Sunday, December 07, 2008

The Polar Express

クリスマス直前っていうことか、CSで放映され見直したのでエントリーしておく。邦題は「ポーラー・エクスプレス」。ハリウッドで、アニメと言えばディズニーだったけど、昨今のディスニーは、もうGMとかFORDみたいに時代ズレが激しく、かなりの勢いでダメな作品しか作れなくなってしまったし、ピクサーの時代なんだなって思ってたら、ワーナーがアニメーションで、こんなに面白くて心を動かす映画を作れるなんてすごいじゃん、というのが見終わったときの正直な感想だった。原作はクリス・ヴァン・オールズバーグの『急行「北極号」』という絵本なのだが、絵本をここまで徹底したエンタティンメントに仕上げたこと自体、すごいクリエイティブだと思う。製作された2003年には、もっとフォトリアリスティックなレンダリングが可能な技術があったけれど、絵のタッチは、セル・アニメーションとフルレンダリングCGの中間のような、ちょっと前の描画タッチ。でも、それが微細なモーションキャプチャーで動くから全然違和感がないし、俳優が演じる実写よりも柔らかさがあってファンタジーとしては相応しいと思った(その逆で、アニメっぽい世界を実写に落として成功してるのは「チャーリーとチョコレート工場」だろう)。そもそも、そんな表層的な表現よりも、映画の構成と脚本、そして効果が素晴らしくて、物語にどんどん引き込まれていった。北極特急が動き出してからの構成も見事だ。次々に始まるスペクタクルそのものの演出も素晴らしいが、それを紡いでいく物語にまったく違和感が無い。さすがは「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のロバート・ゼメキス。ミュージカル要素、ジェットコースターのような汽車の疾走。トレーラーを引っ張る巨大トラックがドリフトするように列車を描いたり、危機一髪をかいくぐる冒険アクション要素、そしてそれを縦横無尽に描き出すカメラワーク(アニメの場合はなんて言うの?)まで、どれもこれもハリウッドの実写の映画の演出技術がすべて盛り込まれていて、この映画の絵コンテをなぞるだけで相当のものが出来てしまう(もちろん実写ではそごく予算がかかるけど)ような盛りだくさん。妖精が集まるシーンやサンタが登場するところまで、これは子供たちは目をキラキラさせて見ただろうなと思わされる。製作総指揮から、主役の子供に車掌やサンタなど主要な登場人物をトム・ハンクスが演じていて、彼の温かい人柄も伝わってくる。最後に鈴の音が聞こえた瞬間は、この映画を見た誰もが心を温かくしたことだろう。しかし今時の子供っていいよね。僕も子供の頃にこんな素晴らしい映画を見るという体験を持ちたかったなぁ。

Friday, December 05, 2008

GATTACA

あんなに感動したのに「ガタカ」を書くのを忘れてた。そう「ガタカ」である。見直したというわけではなく、偶然にCSのMovie Channelで放映されているのを、最後の15分ぐらい見ただけなのだが、10年前の感動が蘇えってきた。物語も深かったし、多くの感動の要因があったが、なによりも、最初のタイトルのところで綺麗なサックスブルーの光の中に何かがパラパラと落ちているな…と思うところから、最後にジェロームがオレンジ色の光に包まれて焼身自殺をするシーンまで、どの一瞬を切り取っても計算され尽くしたデザインに圧倒された記憶だ。この映画のデザインはヤン・ロールフス。ヤンはこの映画の後、「バッドカンパニー (2002)」や「アレキサンダー (2004)」(このアレキサンダーのプロダクションデザインは、どこを見ても完璧で、本当にすごかった。)、そして「大いなる陰謀 (2007)」のプロダクションデザインも手掛けているが、この「ガタカ」のデザインは最高だと思う。挫折したジェロームが車椅子で暮らす家のコンテンポラリーなデザイン。主人公のヴィンセントとユマ・サーマン演じるアイリーンがあの巨大な建物の前を歩くときの画角とフレーミングの美しさ。彼らの職場(何を処理しているのかわからないけど)の、整然としながらも、そこに座る人間たちの清潔感のある衣装は、みんな「自己抑制が出来る人間で秩序を重んじることが出来る側」という意味でスーツ姿だし、そもそも宇宙飛行士だろうがスタイリッシュなスーツでロケットに乗り込むっていうところから僕はシビれる。僕はアートディレクターという職業だから、どうしてもヤンの仕事を細かく見てしまうわけだが、この映画のコンセプトがあるからこそ、これだけ美しい作品が生まれたのは間違いない。監督と脚本はアンドリュー・ニコル。この「ガタカ」が最初の作品なワケだから、すごい才能だ(スピルバーグが、くだらない映画にしてしまったけど、トム・ハンクス主演の「ターミナル」の原作も彼が書いた)。さて、映画の物語について少し書こう。「そう遠くない未来」と最初に出る。現代はまだ色々な遺伝子の解析をしている時代だが、その解析が終わってしまえば、次は情報の収集となり、大量の情報収集の時代を経れば、それを分析していくことで統計値が出る。そして多種多様な自然による影響も、星座をもとにした「運命」というような概念も失せ、「遺伝的に完璧であること=優れた生物=生きるべき存在」という価値観に捉われる。そしてその価値観がすべてとなった先の社会が、どういったものになるかをこの映画は描き出している。しかし、「遺伝的に完璧であること=優れた生物=生きるべき存在」という方程式は、この映画が作られてからのこの10年で、すでに市民権を得ているではないか。遺伝子組み換えの食物はすでに存在するし流通までしている。遺伝子解析とクローン技術は、すでに僕たちの想像を超えたところで「未来に巨額の利益を出す」という仮説のもとに莫大な資金が注ぎこまれている。そういう意味では、この映画の言う「そう遠くない未来」に僕たちはすでに入っているのかもしれない。もう一点は、この映画の中で「遺伝的に能力が高い」と判断された層が、「不完全な遺伝子を持つ存在(僕もこっちですな)」を支配するという社会のあり方だ。遺伝子で「君はエリート」と位置づけられるほど極端ではないが、人種や、教育レベルや、貧富の差をそのまま「支配と従属」という図式にした差別は、すでに自分たちの社会には存在しているではないか。だが現在の差別は、まだ互いの努力で壊すことが出来る。しかし、遺伝子という軸で数値化され、確実性が高まったとき「遺伝子階級制」を否定出来るだけの生活を自分たちはしているだろうか。このまま地球の人口が増え続けつつ、温暖化の影響で食料が足りなくなったとき、人間は何を基準に淘汰を考えるだろうか…。そういうことも含めて僕はジュード・ロウ演じるジェロームが、実は一番心に残った。

Wednesday, December 03, 2008

CAPOTE

この映画が公開されると聞いたとき、真っ先に思い出したのは35年前に読んだ「冷血」という本が持つ、遅々として進まない語り口だった。ある田舎町で起こった一家惨殺事件を主題に、事件簿という要素だけでなく、惨殺された家族4人と事件を起こした犯人たちがどういう人間だったのかを報告する膨大な、そう、文字通り膨大な記録を淡々と読み続けていく中に、ここまで微細な情報がこのひとつの小説に必要なのかよ…という疑問符が数え切れないほど何度も何度も自分の中に浮かび上がって来たのを思い出した。でも「冷血」は確かに事件簿ではなく小説家が書いたものだった。この小説は「ノンフィクション・ノヴェル」とカテゴライズされたらしいが、当時の僕はまだ15歳。半分は苦痛、半分は乗りかかった船の帰着まで知りたいの両面を、揺れに揺れながら読み終えた記憶がある(結構長いんだよね)。そのせいか、僕にとってのカポーティは「ティファニーで朝食を」の原作者というイメージはまったく存在しない。彼は「冷血」を書いた人でしかない、と自分に位置づけなければならないほど「冷血」は強烈に自分の中に残っている。そういう自分側の事情もあるからだろうか、今もその理由は明快ではないのだが、この「カポーティ」という映画が公開されると聞いて、すぐに映画館に行くことが出来なかった。何をしたかと言えば、アマゾンで「冷血」を買って読み直したのだが、再度読み終えるのにも随分と時間がかかった。それなりに大人になったのだから、あの子供の頃とは違ってスイスイ読めると思ったのが間違いだったようで、15歳の頃の僕を悩ませた一行一節の濃密さは変わる事なく、またそこそこ経験をつんできた僕をして、余計に詳細なディティールが喚起されるという結果となり、これだけのものを活字にして詰め込むというのは、いったい何なんだろう、と思わざるを得なかった。さて、映画はちょうどその「冷血」を書く期間のカポーティを描く。この映画の中で紡がれる出来事がすべて真実なのかどうかはわからないが、事実だ、という前提でこの映画を見るしかない。しかし、そういう視点に立つと、カポーティが目指した「ノンフィクション・ノヴェル」というものが孕む矛盾が徐々に見えてくるように映画は構成されている。自分の小説のネタ集めのために、あらゆる力を動員し、札束をばら撒き、犯人の背景を探るために延命措置として控訴審までお膳立てし、犯人に近づき、嘘を語って心を開かせ、多くの告白をさせ、自分は君の友達だと言い続けるわけだから、彼は一流の詐欺師でもある。そもそも書く側と書かれる側の間には大きな開きがある。そこがバレないように事件当事者たちを騙しながら自分の利益のために立ち回るわけだが、善悪の二面性を自分で気づき、その深い闇に落ちて行ったカポーティが描かれる。映像は静かだ。カンザスは風景を印象的に。NYCのスノッブなシーンも控えめに。刑務所もシンプルで淡々と描く。だけど正直言うと、定番な撮り方ばっかりで空気感が弱く、絵的にもシーモアの演じる暑苦しいコポーティの顔が常に画面に出ているという印象だ。まぁ、シーモアはそれに耐えるだけの演技はしているが、もう少し照明と撮影で色々な感情表現をしてもいいんじゃないかとは思った(控訴が進んで死刑執行がいつになるかわからないって悩みながらパーティに行くがバーで一人で飲む場面の照明とかは逆にあざとくてうざい)。一方、衣装や美術は、かなり丁寧にアメリカの各所のスタイルを描こうとしている。カンザスはカンザスっぽく、NYCはNYCのライフスタイルっていう描き方だが、丁寧さはいいんだけれど、全体に清潔すぎるんだな。それが1960年頃の少し上質の生活あたりを営んでいることがわかる演出だって言われたらそれまでだけど…。でもこの映画、なんかそういう清潔な印象を強調することで、観客を惨殺事件そのものに眼を向けさせず、傍観者から当事者になってしまったカポーティに意識が向くように作られたのかもしれない。そう読み取れば、正しく深く明瞭なアートディレクションが存在しているってことになる。

Monday, December 01, 2008

Children of Men

邦題は「トゥモロー・ワールド」。物語は西暦2027年の英国を舞台にした近未来SF。見終わったあと、これはすごい映画だ…としばらく唖然とした。監督はアルフォンソ・キュアロン。いま出てきたカフェが、いきなりどっかーんと爆破されるっていう衝撃的な導入部から、他のことを考えさせない展開でぐいぐい引っ張り続け、テーマを描ききったラストは感動的だ。正直、じーんと来た。エンドクレジットに重なる子供たちの嬌声に胸が熱くなった。はい。ぶっちゃけやられちゃいました。前半で描かれる主人公テオを取り巻く温かなモノを持った人々が描かれる。そこに別れた妻がテロの親玉として登場し、物語が展開していくわけだけど、そういう主要な人々が、ホント見事に順番に殺されたりしていく。でもその死を全然引きずらない潔い物語の進めかたがすごく心に残った。というかその死なせ方が鮮やかなんだよね。ジュリアン・ムーアも一発で死ぬけど、テオがそれを悲しむシーンを一瞬だけ濃密に描いて、そこで綺麗に捨て切りながら話を進めていく。関わる革命戦線の人間たちも、どんどん物語から身を引いていく。最後には、いままで描いてきた激烈な世界がすべて幻だったかのようなトーンにすっぱり切り替え、その上で主人公のテオまでを完璧な逝きかたで消し、ただひとつの命の存在を輝かせようとする構成と演出。この、捨て切りの姿勢というか、捨てて捨てて捨て続けながら前進させていく感じが他には無いタッチになって心に残る感じがする。表現面では、とにかく映像がすごい。トーンは彩度高めでコントラストも強め、少しカリカリ感ありなんだけど、物語と相まった美術と効果がすごいので圧倒されっぱなし。カット割りもすごいし、とにかく画面から眼が離せない。最後の脱出の前に収容所の中で蜂起が起こり、そこからボートに辿り着くまでの間の銃撃戦あたりの濃密さにはかなり驚いた。なぜなら映像がずっと途切れないからだ。テオの横でずっと彼と彼の周りを手持ちカメラで撮影しているような長回しなんだけど、場面ごとに撮影して編集で繋いだという感じが一切しないのだ。濃密な効果が重なるけれど現実感以上の余計な効果という感じがまったくないのだ。これはすごいことだと思う。CGも現在の20年後ぐらいというところで調和させることを前提に作られていて違和感が少ない。机の上のコンピュータのモニター(これは薄いガラスのようなデザインで今すぐにでも製品化してほしいぐらいかっこいい)も「ちょっとだけ」先進的。クルマは相変わらず今のままの感じだけどカーナビやメーター類がちょっと先進的、という具合だ。途中でテオが通行証を作ってくれるように親戚を訪ねるところなんかも、実際には世界中にある美術品が軒並み並んでたりして面白い。テートに渡る橋が厳重なゲートになってて、中に入るとダビデの足がちょっと欠けてたり、ゲルニカのある部屋での食事とかとか。国家が崩壊するという時、美術品なんかは全部どうでもよくなるという側面を描いているってことだろうか。ある意味で、飢えた時に美術品を抱えていても腹は満たないしそれは正しい。だけど芸術には、飢えた時にこそ希望を湧かせる力を持っている。ただそれはいつからかコンセプト合戦というか概念提示応酬に逃げ込み、実体を伴わなくなった現代美術には存在しない。ダビデ、ゲルニカ、そして、ヒプノシスのピンクの豚。この羅列を提示されてしまうと、そこを深読みしないわけにはいかない。また、この映画の美術には復古調も含めた写真がおびただしい数登場する。それを見て、人々の記憶というものは、紙に定着しているということを強烈に示された気がした。懐かしい思い出は写真に封じ込められ、それを眺めることで心の中に色々なものを呼び起こし、音や感触や匂いまでも誘引する。そうした19世紀~20世紀の手法が、この映画の中の美術にこれでもかというぐらいに提示される。それを見ていると静止した写真には埋め込まれた情報量がものすごく多いことに気づく。見知らぬ家族の写真であっても、よく観察すると、表情に漂うその時の気分や、着ている服から読み取れる暮らしぶりや、化粧や髪型からみえてくる当時の風俗や、背景に写る情景の詳細なディティールが折り重なってその場の空気が、自分の脳内に溢れるように湧きあがってくる。だが、不思議と動画はそういう濃密なものを中々伝達しない。じっと見て、脳内で再構成するという作業を許さずに主題を描くのが動画だ。どちらがリアリティを生むかの議論は不毛で、その特性を十分に理解した上で、静止画と動画の使い分けをすればいい。「モーターサイクル・ダイアリーズ」に挿入されたペルーの人々の数々のモノクロ写真の手法に接した時にアタマを過ぎったものと同じものが、この映画にも存在する。あと、僕はクライヴ・オーウェンが好きだ。今や伝説にさえなった感じの「BMW FILMS」の主役(主役と言ってもこの映画のシリーズには)を演じたころまで日本ではほとんど知られていなかったんじゃないだろうか。すごく不思議に思ったので彼をIMDbで調べてみると、元々は舞台のひとだったようで、まさに「BMW FILMS」から突如としてスクリーンに登場した人だということがわかる。その後の「ボーン・アイデンテティ」で教授という名の殺し屋、そして「キングアーサー」で主役。さらに「インサイドマン(2010に続編が登場するらしい)」、「エリザベス:ゴールデン・エイジ」と、ものすごい活躍だが、僕はやっぱり短編シリーズの「BMW FILMS」で多種多様な状況下でありながら寡黙なドライバーを演じた彼に漂う他には無い存在感が最も記憶に刻まれている。彼もまた見続けて行きたい俳優のひとりだ。