THE NIGHT PORTER
シャーロット・ランプリングである。豪奢なパレスの一室と思われる部屋で、テーブルの上に素っ裸で座り、片足を曲げ向こうに足を開いたまま後ろを振り返る女。シャーロット・ランプリングを撮ったヘルムートのモノクロームの写真だけが、若き日の僕にとってのシャーロット・ランプリングだった。その強烈なイメージは脳裏に今も焼きついたままだ。そうして彼女は僕にとってノーブルの権化であり、気高さの権化であり、ミューズとなっていった。しかしそれは彫刻のようであり、見とれるほどに美しいが触れてはいけない存在。生身の人間としてよりもミューズ。つまり女神のような存在として位置づけていた。だからこそ、この「愛の嵐」も前々から見たいようで、実は見るのが怖い映画だった。見てしまうとその僕の内なるイメージが脆くも崩れるような気がして、いつまで経っても見る勇気を持てなかった。そして最近「スイミング・プール」を見た。しかし年老いてしまったシャーロットを見続けることに耐えられず「スイミング・プール」は中途半端なところで見るのを止めてしまった。そのコメントはまた別に書くとして、やっぱり確かめなくては…という想いを持ってシャーロット・ランプリングの代表作であるこの映画を見始めた。しかして映画が始まった途端、シャーロットの美しさに画面に釘づけとなった。その神々しさ。生身の人間として微笑む美しい姿だけではなく、その内側に秘められたる強い力。それは、美しさに見とれても決して触ってはいけない尊い神像のような存在であった。決して距離を縮めてはいけない禁断のミューズ。怒りを抑えているようでもあり、泣きたいような悲しみを抱えているようでもあり、映画を見るまでもなく登場した瞬間の一瞬で変る表情の中に、激情と哀しみとが秘められた悲痛さを感じさせる。この存在感は誰にもない。まさにメデューサのごときシャーロット・ランプリングなのである。映画は全体に明度が低く微妙な表情が読み取りにくい。真っ暗な映画館で座りスクリーンを観るというスタイルで鑑賞するのが正しい見方であろう。色彩は青みが美しい。ところどころで青の時代のピカソの絵を思わせる。物語の背景は早い段階で掴むことが出来る。脳裏に浮かんだものを短い場面のインサートで繋いでいく手法により展開する流れが自然とわかる。途中途中に差し込まれるくどいほど長い舞踏やオペラの場面も、回想されているシーンだと思うことで苦痛は和らぐ。しかし、数多くの人間の苦悩が編みこまれるわけだが、それにしてもこの映画、物語が進むリズムが非常にゆっくりしていて、僕のようにシャーロットに見惚れるという要素がないと見続けるのには相当の努力が必要かもしれない。
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