Wednesday, April 26, 2006

Something's Gotta Give

深く考えながら作品に触れなければ、それはただの映画鑑賞になってしまう…と自分に強く言い聞かせながらの3月は総数22本、そのうちココにノートを残した作品だけでも15本と、ある意味ですごい勢いで映画を見たわけだが、それはそれでさすがに勉強になった。4月に入ってからは色々と状況も変ってなにやら忙しく、移動の時間も多くなったこともあって読書の機会が随分と増えた。さらに本は読みかけると読み終えたいわけで、どこにでも持ち歩いては栞を挟んでは読み、食べながら読み、寝る前も読むということになる。これが本というメディアの最大、且つ替えがたい利点であり特徴で、映画やインタラクティブはこうはいかない。そんなことで結局のところ4月は映画を数本しか見ることがなかった。さてこの映画、どんな作品に出ても全部自分の世界に強引に連れ込む曲者ジャック・ニコルソンが、若い女好きのスケベ親父役で主演というのだから期待してしまう。相手役にはあのダイアン・キートン。あの、の意味はウッディ・アレンをすぐに思い出してしまう意味と、確か昔ジャック・ニコルソンと付き合ってたはずじゃなかったけ…の意味での、あの。さらにキアヌ。この映画はマトリックスと同時期の製作なわけで、だけど結局、「コンスタンティン」で、元の木阿弥。どうなんですかね。邦題は「恋愛適齢期」。原題のガッタギヴのニュアンスは「なんとかしなきゃーょ」っていうぐらいの意味で使われる言葉…だったと思う。違うかも。まぁいいや。しかしまぁ、ジャックもダイアンもビックリするほど老けましたな。特にダイアンがちょっと悲しい感じだけれど、まぁ、ジャックも含めて、いまどきの60歳ってこんな感じかもな。で、映画だけど、正直言ってつまんない。物語がどうにもクサいし、金の心配のいらない熟年の男と女が過す時間なんて、全然リアリティが持てなくて感情移入のしようがない。ダイアンの笑い顔と泣き顔は全部同じ顔で同じアクションで飽き飽きする。そもそもロングアイランドのハンプトンズにサマーハウス持ってる人間だぜ。さらに熟年のいちゃいちゃを、いったい何分見せ続けるんだよっていう感じ。さらにやってることがまるで子供じみてて全然知性を感じないし、全然どきどきもしない。マンハッタンに戻ってからすぐのエリカが取り乱す場面も、演技はしているのはわかるが、ずーっとずーっと、どうなのよ、どうなの、という状態が続く。でも、それがジャック・ニコルソンの出ている映画のパターンだと気づいたのは、映画が終わってからだった。だけど、何よりつまんないのは、ハッピーエンドだからだ。「アバウト・シュミット」のように、あのままハリーがバトームーシュを見ながら、さめざめと泣いて終わってくれればまだ見れる映画だったということにしてもいい。でもそこでエリカが戻ってくるって、ったくクリスマスシーズンの映画興行成績戦線に向けて作られた脚本が丸出しで正直言って後味悪い。で、気分を変えて、この映画からはラグジャリな生活スタイルの描写を学ぶことにしよう。その視点で見れば物語がどうかを置いておいて少しは勉強にはなるかなと思った。しかし、なにせ美術の趣味趣向がアメリカ式のリッチなので、屋敷はデカいんだけれども、全部どこかのカタログで見たことがあるようなインテリア趣味。それはハンプトンズの家でも同じで、アメリカの主婦があこがれる世界観って言うのはこういう暮らしを指すのだろうか。味わいのカケラもない。一見、色彩もうまく合わせてあるように思うが、質感が画一的で、本当に見てられない。実際にある家を片付けて、それらしくセット風にモノを持ち込んだだけというような薄っぺらさが目に付く。そもそも家族の場所でもあるのだろうが、脚本家という主人公の役柄からすれば、もう少しあるべき本棚があっても良さそうなものだ。だがそうした知性を感じない。つまりそれはエリカを意味なく馬鹿女に感じさせてしまう。エリカに関しては、どこを取っても、ひとつひとつのモノが、どうも意味を為していないということで、他の美術が優れた作品に比べると、底が浅いというか、考え、練り尽くされたような印象はカケラも感じなかった。ハリーの屋敷も結局部分的にしか見せない。だからハリーの美意識や価値観が伝わってこない。仮にも成功している人間なんだから、南の島に行くとはいっても、その格好はないだろう。そこでも結局つまらなかった。興味深かったのはサザビーズのオークションディーラーの仕事をしている娘の部屋。キャプチャを上げて記憶に残しておきたいと思わせたのは、白い大理石のトルソー。これは美しかった。

Sunday, April 23, 2006

Once Upon a Time in Mexico

原題を直訳すれば「むかしむかしメキシコで…」となる。それを邦題では「レジェンド・オブ・メキシコ」と変えて伝説の男の話というトーンにしたようだ。でも、この映画、やっぱり原題っぽく見ないと苦しい。つまり、おとぎ話として見なければ、色々な話がごちゃまぜになって進行するので、いちいち枝葉を追いかけているとかなり疲れる。でも、まぁ、これだけ枝葉を広げながらも、最終的には全員うまく映画の中に納めこむのだから、まぁそれはすごいなと思わされる。普通だとこうはいかない。では、なぜうまく行ったのか。それは不要になったら殺してしまえるからだ。枝葉抹殺型脚本とでもしておこうか。とにかく物語の敵役は見事に全員死んでいく。冒頭から物語が相当クサい。テレビの「刑事ナッシュ・ブリッジス」で、ナッシュの相棒役ジョー・ドミンゲスを長い間演じていたチーチ・マリンが、それらしくガンパッチつけて馬鹿馬鹿しい話をさもありなんと話す。それを聞くのがジョニデ。最初は彼の話かと思うほどにずっと話を引っ張って行くのだが、これが長い。いつまでたっても話の設定が終わらない。ようやくアントニオ・バンデラス演じるマリアッチが動き出すまで一時間もかかる。この点は、これまで学んできた基本からすると、あきらかに長すぎる。さらに先にも書いたが枝葉だらけで、どうなることやらという感じ。しかし、見終わってみると、学習してきた20分ルールというのは、あくまでも手法のひとつであって、サビアタマな作りをしようとする場合においての鉄則ということがわかる。この映画では、ここの枝葉の導入と同時に重ね合わせた意図があり、まず全部ネタを出してから、それらを収斂させていくのではなく、すこしづつ細かな収斂をそのつど描くので、設定完了までが長いと感じたわけだ。凶悪な男・バリロをウィレム・デフォーが演じているが、彼があいかわらずワル系の役にキャスティングされているのは惜しい感じがする。味のある役で主役を務めて欲しいもんだ。キャスティングで思い出したが、この映画、その点では徹底的にメキシコ・スパニッシュ系のおいしいところを集めた感じで、昔のFBI捜査官役のルーベン・ブラデズまでもがメキシカンに馴染んでいて面白い。その視点からすると浮いているのはジョニーとミッキー・ローク。彼らを衣装などで一生懸命馴染ませようとしているが浮いている感じが否めない。まぁそういう役どころだからそれでいいのだがミッキー・ロークの相変わらずぶりにも驚かされる。彼はもうこういう役しかできないのだろうか。どこか飲んだくれのダメ系ヤサ男。映像は全体に彩度が高い。赤道近くの強い光を強調しているようで、実際はそうでもない。だが、その赤道直下の濃密さは色彩によって強く感じられ、色に関しては相当意識しているように思われる。とにかく物語は、なんでやの…という疑問符だらけなのだが、まぁいいじゃんという具合に進んで行くので、そういうなんで…という視点は中盤までであきらめた。見ていてすごいなぁと思ったのはメキシコの風俗の面白さだ。特に「死者の日」という祭りの情景は見ごたえがあって、京都の祇園祭を思い出した。街の様子、テキーラに料理、闘牛…、いずれにしろメキシコといえば思い出すような要素は全部入っている。だがそのすべてが現実のものをベースにしているので、この映画の前に見た「Mr & Mrs Smith」でのキューバのセットのような、うぉっというような迫力はない。つまりセットでその世界を作るなら、オリジナルの再現だけではダメで、たとえば天井の高さとか、光の入り方といったところでのある程度の誇張が必要になるということだろう。しかしこの映画、監督、製作、脚本、撮影、プロダクションデザイン、編集、さらに音楽まで、全部ロバート・ロドリゲスひとりでこなしているっていうのにはマジ驚かされる。やる気になったらできるのね。

Thursday, April 20, 2006

Mr. & Mrs. Smith

いやいや。この映画、とってもナイスです。こういう感覚、いまクールと呼ぶべき感覚なんだと思う。監督は「ボーン・アイデンテティ」を監督したダグ・リーマン。確か彼はその続編の「ボーン・スプレマシー」では製作総指揮を務めてたはず。いまイケイケなのかな。これらの製作の実績で、ブラッド・ピットとアンジーをこの映画に引っ張り出せたと思えばいいのかな。いずれにしろ撮影あがりの監督だから絵はむちゃくちゃかっこいい。プロデューサーの一人であるアキヴァ・ゴールズマンは今さら書く必要もないほど成功を重ねているが、この映画の練りに練られた脚本はアキヴァの香りがする。それから、撮影のボジャン・バゼリの名前は記憶しておきたい。どの場面も構図をシネスコサイズの良さを如何なく使いこなしていて驚くばかりだが、これは監督のセンスもあるだろう。冒頭のカウンセラーの質問に答える場面はヨコ一杯に構図として使っていて、まるで自分が聞き手になったような錯覚を起こす。これがテレビ放映とかになったら、どう切るんだろうか。どう考えても一人ずつを追いかけるようなカット割りになってしまって、二人が互いの演技を受けてのリアクションはきっとごっそり削り落とされてしまうのだろう。それだけでなく照明も撮影もすごく印象的な仕上げになっていて目を見張る思いがする。最初にすごいなと思ったのは序盤の二人が出会うシーン。その光の強さの表現や色彩を取り込むうまさには舌を巻く。意気投合して踊る場面も、手前を暗くして時折フラッシングの光で状況を映し出す。これが爆撃のようでもあり雷のようでもあり素晴らしい演出となって状況を醸し出す。さらに翌朝。眩しいばかりの、という形容詞そのものの強い光の表現。恐ろしくかっこいいホテルのベッドを固定カメラでの構図に加えて手持ちのゆらゆら感を与えたカメラで寄っていく。こんな凝ったことが出来るカメラマンはそうはいない。同時に遠くに聞こえる戦闘ヘリの音やパトカーのサイレンなど、状況の説明が重ねに重ねられていて情報の盛り込まれ方に圧倒される。ホント説得力がある。ここまで重ねるぐらいの事はどんな仕事であってもしたいもんだ。一転してニューヨークのボクシングジム。ここでもあえて見にくい撮影方法を選択している。声はするが話しているジョンの姿をなかなか見せない。これもうまい手だしブラピ好みに思える。一転してどこかの渓谷の岩山にへばりつくジェーン。二人とも一番の仲間に相手のことを話している。そしてあの邸宅。いまどきのリッチが見事に凝縮されていて、これも恐ろしいほどの美術だ。それに、その家の場面での撮影が凝っている。バスルームからクローゼットまでは鏡とタンスの扉の映り込みで絵を作っていく。本来肩が擦れ合うほどに狭い場所なのにまったくそれを感じさせないのには驚いた。ボジャン・バゼリは照明も天才的に思う。いや、映画での撮影と言えばそれはすなわち照明ってことか。家具も置かれているものや壁にかかっている絵などの趣味も、決してひとつのスタイルを表現しようと無理したようなものではなく、とても自然なのだが、どれもこれも最新の感覚にあふれている。いいなぁと思ったのはリビングの綿のような光源を放つシャンデリア。それとダイニングテーブルの上に輝く丸い玉が連なったような照明もすごく素敵だ。ジェーンが飾る趣味の悪いカーテンは後で銃撃戦の舞台となるあたりまでの伏線となる。衣装はローブなど家の中でのものがすごく上質で素晴らしい。ベッド周りの小物もすごく質が高いのがよくわかる。クッション、まくら、シーツやブランケットも全部買えば普通のものの20倍ぐらいの値段のものばかりだ。こうしたことをあえて映し込んでいるのも意図的と思える。そういえばジェーンが自分のユーティリティ室で電話をかけている場面があるが、壁にかかった写真が僕にはとてもウケた。確か6人がうずくまるように座っているのを俯瞰で撮ったモノクロ写真だったと思うが、なぜかとても印象に残った。それから、あのオーブン。まさかあそこにジェーンの武器が隠されているとはね。ナイフと銃を取り出した後に、ぷぃんと後ろ足でオーブンの扉を蹴り上げるところとかもナイス。それはさておき、この序盤の一連のシーンは、セリフもひとつづつに全部含んだニュアンスがあって全部ウソで固めた夫婦生活=隠れミノ生活の微妙なよそよそしさが面白い。約15分でそうした情景描写は完了する。しかし、この15分に塗り込められた情報の多さったら半端じゃない。20分すぎ、二人の仕事がそれぞれのスタイルで手際よく行われる。ジェーンが向かうホテルのペントハウスのインテリアも中々すごいが、すりガラスを通しての光や色の捉え方がとても美しい。ここにもボジャン・バゼリの才能が垣間見える。一方ジョンの方は場末のレストランの奥の部屋でポーカーに興じながらの仕事だが、ここはいかにもブラピらしい計算された演技が見れる。次の仕事は罠。互いの仕事の仕方はここでも対極的に描かれる。片や計画性の高いジェーン。砂漠の一本道からぐいぐいーんと寄って壊れた東屋に立つジェーンを映す手法は以前から映画ではよく見る手法だが、どうしてコマーシャルで使われないのだろう。それがとっても不思議。一方のジョンは登場の仕方もバギーに乗ってでそれらしいが、バズーカでどっかーんを狙う。互いを互いに知らずに邪魔モノとして殺しあう。街に戻った二人のすごし方も対照的。「ファーザーから電話です」だってさ。ファーザー。うまいジョークだ。先にジョンがジェーンの正体を見破る。ここで映画は40分。レキシントンのビルを調べに行くジョンのシーンもサングラスへの映り込みが素晴らしく効果を上げている。本当に徹底してワンカットごとに厚い情報を与えようとする意図が見て取れる。続いてジェーンがジョンの立ち小便の姿に感づく。さてさて、互いの正体に疑惑を持ちながらの夕食のシーンは見ている方まで緊張させられるわけだが、ここでの最大の効果は音楽と効果音。ひそひそ声で話すような音楽に乗せて剣を抜くときによくあるような切れ味鋭いと思わせるシャリーンという効果音。確信する場面がワインボトルを落とすという一瞬に込められているところがすごくかっこいい。こんな映画見たことないぜ。いよいよ対決。まずはジョンが一歩出遅れて納屋の武器を全部なくす。しかし負けてはいない。すぐにジェーンのオフィスのあるビルに忍び込む。それをさまざまな機器でスキャンするジェーン。しかし、こういう場面で描き出されるモニター画面って言うのは、どうしてこうもくどダサいのか。独自インターフェイスのデザインが必要なのはわかるが、そもそもモニター画面で物語の進行を表現しようとするときに、あまりに説明的な上にくるくる回ったりチカチカし過ぎやしませんかという感じ。どう考えてもあり得ない突飛な技術表現が描かれてしまうと逆に今のオーディエンスは萎えてしまうと思うのは僕だけだろうか。まぁ、この映画のインターフェイスのほとんどは読みやすいDINやOCRB書体を使っているだけまだマシだし、あくまでも演出効果の域に留めて物語をぐいぐい引っ張るのであまり気にはならない。最上階にジェーンのアジトがあるビルに忍び込んだジョンは、ジェーンを追い詰めるが、あっという間にデータ消去して隣のビルにぴゅーとワイヤーで逃げるのを撃てない。でもそこは躊躇が走って当然。その先には逆の立場で、ジョンの乗ったエレベーターの爆破をジェーンが躊躇。結局騙しあいで、互いに実力伯仲。物語はちょうどここで半分の1時間。なんとまぁ、基本通りとは言えよくまぁここまで…と思う。場面は一転してレストラン。ジョンが踊りながらジェーンを軽く痛めつけていくというシーンは、ジョンの性格を現していてうまいと思う。しかしジェーンも自分らしい方法でその場から抜け出す。ここからは、もう本気の対決。あの素敵な家もめっちゃくちゃ。よくまぁそれだけぶっ壊すなというほどのドンパチ。いやいやホントこの映画キレてる。しかし、思えばブラッド・ピットの出ている映画で、こういう殴り合いのシーンで手加減してると感じたことは一度もない。その逆に、常にそこまでやりますかというぐらいに徹底して彼は殴り、殴られる。それは、はにかんだ場面からキレた演技まで、そのすべてが彼の中で細かく計算されているという証拠だろう。だからこそ彼は武装派から紳士まで幅広い役を演じることが出来るのだと思う。彼はまぎれもなく当代随一の映画俳優だろう。一方のアンジェリーナ・ジェリーもマジかよというぐらいに応戦する。いくら映画用の小道具だとはいえ銃の重さは十分に感じられる。それは片手で軽々と扱う中に彼女の微妙な表情の変化に見て取れる。そういう細やかさは特筆していいだろう。大きな振り子時計にぶちかまされる場面とかも決して適当じゃない。「プライベート・ライアン」のように粉々に吹き飛ぶというような類の大袈裟な真実味ではなくとも、本気で相手を殺そうと思って殴り合っている細かなリアリティがあるからこそ、この突飛な物語を見ていられる。徹底的にやりあった後に本気の愛情が芽生える。二人が組んだら怖いものなし…と思いきや、最初から罠に落ちてる二人は両方の組織から狙われる。短い一服のあと、またもどんぱち。そしてどっかーん。この吹っ飛んだ家の場面はどうやって撮ったんだろう。こうして絵を飽きさせない構成も考えられてるが、僕がいいなと思うのは、こういう爆破しーんを極端なスローモーションなどで見せずにあっさりと終わらせる感覚だ。どうも最近のハリウッド映画は、こういうどっかんの場面がくどいと思っていたので、そんなのは全体の中でのひとつに過ぎないという引っ張らない感覚に共感する。直後に来るカーチェイスも迫力満点。思うのは個々の場面への予算配分を片寄らせずに常に全体のバランスを考えながら作るという製作者のセンスだ。それは敵のBMWをジェーンがスパッと片付けたあとの無言の間がすごく効いているところにも見てとれる。さてと、エディに話をつけて反撃開始。しかしエディを演じるヴィンス・ヴォーンはこういう演技しか出来ない役者だが、この映画では悪くない。そう考えるとあの「ビー・クール」はホント最低の映画だ。ここで残り時間30分。後はもうやっつけるしかないねという展開なわけで、どう料理するのかと思っていたら、罠役の小僧ベンジャミンを捕まえに行く。それも連邦裁判所の地下という設定で、まぁホントにこれでもかという設定を続けてくれる。さらに脚本が延々と夫婦喧嘩タッチ。面白くすべきことを考え尽くしたセリフ。ベンジャミンを拿捕した後のモーテルの内装と照明も手抜きが無い。画面の中での色彩や構図。どこまでも考えられていてほんとすごい。ようやく罠だと分った途端にピンチ。家具屋まで移動しての銃撃戦。ここでも最後まで「間」が見事。あの危機的状況に、あののんびり動くエレベーターの場面を挿入するなんて誰が考え付くだろう。さらにアクション映画としての最大の見せ場をダンスに変えて、結局、夫婦愛の物語に着地させる。いやいや、なんだかノートがすごく長くなったが、学習のポイントは「画面に盛り込む情報はどれだけ厚く出来るかを常に考え抜かなければならない。けれど全体に亘ってその密度を維持出来なければ観る側は萎えたり醒めてしまう」ってことだ。これは肝に銘じておくべきこと。ホントに勉強になった。ちなみにオフィシャルサイトはダサい。

Tuesday, April 18, 2006

All the Pretty Horses

なんか急転直下な出来事もあって落ち着きを無くしていたが、心を鎮めるように心がけたこの数日。今までどおりの生活リズムに戻すべく映画を見ることにした。邦題は珍しく原題のままに「すべての美しい馬」。映画の出だしのシーン。大量の馬が画面を横切るように走り抜ける場面は、カメラの位置も低く、また馬も栗色や白などさまざまな色が混ざっていて迫力がある。馬のシークエンスとしてはとても印象深い。またタイトルバックで荒野を表現するシーンも3秒ぐらいの短い情景描写を重ね重ねていく部分もとても勉強になる。こういうリズムで情報をどんどん重ねていくことで物語が展開する情景が見る側の中に立ち上がってくる。そこから重なるピアノの旋律とマットの声。これがこの映画のトーンを決定づける。コロンビアとミラマックスのクレジットを含めて、そこまでで3分。こういう掴みをさらりと頭の中でイメージできなきゃ駄目なわけだ。さらに話は進む。牧場を愛してきたジョン。しかし祖父が死ぬ。澄んだ瞳が美しいロバート・パトリック演じる父親は世捨て人。母は再婚して女優。サム・シェパード演じる弁護士にも相談するが、母親がすべてを相続し、家と牧場は三倍の値段をつけた石油会社に売られる見込み。居場所がなくなり仲間のレイシーとメキシコへ向かう。ここまでで8分。なんとも見事な導入だ。そのあと製作陣のクレジットに入るが、南への旅の場面で見せられる景色はかなりすごい。あまり見たことがない感じ。潅木が入り混じった砂漠と荒野。徐々に徐々に土地が豊かになって行くなと感じた途端に遥かに広がる渓谷。川を越えればそこはメキシコ。とてもさらりと仕上がっているが、こういう緻密な構成は簡単なことじゃない。男二人旅というと、どこか「モーターサイクル・ダイアリーズ」を思い出すが、この物語ではすぐに少年が旅に加わる。そこからはそれぞれの個性を生かした三者の係わり合いが始まる。これも定石だ。それぞれの強みと弱み。だが、この映画の主人公であるマットは、ずっとそれを傍観している。それはつまり彼の紹介は序盤で終わっていて後二人の紹介が終わるまでは脇に回して当然ということだろう。映画が始まって30分すぎには、新たな生活の場を得て、何して働くか、雇い主、その娘と、主な登場人物と状況の詳細設定が完了する。これもいつもの基本だ。さらに旅に加わった少年は雷が怖くて問題を起こした後に一度消える。この伏線の帰着も楽しみとして残すのも基本だろう。しかし荒馬を馴らすという仕事をここまでじっくり見たのは初めてのように思う。要はロデオなわけだが確かにキツい仕事だし、相手は生き物だから、馬に対する愛情がなければ成立しないのは明らか。その意味では昔からカウボーイは荒くれ男だけれど心は優しいと言われてきたのも頷ける。物語は雇い主の美しい娘との関係を深めてしまう方向に進む。周りは知っているが口にはしない。唯一、仲間のレイシーだけが口に出して忠告する。娘が去った直後に突然の逮捕。やっぱりあの小僧のために…とブレヴィンス。早々に伏線が戻ってくる。ここで映画はちょうど半分ぐらいか。ふむふむ。ここでも基本の構成だ。いきなり留置所。だがその前にレイシーとは友情を確認しあう。これも伏線だろうなと思った途端にブレヴィンスは殺され、二人はエグい刑務所へ送られる。前半とは打って変って理不尽に満ちた世界。殺さなければ殺される。そして突然の釈放。なんだか主人公は死なないマンガのような物語だが、アレハンドラのおかげで生きて娑婆に戻る。そこからは急に恋愛映画タッチに移行して悲しい別れ。しかし、ペネロペってこんなに涙出せる女優だったのね…という感じだが、それでもヘタでどうにも見ていられない。ジョンはそこから馬を取り返すという意外な行動を取る。ほクソ笑いながらブレヴィンスを殺した警官を追い立てて馬を連れ出し、ふたたび荒野へ。そして留置所で一緒だったインディアンに助けられ川を越えてアメリカに戻る。そしてアルマーニに似た判事がシブい演技を決め、ジョンは故郷に戻りレイシーに馬を戻す。さて、この映画、何を描きたかったのだろう。信念だろうか。友情だろうか。生きるということだろうか。ラストシーンの絵からすると青春映画のようにも思う。この手の情景描写の映画の場合、美術や衣装がどうなのかを判断することはまったく出来ない。それぐらいにテキサスのことも知らないしメキシコのことも知らない。少なくとも構成は見事だと思う。脚本もほどほどに上出来ではないだろうか。撮影は構図のひねりが足りないというかベタ回しが目についたが光量をうまく捉えて味を出していたのは明記しておけると思う。しかし何かが足りないと思うのは何だろう。良く出来ているおにに何かが足りない。だからぐっと胸に迫るものがない。だからきっとこの映画のことはいつの間にか記憶の片隅に片付けられてしまうような気がする。

Tuesday, April 04, 2006

La Vita di Leonardo Da Vinci

邦題は「レオナルド・ダ・ビンチの生涯」。製作されたのは1974年。僕はまだ中学生だったが、テレビの前で呆然と口を開けたまま見入ってしまった時の記憶は生々しく残っている。ものすごいインパクトがあり、子供の頃から絵を描いてきていた僕は、この番組を見て本格的に絵画の世界というものに興味を持った。そしてこの番組が僕に与えた影響は今思うと計り知れないほど大きなものだったのだようだ。翌週から旭屋書店や紀伊国屋書店でダ・ヴィンチのデッサンが出ている本を毎日見に行った。書店の人は変な子供だと思ったに違いない。もちろん月のこずかいが数百円の子供だったから数万円もする豪華本は絶対に買えない。そのために脳裏に焼き付けようとした記憶がある。特にデッサン。ペンや木炭で描かれた人々の表情や、馬の各部を描いたデッサンは、今でも脳裏に鮮明に浮き上がるほど脳裏に刻んだ。そして、そうした高価な美術書をめくり続けているうちに僕の興味はどんどん深まり、アートには色々な世界があることを徐々に知っていったのだった。また中学二年の同級生に素晴らしい友人がいて、彼は夏休みの絵画の宿題にキュビズムの手法で描いた静物画を持ってきた。その時の嫉妬に近い驚きも忘れられない。それを目にしたとき、あ、自分でも描けるんだと気づかされたのだった。そこから僕は美術部に入り、先生が絵を描くのを飽きずに眺めていた。余談が過ぎた。1452年にフィレンツェ近くのダヴィンチ村にてセルピエロの息子として生まれたレオナルド。彼の死後50年後にヴァザーリが残した記録に沿って、史実に沿って忠実に描かれた作品だ。だが普通の映画と違うのは、そこに居合わせたように、自然にナビゲーター役の男性が画面の中に登場するところだ。これがとても強い印象となって残っている。細身のスーツ姿で手に持ったヴァザーリの記録を彼は読み上げる。彼は当然のようにカメラ目線で話しかけてくる。これは映画ではありえない表現であって、テレビ的というべきなのだろうが、物語と受け手の距離を繋ぐ役目として、とても重要な役を演じているとも言えると思うし、この表現はまさにインタラクティブに向いていると思っている。さて、第一部はレオナルドの死の場面から導入される。一転して彼の洗礼の場面。妾の子としての誕生から、彼の生活環境やベロッキオの工房で学んだ子供時代などがとても詳細に描かれる。第一部は彼がフィレンツェからミラノに旅立つところまで。そこにはメディチ家が強力な権力を握っていたルネッサンス当時のイタリアの様子も細かく再現されていてとても興味深い。第二部は、のどかなトスカーナから、交易で栄えていたミラノに着いてからのレオナルドを描く。レオナルド30歳。まさに芸術家として彼の初期の円熟期に当たる時期。光と影を掴まえて描く手法や、ロンバルディア地方の自然に触れて遠近法に加えて霞んだ空気感を持ち込んで行く様子もキチンと描かれる。また科学者として目覚めていく場面も興味深い。おびただしい数の人体のスケッチは正確無比。昼間は絵を描いたり舞台の演出をしたりしながらロドリコや貴婦人たちのご機嫌を取り、夜は地下室にこもって人体を切り刻む。その二面性には驚かされるが、彼は間違いなく天才であり、狂気とともにあったと思われても仕方のないほどに彼の脳髄は働いたのだろう。ミラノ公国を開いたフランチェスコ・スフォルツァの記念像の模型がとうとう完成し、1493年、石膏の型まで出来たところで公開されたというのに、その記録は残っていない。最終的にはフランス軍のミラノ侵攻によって破壊されてしまうという悲劇的な場面は第三部にあるが、子供心に胸が痛んだ記憶がある。第二部は、おそらく生みの母親であるカテリーナを埋葬するレオナルドの内心を描くところで終わる。第三部はサンタマリア・デル・グラッツィエ修道院の食堂の壁に、どのようにして「最後の晩餐」が描かれることになったかの経緯から始まる。この壁画は構想から完成まで5年の歳月を費やされる。ジョットの作品ではコの字型のテーブル配置の様式を、カスターニョの作品ではそれが一列となりユダだけを手前に描く手法があり、ボッティチェリもほぼ同じ構図で描いているがテーブルはシンメトリーにコの字に戻っている。サンマルコ教会にあるギルランダーヨのフレスコ画は、その様式を踏襲し、レオナルドも最初はそうした伝統的な構図を考えていたスケッチが示される。なんとも興味深い。そこからレオナルドは聖書を読み直し、最後の晩餐の情景を思い浮かべ、キリストの孤独を見出していく。この構図がどれほど考えられた絵なのかが解説されるが、これも僕は子供心に大きな驚きと好奇心を抱いたことだった。絵は考えて描くものだとは教えられてこなかったからだ。絵には考えを込めていける。それを知ったのはとても大きかった。ユダの位置は低く、フィリッポの位置は高く、その中間にイエスがいる。またフレスコ画の説明も当時の僕には初めて聞く体験で、以後、塗りの浅いフレスコ画を見るたびに、この番組の説明場面を思い出したものだった。それほど僕にとってこの作品は大きな影響を与えたことになる。ベアトリーチェが死ぬ夜の舞踏会の場面は、当時の衣装がどういうったものだったかを細かく見て取ることが出来る。1499年、フランスのルイ12世はミラノ公国に侵攻。ロドリコは亡命し、レオナルドもミラノに居られなくなりマントバに逃れるが、王妃のイザベラ・デステはフランスを怖れてレオナルドを受け入れず、仕方なくヴェネツィアに向かう。この場面で出てくるデステの横顔のデッサンはルーブルにあるが、これも子供心に、とても強い印象がある。それは針で刺した穴が無数に開いているからだ。おそらく模写するために後に弟子が開けたものとされているが、そのプツプツした針の穴が鮮明な記憶となって僕の脳裏には残っている。ヴェネツィアでレオナルドは潜水艦や潜水具を考え付く。だがそれらは公開されずに終わるのだが、彼は、こうした発明は必ず恐ろしいことに使われてしまうだろうとメモに書き残し、アイデアを自ら葬り去ってしまう。レオナルド50歳。第四部は、西暦1500年、レオナルドが生まれ故郷のフィレンツェ共和国に戻るところから始まる。しかしフィレンツェでは1494年にサボナローラ率いるドミニコ修道会がメディチ家を追放し、ロレンツォ公が育み作らせた美術品がことごとく破壊され焼却される。結局サボナローラは市民に捕えられ処刑されるが、すでにメディチ家が築き上げた優美な空気は望むべくもなかった。そうした中にレオナルドはフィレンツェに戻る。そこで活躍していたのはミケランジェロ。彼は彫刻家として16世紀を代表する芸術家として意気揚々。レオナルドとの巨大な大理石の争奪に勝ちダヴィデを作る。そうした彼らは同じ芸術家として常に対立していく。なんともすごい時代なのだが、レオナルドは軍事的な発想にとりつかれる。戦車、機関銃、要塞まで設計するが実現されない。しかし残されているスケッチは500年も前に描かれたというのに、現代にも通用する秀逸なアイデアばかりで驚かされる。だが彼は軍人をやめ、今度は空を飛ぶことに心を奪われる。同時に「アンギアーリの戦い」の壁画でミケランジェロと腕を競い合うことになるが、フレスコ技法を嫌った彼は油絵具で壁画を描き、その乾燥で失敗する。この壁画は結局未完となったが、何人もの画家が模写を試みたものが残っていて、ルーベンスが描いたものがレオナルドのスケッチと照らし合わせても一番近いのではないかといわれている。レオナルドは、何もかもうまく行かない中、コツコツと描いた「モナリザ」を完成させる。さらにそこにラファエロが来る。すげー。ラファエロだよ。フィレンツェに戻って6年。結局彼はミラノに戻ろうとする。第五部。ミラノに戻ってみるとレオナルドの作品は画学生に模写されるような状態で、彼の名声は不動のものとなっていた。同時にドメニコを追放したフランス人のダンボワーズ総督に請われ、彼は三ヶ月でフィレンツェに戻るという契約を破棄してミラノに留まることにする。ルイ12世は「最後の晩餐」を壁ごと切り取ってフランスに持ち帰ろうとしたと言う。フランス軍の将校、ジモラモ・メルティの家で平穏な日々が始まる。弟子として迎えた17歳のフランチェスコ・メルティは彼の息子で、レオナルドが心許せるひとりとなった。この時代、レオナルドはこれまでの膨大なノートを見直しながら思考に耽る。1507年の春、ルイ12世がミラノに来る。国王である彼は「モナリザ」を欲しがるがレオナルドは描きかけですと断る。その後、伯父の死にまつわる相続問題で再びフィレンツェに戻るが、数日の滞在のはずが一冬を無駄にする。画面の中に当時のフィレンツェの登記所が再現されている場面がとても興味深い。本の佇まいや綴じ方など、まさにルネッサンス時代そのものだ。1511年、ミラノ総督シャルル・ダンボワーズが突然死ぬ。1513年、スイスがロンバルディアに侵攻したためにフランスはミラノを撤退。この時代の動きに合わせて、ルイ王朝の宮廷画家となっていたレオナルドもミラノを離れなければならないと思うようになる。レオナルド60歳。彼はローマに向かい、ジュリアーノ・メディチの庇護の下、ヴァチカンに住む。しかしこの時代にレオナルドが何をしていたのか詳細はわかっていない。伝記を書いたヴァザーリも鏡を必要とした何かの機械を開発していたとしか残していない。推測では、それは反射望遠鏡。1515年、ルイ12世の後を継いで20歳のフランソワ一世が国王に即位しイタリアに侵攻。ミラノ軍を破る。教皇レオ10世は自分の力を示すためにヴァチカンつきの名高い芸術家をすべて引き連れて急いでボローニャに赴く。その列にレオナルドも連なっていた。教皇と会見したフランソワ一世は、その場でレオナルドを見つけ、すぐにフランスに招き入れる。1516年、アンボワーズ、クルーの館にて国王の庇護の下、晩年を過す。1519年5月2日、レオナルドは亡くなる。さらに彼の墓は戦争によって荒らされ、彼の遺骨はどこかの共同墓地に眠っているという。権力と宗教の争いによってこのような希代の天才の考察が何世紀も失われたままになってしまったことを忘れてはならないだろう。全部で6時間という長編の作品のため、さすがにこのメモも長くなった。だがその6時間、僕は興味津々のまま見終えることが出来る。こうした教育番組のようなものは僕は大好きだ。最近ではテレビをつけても馬鹿馬鹿しいお笑いは、ただうるさいだけで見る気になれなず、NHKスペシャルや世界遺産、見てもガイアの夜明けやなんでも鑑定団が精一杯。海外に行くと、暇さえあればBBCやナショナル・ジオグラフィックの番組を見て来た。そしていつも思うのはこうした確かで厚い情報にふれた時の満足感だ。ずっとそうした仕事がしたいと願ってきた。その結果が富士フイルムで環境コンテンツへの取り組みだった。今後は出来るだけこうした後世に伝えるべき確かな知識の伝達を手掛けて行きたいと思う。その意味で、ドキュメンタリーも見直していくべきだなと思う今日この頃だ。

Saturday, April 01, 2006

SIDEWAYS

三月はかなりのピッチで映画を見たわけだが一本ずつノートをまとめる作業も含めるとかなり時間を食う。また、映画を見続けていると、また前のように本も読みたいし美術館にも行きたいという気持ちになってくる。でもそれは正しい反応だと自分では思っていて、映画は凝縮されたものを見る行為なので味わいがどうも一方的に渡されたものの解析作業になってしまう。その反動として、活字によって想像力を働かせたり、美術を前にして受動力を高めたくなるのは当然なのだ…と思うわけだ。なので映画の方はちょっとペースを下げるつもり。さて映画だが、単に聞こえの善し悪しなのかどうか「ズ」が抜かれる真意が不明なのだが、邦題は「サイドウェイ」。「グリーン・デスティニー」を見てまた構成と脚本のバランスに意識が行ったこともあるが、とにかく「ビー・クール」での失敗の余韻を一掃するために、アカデミーで脚本とか脚色で賞を獲った作品でも見て、もう一度良い映画とはどういうものかを考えたくなった。映画が始まってから彼らが出発するあたりまでの数分でその期待は満足に向いた。出かけようとする二人の会話だけでわくわくしてくる。主人公の設定が作家系の映画は数多いが、どれも知性のあるセリフが交わされるところが好きだ。と思った途端においおい母親のヘソクリ盗んじゃうのかよ。なんちゅーダメ男と思いきや、彼の繊細さの表現の一環。最初のワイナリーの案内のシーンは面白い。観客をそのまま薀蓄屋にしてしまいそうな勢いのたっぷりな情報量をどっさり盛り込みつつぐいぐい引っ張る。良い脚本ってこうじゃなくちゃという感じ。「ガム咬んでるのか」のセリフで締めくくるあたりもうまい。男二人の状況がほぼ見えて来て、中年丸出しの彼らそれぞれが背負っている大まかな背景も設定完了。さて、ここから物語が始まるというところで約20分。つまり全体の一割で設定を完了し、展開に移るという基本もばっちり。夜道を二人で話しながら正面向いて近づいてきて、マヤを登場させるシーン。そして同じ夜道を二人で後姿で話しながら遠ざかっていく。この構成はすごくさりげないけれどシンメトリカルな撮影演出になっていて強制的に時間経緯を意識させる。これは覚えておきたい。途中ワイナリー回りの場面で画面分割の手法があるが、ジョージ・クルーニーの映画ならまだしも僕はこういうのは好きではない。まぁでもその直後にステファニーの登場ってことで勢いは止まっていない。さぁこれで役者が揃ったと思ったとたんにマイルスの前妻の再婚を聞いてがーん。ここにこれを持ってくるのも脚本の技だ。いよいよ4人揃ったところで40分。すごいなぁ。ちょうど二割。映画の世界ではあたりまえの基本なのだろうが、ここで余計な伏線は土曜日の結婚式を残して皆無っていうところが素晴らしい。レストランでの四人の食事。その後のマイルスが酔っ払って電話をするところの撮影が興味深い。引きの絵はほとんどナシで短い被写界深度のクローズアップ。マイルスが動くのでピントがボケたり来たりするのが、まるで酔っている表現になっている。後半にマヤに会いにレストランに行くが一人で飲みすぎて千鳥足で帰る場面でも同じ手法が見出せる。引きの絵ではあるが酔っ払ったときの揺らぎが伝わる。これは初めて意識した手法だが、おぼろげな意識状態を表現する素晴らしいアイデアだ。余談だがステファニーの家のようにテラスにもソファを置くような生活に前々から憧れている。だが日本では初夏と晩秋のみ可能という気候では、ソファを捨てる覚悟が必要なスタイルに中々踏み切れない。ロスやナパのような気候でこそのカウチだがここは日本。白一色の雪景色から鮮やかな紅葉まで、四季の変化が楽しめる気候では、やはり縁側のある日本古来の住み方を望むべきなのだろう。だが今の東京ではそれの方が難しい。日本に住んでいるのに、日本を楽しみにくい住宅スタイルしか手に入らないというのは皮肉なことだ。揃った四人の設定も主軸を外さず物語は展開していく。結局、登場した順にそれぞれが消えていく。残るのはマイルス。そして階段を登ったところでの終わり。どこかフランス映画的な余韻を残しての幕引きは、なんとも素敵な終わり方だと感心した。アレクサンダー・ペインが監督した「アバウト・シュミット」は飛行機の中で観たのだが、ジャック・ニコルソンが涙するラストシーンで思いもせずもらい泣きした記憶がある。この作品でもやはりラストに引き付ける力はペインらしいと言えるのだろう。