Friday, September 23, 2005

The Man Who Cried

原題に較べて随分脚色された感があるが、邦題は「耳に残るは君の歌声」。まぁ映画を見終わってみるとそういう題名の方が合っているようにも思う。監督と脚本はサリー・ポッター。あまり聞かない名前だ。ジョニー・ディップとクリスティ-ナ・リッチ、そしてケイト・ブランシェットも出ているのだから失敗はないだろうと踏んで見ることにした。クリスティーナは全然イメージがない。「バッファロー'66」で怪演したらしいが見ていないし「アダムス・ファミリー」の目玉の大きな娘役ぐらいだろうか。冒頭の約15分は物語の背景を描くが一切泣き声をはさまない。そこから感じる重々しさ。父との離別。祖母との離別。普通ならぎゃぁと叫んだり怒鳴り声が飛び交ってもおかしくないのに人々の声はみなひそひそと話すように聞こえる。そこにある抑圧。その抑圧は突出した我がさらに肥大化したものが生む。それに対して抵抗する力など赤ん坊のように持たないユダヤの民たちはギリギリまで我を削ってどうにか生きるすべを探る。ユダヤの民は常に寡黙のままだが、今では逆に抵抗できないだけの力を得た。物語はロシアからアメリカのはずが英国へ。フィゲーレからスーザンへ変えられて行く様に胸にこみ上げるものを感じるのは自分が娘を持っているからだろうか。歌を身につけて舞台はパリへ。ケイトと一緒に森の中に入ってクリスマスツリーを見定める場面はとても美しい。ケイトの発音は完全にブリティッシュなのだがなぜか聞いていてとても心地良いのはなぜだろう。自分の美しさを武器にドミニオを魅了しながら生き抜くすべをさぐるローラの役はともすればいやらしさが前面に出るところだろうが、ケイトが演じるからか優雅さを失わず作品の質を高めている。彼女がオペラの端役で舞台に登場する場面でしっかりと舞台を演じているのには驚かされる。映画の中で舞台を演じるというのはとても難しいと思うのだが。ジョニー・ディップの登場も無言。彼がまともにセリフを吐くのは映画も中盤だ。その後も言葉少なく存在感のある男を演じる。それから連れてきてる馬がものすごく賢いのだろうけれどジョニーの馬術はたいしたものだ。「レジェンズ・オブ・フォール」を見た時にブラピも相当うまいと思ったがジョニーもまったく違和感を感じない。パリをあんな風に馬に乗って駆けると素晴らしいだろうなと思わせる。イタリア移民のオペラ歌手を演じるジョン・タートゥーロもすごく熱の入った演技を見せる。あのなまり方は簡単には出来ない。音楽を軸にした物語だから当然かもしれないが、そうした発音の違いを強調するかのような演出だけでもこの映画が「音」にこだわっていることがよくわかる。同時に音楽にとても敬意を払っていると思う。そうでなければパリの下宿屋のおばさんの部屋で聞く場面も、歌うダンテを伴奏するドイツ将校の表情にも酔いしれるような表情は出てこないだろう。物語はものすごく時間軸を早回しにしながら父親と離ればなれになった娘の運命を描く。ラストに至る展開は強引さが重なる部分もあるが静かに物語を締めくくる。美術も衣装も撮影もどちらかと言えば低予算内で上手にやりましたという仕事だが決して悪くない。でも細かなところにあまり意識を馳せさせずに物語を追い続けることがこの映画はできた。その意味では力のある映画ということになるのだが、どこがどうだったから良かったと言いにくい作品だ。その言いにくさも力のある作品の特徴だろうか。ひとつ言うなら主役がクリスティ-ナ・リッチだったことが成功の要因のように思う。彼女は決してずば抜けた存在ではないし、この映画に出演したのは20歳だというのに子供っぽさが鼻につく。でもどれも力のある脇役たちに助けられたおかげで彼女にしか出来ないものを残せたのだろう。しかしながらよくもこれだけ味のある濃い人間を集めたものだ。父親を演じるオレグ・ヤンコフスキーは絵になるし演技も深い。同時にロシアの村の人々からジプシーの歌うおじさんたちまで、とにかくこの映画のキャスティング・ディレクターには心から敬意を表したい。また子供の頃のフィゲーレを演じたクラウディア・ランダー・デュークは注目したい。彼女が出ている「ファイナル・カーテン」を見てみたいと思った。

Tuesday, September 20, 2005

THE DAY AFTER TOMORROW

日本だけではなく世界のどこかで思わぬ豪雪や旱魃、また巨大台風などが発生すると「異常気象」という言葉を使った報道が行われる。しかしそれは本来の気象が「異常」なのではなく、人間が生み出している熱が「異常」なのだという本質的な部分が報道されない。つまり、それらの現象は起こるべくして起こっている気象現象であって原因不明のというモノ言い自体が完全に間違っている。そもそも気象現象は熱による空気密度の変化によって起こるもの。その摂理は気の遠くなるような時間を経て安定したもの。それでも一定の周期で変動し、世界が凍る寒冷期と温暖期が存在する。しかしその変動は、これまた気の遠くなるような時間をかけて徐々に徐々に変化する。しかし、本来のその摂理に、人間が太陽熱以外の熱源を身勝手に発生させ続けてきたことで、起こるべくして起こる気象現象が昨今の豪雪や旱魃や巨大台風なのだ。それを「異常気象」と自然のせいにしている人間側の立ち位置こそ改めなければならない。これは小学生でも理解できるシンプルな事実なのだ。そして自分がForests-Foreverを企画し、コンテンツを作り続けながらずっと胸に抱え続けてきたこうした思いをこの映画が見事に代弁してくれた気がした。この映画を再度見直したとき、ビジュアルエフェクツにまったく違和感を感じないことが驚きだった。海が盛り上がって大津波がNYCを飲み込むシーンにも不思議と作り物臭さを感じない。それはなぜだろう。緻密なコンピュータシミュレーションがベースにあるからだけではない。そこを考えてみると、そうした場面の前に十分にリアリティを持たせるための伏線が本当にしっかりしているからだと思うに至った。裏側にある地道な努力が存在しているからこそ見たこともない映像を作り物と感じさせないのだろう。その部分でこの映画は特に秀でているのではないだろうか。また映画の中でリアリティを与えるための重要な表現要素として「テレビ報道」という表現を多用している。これにも思うことが少なくない。世界中の人々は「マスメディア」を信じている。しかし、最初に書いたように彼らは事実を伝えるという立場に立った上で無意識に自分たちの「思い込み」を世界に押し付けている。物語は悪くないし見所も多い。だが最初に記した歪んだ環境問題の理解などがどうしてもアタマから離れなかった。

Thursday, September 15, 2005

Apollo 13

そういえば「アポロ13」について書いていなかったのでエントリーを作っておく。この映画は宇宙モノではあるが脚本家は密室劇としてのドラマを重視したのだと思う。もちろん打ち上げから帰還までを描くわけだから、宇宙飛行士や彼らを取り巻く数々の登場人物の性格や背景も描くし、ヒューストンの内側も描かれる。しかし「ライトスタッフ」のような物語の展開方法ではなく、限りなく密室での物語に焦点を当てたのだろう。舞台は宇宙空間に漂う狭い着陸船と地上の管制センター。離れてはいるがそれぞれが信頼しあって危機を乗り切るという人間ドラマ。内容に関してはウィキペディアあたりで書かれていることで十分だと思う。物語としては、いわゆる危機を乗り越えたアメリカンヒーロー像を描くことで感動させようというタイプの映画だ。それがわかっているのに、何度みても最後に管制センターが「やったー」と沸く場面になると胸が熱くなる。特にエド・ハリスには敬服する。でもそれはやっぱりロン・ハワードの演出のチカラだろう。彼はそういうことを知り尽くして映画を撮っている数少ない監督だろう。

Wednesday, September 14, 2005

Mission to Mars

アポロ13」を観て、おやっこの役者悪くないかも…と思ったのが宇宙船に乗れるはずが医者の報告ミスで突然乗れないことになってしまった宇宙飛行士・ケンの役を演じたゲイリー・シニーズだった。そしてこの映画では主役。いつのまに主役を張れる俳優になったんだろう…と思いながら観た。思ったとおり彼は悪くない。でもこの映画のマズいところは、そのゲイリーを本当の主役に置き切れなかったところだろう。ゲイリーは好きだし一流の俳優だと僕は思う。でも脇役ではなく主役たる脚本を与えられなければ、どんな役者でも輝きようがない気がする。同時に映画自体も結局は締まらない。そこにこの映画を制作した人間たちの八方美人さが滲み出ていてすごくいやらしい。一番印象に残ったのはティム・ロビンスの宇宙での自殺だった。コニー・ニールセン演じるワイフが「だめー」と叫んでいる最中にぷしゅー。一瞬にして乾燥と凍結が起こり瞬時に固まって火星上空を漂うゴミになる。彼はクルー全員と妻の生存のために自殺する。人間愛のドラマが描かれる。しかし、しかしだ。それで物語の何かが変るわけでもない。つまり結局そうした死が尊く描ききれていない点においおいという感じであった。そもそも「オーシャンズ11」でも味出しのドン・チャンドル演じるルークを含む最初の火星探査クルーたちの死もすごくいい加減だ。「死に方」は壮大なヴィジュアル・エフェクツで描かれるが「死にざま」がない。ここにも脚本と演出に問題がある。どうやらブライアン・デ・パルマは枝葉の描きこみは上手いが脚本を触るのは苦手なようだ。「アンタッチャブル」とか「ミッション・インポッシブル」のようなテレビ的なドンチャンものがデ・パルマの得意領域と覚えておこう。それからあの謎の要塞のどデカい顔はどうなんだか。まったくもって意味不明である。確かこの映画はディズニーだったような気がする。そう思えばディズニー一流のトゲ隠しだらけの映画ともいえる。トゲ隠しに捧げる意味で一番エグい場面のキャプチャーを上げておく。しかしこうも駄作が多い宇宙モノっていうのは、結構難しいカテゴリーということなんだろう。あのクリントでさえ「スペース・カウボーイ」でずっこけてたほどだし。

Monday, September 12, 2005

The Day of The Jackal

これは1964年前後を舞台背景に1973に製作された映画。30年以上前の作品なのだが、子供の頃に観て、強烈な印象を残した一作だった。記憶の襞をなぞるように脳裏を探るとさまざまに象徴的な場面を思い出す。照準の中に完全に捉えたドゴールの頭を撃ち損じる瞬間の映像は自分でも驚くほど鮮明さを保って記憶から出てきた。負傷した退役軍人を演じて杖をつくジャッカルの姿も浮かんでくる。さらに式典が始まったあとジャッカルを追いかける刑事の息遣いや建物を見上げるパリの街の色も鮮明だ。そして隙間の開いた窓を見つけジャッカルの潜む屋根裏に駆け上がる場面。だがどうしたことか思い出すのはそうしたラストの息詰まる数分のみ。物語の背景やストーリー展開などは記憶の中から全部吹っ飛んでしまっている。当時の僕は中学2年の13歳。アルジェリア独立を認めたドゴールが軍部の反感を買ったことや当時の世界情勢など、まさに世界史を学び始めた僕には複雑で難しすぎる状況設定だったのであろう。実際、そうした欧米の歴史に疎いのは今も同じで変らないのだが、あの当時はシャルル・ドゴールというひさしの短い筒のような帽子をかぶった長身の男がフランス人の代表的なイメージとして自分の中に焼きついた記憶がある。余談だが当時の各国の長はそれぞれ個性的に特徴を持っていたように思う。アメリカはケネディ大統領。インドはネール首相。中国には毛沢東や周恩来。英国はチャーチル。ソヴィエト連邦にはスターリンやブレジネフ。キューバにはカストロ。日本では吉田茂や佐藤栄作などなど、なぜか容易に似顔絵とお国柄の出た衣装が描けるようなキャラクター性に富んでいたように思う。それに較べると昨今の指導者たちは顔が弱い。個性的と言えるのは北朝鮮のキム・ジョンイルはじめ全員危険分子と位置づけられた存在ばかりだ。民主主義は顔も変えてしまうということだろうか。余談が過ぎた。話を映画に戻す。そういう稚拙な知識しか持たない幼い僕の脳裏に「スナイパー」という存在を刻み付けたのは間違いなくこの映画だった。本当にそんな恐ろしいことを職業にしている男たちが現実にいるのかどうかは別として、身を隠し、遠く離れた場所から狙い定めて一撃で人を殺すという行為の単純さと、狙われた側の無防備さが強く印象に残った記憶がある。いずれにしろドキドキする演出部分しか覚えていないわけだが強く印象に残っているということは必ず学ぶべき手法が詰め込まれているはず。そうした思いを持ってもう一度見直してみることにした。この時代の映画を見ていると本当にストーリーテリングの基本を学ぶことが出来る。この作品も学習できる。映画が始まっての序盤で、物語の主軸となる暗殺の動機部分を無駄なく説明し尽くすが、そのスピード感は見事だ。当時の風景も今見直すと勉強になる。ベージュの大理石の官邸の前に黒塗りのシトロエンが居並ぶ光景は至極フランス的だし、当時のカフェの様子なども興味深い。シャモニーの山荘を映し出す場面でのズーミング手法も基本の基本だ。今では飛行機からタラップを降りることなど少なくなったがジャッカルが降りてくるオーストリア航空の機体にある斜体のタイポグラフィも字間が美しい。ジャッカルが準備を重ねるシーンには台詞はほとんどない。図書館、役所、空港、駅、列車…、国から国への移動もテロップを出さず、すべて情景描写の積み重ね。そのひとつひとつが本当に勉強になる。場面転換でも、伝令役の警官から役人に、そして側近へと書類が手渡されて届けられる流れに、後ろから続いて行くようなカメラワークで官邸の奥深くまで導いていく演出など本当に見事だ。エリゼ宮の内部も美しい。毛髪染めのオールドスパイスのボトル、ジャッカルが持つダンヒルのライター、「SAS」のビニールショルダーなどなど、往時の小物も懐かしくも重要な要素に思える。スイカを試し撃ちする場面で照準を合わせる段階ではプスっという手ごたえを続けるが、引きの絵に移ってから少し間をおいてどばっと割れ飛び散るさまを見せ、銃器の威力や行われようとしている暗殺が相当惨たらしい結果になることを与えていくなど演出も極めて精緻。そもそも用意周到なジャッカルにも思いがけない事故という出来事を与える原作が素晴らしい。物語はそこを切り抜けるために美しきモンペリエ夫人を誘惑し、静かに彼女を殺すあたりから一気に加速し始める。追っ手を紙一重でかわしながらパリに入ったジャッカルがサウナに行ってゲイとして身を隠すというアイデアもちょっと思いつかない。そのゲイの彼の暮らしぶりも身奇麗でセンスが良くフランスのゲイという意味ではすごくリアリティがある。そして舞台はすべて整ってのラスト。刻々と時間が過ぎる。そこには台詞はない。まるで自分がそこにいるがごとくの演出。ジンネマン監督の映画を見直してみたいと強く思わされた。

Sunday, September 11, 2005

Le Parfum d'Yvonne

邦題は「イヴォンヌの香り」。僕のフェイヴァリットのひとつ。最初に観たのは1994年頃だったと思う。そのとき僕はあまりの美しさに席を立てなかった。同時に映画の作られ方としてもアメリカ的な映画ではなくフランス映画らしい終わり方に強い印象を僕に与えた。当時の僕はファッションの仕事ばかりをしていた時期でもあり相当思い込みが強かったのかもしれない。しかし今見直しても全然古さを感じないのはなぜだろう。イヴォンヌは当時も今もその「しっとり」した美しさは変らない。ただ神々しく美しい女ではなく、映画の題名にあるような香りを伴ったしっとり感が画面から立ち上がってくるのだ。パトリス・ルコントの作品はどれもみな好きだ。ロシュフォール演じる「髪結いの亭主」でも、そうした香りのようなものを感じさせられる。それは決して匂い立つというような過剰さを持たず、常にそよ風のように映像の中を吹き抜ける。これがエレガンスというものだろう。美術と衣装は満点に近い。あらゆるものが徹底して選び抜かれたような知的な作業の結集に思える。その色彩感覚は「絵画のようだ」という形容詞で言い表すようなものではなく、これも香りのように見事に画面に溶け込んで美しい。無駄のない色彩の配置。柔らかく滑らかな質感。冷たさやぬくもりもひとつひとつのモノが持っている力を知り尽くした上でのスタイリング。そのひとつひとつを書き出し始めると本当にキリがなくなってしまう。華美ではないラグジャリとはこういう世界なのかと当時も今も何度見ても勉強になる。香りから呼び覚まされる記憶というものはおそらく最高に豊かなイマジネーションの世界だろう。焼きたてのパンの匂いのようなものではなく、タオルに感じる太陽の手触りのようなもの。掴めそうで掴めない。追いかけるとすぐに消えてしまうような、すれ違いざまの残り香のようなもの。そうした脆くもまちがいなくそこに存在する美しい感覚を、インタンジブルなままに伝えることが出来るようなアートディレクターになりたいと僕はずっと努力してきた。この映画はそうした方向性を強めるに大きな影響を僕に与えた。果たしていまの自分にそうした能力は備わったのだろうか。

Wednesday, September 07, 2005

A Few Good Men

この映画のこともほとんど知らずに見た。知っていたのはトムが出演して好評だったという噂程度。公開は1992年。おれはこの10年なにやってたのだろう。俗世間にうとすぎると言われても仕方ない。それほどデザインにはまり切っていたのだろうか。それまぁいい。ジャック・ニコルソンに期待して見たのだが「アポロ13」や「ミズティック・リバー」で力を見せてくれたケヴィン・ベーコンやら、「24」でブレイクしたキーファー・サザーランドといった曲者たちまで出ているとは知らなかった。トム・クルーズも恥ずかしくなるほど若々しいがしっかりと演じていて悪くない。それに較べてデミ・ムーアの大根ぶりには唖然とする。なんなんだよこの女。最低でしょう…と言わざるを得ない。とにかくこの作品でのデミは中途半端。そもそもギャロウェイ中尉っていう存在がどういう人間なのか本当に表面的なことしか演じていない。それがとても薄っぺらい。その点ではケビン・ポラック演じるサムの方が全然わかる。サムの出番と言うかポラックがサムの人となりを演じて見せられる場面があれほど少ないと言うのにだ。それに較べてデミはあれだけ演じる機会を与えられているというのに何も演じていない。あほかと思うほど演技もへただ。冒頭でぶつぶつ言いながら登場する場面もクソだし、トムが彼女のオフィスを最初に訪ねる場面でもトムはリンゴをむしゃむしゃ食べながら演じまくるのにデミはステロタイプな反応を演じるだけ。彼女を思い出すとなんかむかつくほど駄目ぶりが目立つのはまわりが良いからなのだろう。ジャック・ニコルソンはまるでこういう役柄にぴったりすぎて怖いほどだ。力の差が歴然としていると思わせる重い演技。また脚本がなんともハリウッド的なレトリック満載で唸ってしまう。法廷劇というのは昔からよく作られてきたが、この作品では法廷で善悪すべてが決まるという物語にしていない。背景に徹底的な規律という罠があり、そこでの価値観の世界と日常の中での常識との駆け引きがある。法廷での決着の、まだその先があり、そこを考えろと観客にテーマをゆだねる手法には一筋縄ではない技を感じる。最後の最後に無罪ではない部分を作り、観客の期待を裏切りつつも、枝葉を全部帰結して映画に意味を持たせる脚本は見事だ。このオチのつけかたは二時間引っ張ってきたからこそ滲み出るものだと思うが、ラストの敬礼で語る作り手のテーマ表現は簡単に出来るものではない。練りに練ってからもう一度練る。そういう考え尽くされた脚本だと思う。脚本を手掛けたのは「冷たい月を抱く女」のアーロン・ソーキン。こういう才能がごろごろしてるハリウッドというところは本当に底知れぬ力を秘めている。それから冒頭のタイトルバックに見る整列しての団体行動は驚いた。まるで手品のようだし、シャッキンというのは良く見るがこんなに色々な技を見たのは初めて。文字通り息が合っているという状態を見事に捉えているわけだが、これまでもがラストの法廷での質問に繋がった帰結。よく考えてある。しかしこの題名。あっけないほどシンプルな題名だけに、込められたものを考えさせられる。

Saturday, September 03, 2005

Gone in Sixty Seconds

邦題は「60セカンズ」。主役はニコラス・ケイジ。製作はブラッカイマー。クライム・アクションというカテゴリーらしいのだが、アクションってなんて訳したらいいのかな。犯罪活劇とでも言えばいいのだろうか。ブラッカイマーのモーションロゴが道路に落ちる稲妻だからか、そこからにゅわーとグラフィックで始まる最初のタイトルバックは、カッコイイ風だけど今ではモロダサ系に思えてしまう。でもその後の部屋のクローズアップを舐めるように動く場面は、映像も美しいし音楽とカメラの動きがぴしっと合わせてあるのが気持ちいい。こういう気持ちよさは基本ということだ。おっとジョヴァンニ・リビシがキレたところを見せる。そうか「ヘヴン」の前にこういう映画に出てたのね。彼の存在感って独特だけど素晴らしいものがある。こういうのを持って生まれた才能って言うんだろう。予想通り、ニコラス・ケイジはちょっとしょぼくれた状態の役柄で登場する。途端のセリフが子供に向かって「自制心。想像力。そして決断力。これを忘れるな」。いい言葉だ。その後の展開は、弟が仕事をミスる。その開けた穴を兄貴が埋めないと弟は殺される。しかしその穴は巨大で、不可能に近いことをやってのけなければ到底埋められそうにない。同時に兄貴には過去があり昔の敵もいる。だが、やらにゃならん。やってやるぞ、と言うわけだ。しかしまぁ、これだけシンプルな話を二時間飽きさせずにぐいぐいと引っ張れるのはさすがと言わなきゃならん。物語は本当に単純。枝葉もあるが、余計な伏線は一切ない。登場人物のパーソナリティも、キチっと分配されて、ものすごく明快。その上、それぞれ設定されたパーソナリティに合ったキャスティングも見事だ。脚本は特別に秀逸ということはないが、基本はまったく外していないし、物語を前に前にと推し進めていく。俳優たちも与えられた役柄を外さずに演じていく。僕はこの映画を見て初めてブラッカイマーが持つ力がどういうものを基本に置いているかを一段強く理解したように思えた。なるほどね。