにおいてはどんな作品も絵の中で強調したい部分をデフォルメして表現するのは当然なのだが、この作品はとにかく描きこんだというタッチではなく、その前の段階のデッサンがすごい。線が生きているというのだろうか。老婆となった三つ子たちのたるんでしまった身体の線は。最初はふくらはぎの筋肉やのフォルムなどに目を奪われた。しかし強いパース感覚はキャラクターなどのデフォルメにも生かされていて、犬のような長い鼻を強調した顔はまるでサルキーを思わせる。そしてそうしたフォルムと、それぞれの主人公の性格が一致していることにさらに驚かされる。まず先にパーソナリティがあって、それを連想させるに近い動物などをイメージしたうえで個々の造形を創案したように思える。街の様子もとてもフランス的で興味深い。走らせる車などをヴィンテージにしながらもモダンなタッチも組み込まれている。マンガ的な描き方での強調も半端じゃない。ジョセフィン・ベイカーやフレッド・アステアはホントまんまだし、レストランのマネージャーが出てきたときも大笑いしてしまった。そうなんだよな。目一杯に愛想を振られる時って確かにあんな感じ。謝るときはまるで五体投地の三礼だし。それから画面全体にグラフィックデザイン的な構図が数多く見出せた。カッサンドルのポスターを思わせる船の描き方など個々のモチーフだけにとどまらず、ギャングが丸窓の向こうでぷかぷか煙草を吸うところも構成主義的な構図に思える。シャンピオンの訓練中にバスに幅寄せされる様子などにも強いパースをかけて画面を切り取り、そのあとにご注意をというタイポグラフィが重なるなどはまさにグラフィックの感覚だ。三つ子が演奏するときの観客たちの様子も、個々のキャラクターを丸、三角、四角というようなグラフィックエレメント的なカタチに近寄せた上に画面の中にバランスよく配置している。またヴェルヴィルの港に辿り着いた場面では垂直に見下ろすような画面構成を見せ、その直後に広角レンズ的な視点でピア31の切り立った階段とその向こうに見える街を描いたり…。そういうグラフィック的な感覚が常に画面に緊張感を与えていて僕にはとても素敵に思える。素晴らしいセンスだ。キャラクターたちの動きも筆舌に尽くしがたいものを見せるが、根本的なリズムセンスの次元が全然違う気がするのは僕だけだろうか。新聞紙と冷蔵庫に掃除機で奏でるジャズが始まったときにそれを思った。しかし、あの新聞紙をしゃかしゃか動かす場面の軸をブラさない動きは本当にすごい。肩から腕の動きだけだが身体にシャウトのリズムが満ちていることを新聞紙の曲がり具合が伝えてくる。ここの音とのシンクロ感は最高だ。また、まるでフラットアイアンビルの前の交差点で、盲目を演じるマダムにデブなボーイスカウトの少年が三つの誓いよろしく常に三本指を立てるなどホントに細かいところに気が利いている。子犬の頃にシャンピオンの部屋でおもちゃの列車に尻尾をはさんだからブルーノは電車に向かって必ず吠えるわけだが、こういう個性の与え方にも驚きがある。おまえは牛かよという体型のブルーノがすごく愛しく思うのは、ツール・ド・フランスの最中にさらわれたシャンピオンを追って港まで行くためにパンクしたタイヤの代わりを務めるところ。痛々しいようでブルーノは全然こたえていない。すごいアイデアだと思う。さらにエンドクレジットが終わった後にまで。あのペダルボート屋のお兄ちゃんがまだ帰りを待ってるとは思わなかった。余談だが、中盤からの摩天楼の街ベルヴィルは明らかにNYCなのだが、実際のベルヴィルはパリの北側にあるごみごみした街だったと思う。序盤で描かれる少し荒んだ街は実際の情景ではないと思うが雰囲気は近いのではないだろうか。昔は良かったが都市と郊外両方の開発が進み途中途中に位置する街に漂う雰囲気。それらは高架を走る電車などの後付けされた部分だけは立派。だが駅を降りると駅前は喧騒があるが一歩街に踏み入れると移民や低所得者たちがボロボロのアパートに時間が止まったように暮らす。それはどこか墓場のような様相を呈する街。のどかというよりも無気力さが漂うような印象。隣街との違いがよそ者にはわからないような変哲のなさ。そうした光景はパリだけではなく東京でもNYCでも、都市の主要な交通機関が地下鉄に置かれたような都市には必ず見られる。余談ついでにフランスのオフィシャルサイトはコンテンツがとても豊富。でもこの映画、絵のタッチや物語の終わり方などどこかフランス的と言ってしまえばそうなのだが、逆説的に言えば、いざ劇場公開ということを睨んでの映画製作となるとプロデュース側からの意向で削られてしまうような要素も数多いのではないかと思う。その意味ではディズニーの正反対にあると思うし、フランス的というよりもショメ監督の持つ、絶対に妥協しないような職人としての仕事の仕方に独自性が生まれたのだろう。そして、こういう人こそ応援していかなければならない人なのだと思う。

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