Thursday, March 30, 2006
あーもー。失敗した。見るんじゃなかった。無駄な2時間を過してしまった。あーもーぉぉぉである。平穏な日々の中に、少し慌しさが訪れつつある。だが、映画を見て学ぶ作業は、この先どんなに忙しくなっても継続したい…と恰好つけたいところ。だが見たのは「ビー・クール」。あの「ソード・フィッシュ」の駄目さ加減にかなりウンザリしてたはずなのに懲りずにトラボルタである。まぁソード・フィッシュも製作、監督、脚本が、まったくちぐはぐだっただけのことなので、決してトラボルタが悪いわけではない。さらに、さて気分を変えようか…という時にはこうしたタイプの映画が僕には向いている気がしているから見てしまった。映画が始まった途端にアース・ウィンド・アンド・ファイアと来て、さらにシュープリームス。まぁ気にしませんが…と誰か風にうそぶきたくなる出足。トラボルタは相変わらずトラボルタ。うーん。掴みはある。トム・ハンクスの看板もへぇという感じ。キャディラックからホンダになるあたりもふむふむとクールとは何かを描いているのかと見続ける。マヌケの殺し屋ジョー・ループが登場して電話に出る場面は撮影が新鮮で、後ろのステージでの動きが背景となって重なるような客や店員の動きが前景と後景。そこにぐりぐり変化する照明。短いシーンだが中々の見ものだ。ところが序盤の終わりあたりでどうも嫌な予感がしてくる。途中途中の何でもアリの感覚に嫌な感じが強まる。主線と伏線の交錯の仕方がどうもおかしい。おもろいやんやってみよーみたいなノリで色々撮って行ったけどどうするんだっけという感じ。結局そうした予感は的中し最悪にダメ映画の典型を見せられたような作品だった。脚本は全然落ちてこない。編集もクールどころか全然イケてない。画面の切り替えが遅かったり余韻を作らなかったり、どうでもいい場面がくどすぎる。撮影も最初は期待したのだが中盤からは構図が甘い画面ばかりで気になって仕方ない。美術もそれらしくしているだけで全然光るものがない。ホンモノのステーヴン・タイラーまで連れてきてキチンと演じさせているというのに、それと絡むユマの演技のダサいことったら痛々しい。ハーヴェイまで出ているのに、なんでダブとかラジとか二流三流の俳優たちが演じる線の方を重視させるのかさっぱりわからない。冒頭のアース・ウィンド・アンド・ファイアを筆頭に効果の音楽も最悪だが、実際に歌われる場面の音楽はどれも悪くはなかった。結局、枝葉は全然帰結しないままラストシーンも馬鹿馬鹿しい。あーやだやだ。記憶から消したいぐらいに最悪で、金返せの勢いだがステーヴン・タイラーが見れただけ良かったとしておこう。
Friday, March 24, 2006
Lost in Translation
舞台は東京。作ったのはソフィア。もう見るしかないと公開当時思っていたことを思い出す。だけど予告編を見て萎えた。その理由は日本人をバカにしてる風に「やっぱり」思っってしまったからだ。単に言葉が通じないというだけでなく、欧米から見た黄色いサルとしての日本人像。彼らには日本も韓国も中国も同じなのかもしれないし、アメリカ中部に行くとインドネシアと日本がすぐそばだと思っている人も少なくない(逆に言えば我々だって中東のこととかアフリカ西岸のこととか知らなさ過ぎる)。そういう大雑把な視点からのイケてない人々というイメージ。それを日本人に向けられてもホントに仕方ないほど日本はイケてないし駄目ダメだらけなんだけど、そこをちょっとでも変えたいと、この15年インターナショナルなデザインを作ろうとやってきた僕としてはどうも直視に耐えないわけだ。ただ、ソフィアの才能は素直に認める。彼女らしい柔らかさは独特の世界だ。「わけわかんない」世界=東京に来てしまった「わけわかんなくない」という価値観を持つふたりのラブストーリー。思い上がりもいい加減にしろって思ってしまう自分を抑えられなくて逆に腹が立つ。
LEGALLY BLONDE 2
邦題は「キューティー・ブロンド2」。原題にはさらに「赤、白、そしてブロンド」という副題がついているが、邦題の副題は「ハッピーMAX」となっていて何がなんだか意味が全然わからないのは僕がコヤジのせいだろうか…と思っていたが、見終わってみると、ふむふむ確かにマキシマムなハッピーって感じだわと不思議に納得。こういう邦題づくりの感覚がちょっとづつ分かってきたぞ。前作を見た上で続編を見るという僕にとっては周到な準備を行ったつもりだったが、やはりこの手の作品は僕の範疇にはないようにも思う。でも、ただのバカ系でもない。映画そのもので楽しめたかと言われるとかなり怪しい。かといって途中でもういいやとなったかと言うとそうでもなく、結局最後まで見てるわけだ。見てるというか引っ張りこまれて離されなかったという感じだろうか。途中の展開はありえねーの連続なのだが、そのありえなさが痛いというほどでもない。どういえばいいか良くわからないけれど、エルの飛躍の仕方があまりにも強引でマンガ的なのだが、ひとつひとつの場面の作りこみや、張った伏線に対しては全部帰結させるところなど、映画の基本と思えるものは全部守られていて、その点では良く出来た映画と言うことになる。また、以前にも増してすごいなぁと感嘆したのはソフィ・カーボネルの衣装だ。今回もエルは場面が変るたびに常に衣装を変えて登場する。思い出すだけでも30着ぐらいはあっただろうか。もちろん最もフィーチャーされているのはポスターにもなってるシルクジャガードのピンクのスーツスタイルだが、それも帽子とバッグを工夫したりパンナム時代のスチュワーデス風のアレンジが効いていて面白い。あの白い手袋はもう技としか言えないだろう。帽子からつま先まで一分の隙もない衣装と言うのは普通は変なのだが、この映画ではそれが楽しみになってくるわけだからソフィの力がいかに凄いかがわかる。同時に、そうした完璧なコーディネーションが次々に現れ、数え切れないほどとなってくると、ピンク一辺倒のように思わせながらも主人公エルのセンスがとても洗練されているという印象を徐々に与えていく。とにかく衣装を取り巻くすべての世界観はエル・ウッズのファッショニスタとしての面目躍如満開と言う感じだ。ワシントンでピンクのスーツに決めるまでの、鏡の前のエルの衣装選びの場面も、本当に細かいところまで楽しめる。その中でリースはエルを演じきって行くわけだ。この世界観づくりに関しては相当練られたものと思われる。そういえばこの作品ではリースは製作総指揮を務めている。製作総指揮というのがどれだけストレスフルな仕事かは想像に容易いが金を集めて陣頭指揮しながら演じて責任を取るわけだからリースは相当タフな女性ということになる。アカデミーを射止めるにはそうしたタフさも必要と言うことだろう。美術は今回「オースティン・パワーズ」のマーク・ウォースィントンが務めたようだが、冒頭の手作りアルバムがものすごく良く出来ていて驚いた。ああいうページをめくるたびに「うわぁ」と言わせようというような思いを持って作られた仕事は僕は大好きだし、僕自身もそういう思いを持って自分自身のエディトリアルデザインのスタイルを確立させていった。さらに単にコラージュしているだけではなく、さも誰にでも作れそうな手法をあえて使っている。水玉や豹柄パターンの紙を切り抜いて張り合わせたり、靴の形に色紙を切って貼り付けたり、写真に写っているリボンを再現したようにくるくる巻いて立体的にしたり、表紙を綿入りのもっこりした感じに仕上げたり。でも絶対にあんなのは素人には作れないし、ものすごく手間のかかる作業を経た上に、画面映りまでキチンと計算して作られていることが良くわかる。マチスが絵の具を扱えないほどに衰えて切り絵を始めたとき、すべての色を自分で作り、紙に塗り乾かしたあとにハサミで切って作品化していったのを思い出す。このアルバムもどこにでもある紙の寄せ集めではないことは反射の具合で見出せる。光るスパンコールなどもあったが全体にはマットな質感で、明るく軽い内容に思えるものを上質なものに変えている。写真もあえてちょっと眠くて硬い色調のポラロイド風だ。このあたりの手法は随分学べる。いずれにしろアルバムをめくりながら前作のおさらいをタイトルバック中にさらりと終わらせるというのはとても優れたアイデアだと思う。そう言えば前作の丸っこい文字で始まったタイポグラフィだが今回は長体のゴシックとスネル・ラウンドハウスとなっていた。受ける印象が随分と上品になったわけだが、そこにも学生から社会人へと成長したエルの映画という意味を持たせようというプレゼンテーションがあったように僕は読み解くが考えすぎだろうか。また今回もエルの部屋の美術はものすごいことになっていて興味深かった。クビになっちゃう弁護士事務所のオフィスの壁にはウォーホール風のブルーザーのポートレートがかかってるし、彼女の席の後ろにはリボンアレンジのアートなどなど。どれも画面の中ではフォーカス具合でエルを際立たせる効果も果たしているわけで中々に深いものがある。撮影のこともメモしておこう。いわゆるバックライトが効果的に使われている。おそらく狙った効果はエル・ウッズの持つハッピーなエナジーを際立たせることにあるのだろうが、意図的にブロンドに逆光を当て、さらにかなり生々しいピンクの光をアタマに当ててオーラのような効果を上げている。こうした生々しいいわゆるゼラチンカラーそのままの色をうまく組み合わせて世界観を作るのはアメリカのスティル系フォトグラファーたちが得意とする技だが、ヘタなカメラマンだと、かなり安っぽくなりがちな手法であり僕は何度もソーホーのスタジオで口論したことがある。だから映画の中でここまであからさまに使われているのに少し驚いた。なぜなら写し込む大きさが違うからだ。彼女の周りにはその色調と調和するための背景やセットの美術を計算して配置することが必要になる。映画の世界ではこうしたことは常識なのかもしれないが照明さんと美術さんとの息が合うようにディレクションする重要性を改めて思い知らされる。この映画の中でのその調和の処理がこれまた興味深い。タイトルバックの最初に見られたようなボケ足の長いフォーカシングもあれば、ヴィンテージ質感の葡萄色の衣装で合わせたり、ヴェルサーチ違いの研究所の入り口での押し問答ではシャイニーな質感で調和させるなどの手法も見受けられる。印象的だったのはシドからサジェスチョンを受ける場面。構図全体はオレンジ、ライムグリーン、テラコッタなどの色調を持ったアートの背景と調和させながらも、エルには左から太陽光のような白いバックライト、右からは室内光としてのオレンジピンクの光と、まったく違う色調を組み合わせて主人公を際立たせている。これは簡単そうで適正な露出にするのは難しい仕事。それにしても、あのブルーザー役を務めるチワワ犬には恐れ入る。もう完全に演じていると思わされるし、それも半端じゃない。エルによる「私は誰」のプレゼンテーションは爆笑だった。彼と言うか犬えばいいのかどうかわからないが、実際には犬が物語や脚本を理解して演じているわけではない。ということは、犬が見せる表情を知り尽くした上で、適所でそれを引き出せるドッグ・トレーナーがいるということだ。これはよほどのセンスを持たないと務まらない仕事だろう。その意味でスー・チパートンというドッグトレーナーの名前は覚えておくべきだろう。彼女は前作はもちろん「セヴン」や「ムーンライト・マイル」なども手掛けてる。確かにそれらの映画の中には犬が重要な役割を果たしていた記憶がある。そう考えるとすごい仕事だ。東京にもこうした人がいるのなら是非知り合いたいものだ。最後のスピーチでのエルらしいところから語りかける脚本は悪くはなかった。次はホワイトハウスかよというフリも許す。でも物語がどうとか俳優がどうとか、そういう部分よりも、とにかくスタイリングと撮影という視点では驚くほど勉強になった映画だった。
Thursday, March 23, 2006
Wo hu cang long
寝る前に映画を見ることが習慣になってきたが、やはり外したくないという思いがまだまだ強い。出来るだけ冷静に平常心で作品に接するようにしたいと思うが中々そうはいかない。それは、僕の目はまだまだ甘い素人のものであり、正確に分析する方程式が確立していない証拠だろう。もっと考えながら作品に触れなければただの映画鑑賞になってしまうと自分に言い聞かせる。この映画が始まってしばらくの間、不思議にニューヨークのメトロポリタンミュージアムのことを思い出した。METの2階の左奥にある中国の部屋には小さな中庭があり、そこは小ぶりながらもこの映画の中で豪商の家に見るような美しい様式に触れることができる。さらにその庭の周りは細い回廊のようになっていて、外に出ることも出来る。僕はメットに行くたびに必ずその小さな庭のある場所まで行き石の床に立つ。そこは明るく、美術品を傷めないための薄暗さからひととき開放され、リフレッシュしてからまた鑑賞に戻るわけだ。その小庭以外にもMETにはこうしたちょっと一息という気分転換が出来る場所が数多くある。入り口のすぐ上の回廊は真下の一階の騒々しさが響いてきて決して静かではないが、いつもまずそこに上がって、手を伸ばせば触れることが出来るほど近くにアキレスの足の指の細やかな造形に見惚れながら今日の鑑賞のルートを考える場所にしている。現代美術のところからエレベータで上がる屋上も好きだ。アフリカ室に入る手前の横長の細い隙間にある大理石のギリシャ彫刻が置かれた天井の高い空間も好きだ。またエジプト室のあの豊かな水をたたえる神殿のある大きな空間。神殿は何度も行って知っているのだが、常にすぐには左に曲がらず、いつも神殿のところまで行く。そうすることでナイル河のほとりに立っているような切り替えが出来る。実際にカイロに行ったことはないが、そうして栄華を誇った都に意識を運んでから、エジプト美術の鮮やかな色彩に触れると、そのみずみずしさが違ってくるのだ。どうしても美術に意識が走ってしまうのが僕の性分だからか、余談が過ぎた。映画に戻る。原題は「臥虎藏龍」。英語版では「Crouching Tiger, Hidden Dragon」というタイトル。直訳すればうずくまる虎と隠れた龍となり文字の意味はあっている。この四文字に何か深い意味が隠されているのかもしれないが中国の詩の世界までは到底知るよしがない。いま調べてみると「見かけ通りではないこと」を指す格言とのこと。つまりはチャン・ツィイー演じるイェンの二面性が題名となっているようだ。その一方で邦題は「グリーン・デスティニー」。どうも突飛な感じを持っていたが、映画を見終わってみると「碧名剣」を指していることに気づいた。しかし映画は決して400年前の剣が主役ではない。剣そのものの説明はいたって簡素だし。剣を持つものに及ぶ怪しげな魔力なども描かれない。深読みすれば二面性は剣から発せられたともとれるが、本来の題は剣を示していない。だが、おそらくあの竹林での場面が最も印象的である点や、剣の放つ光などなどを考え合わせてこの邦題に決めたのであろう。善し悪しは別にして、原題に囚われずに自由に決めろとなったとき、言葉の響きやイメージ、展開のし易さなどマーケティング側面も合わせて見据えるであろうこの作業、かなり深いものがあるように思う。ある日瞑想をしていると空となった。しかしそれは歓びの世界ではなく悲しみに包まれ未練に引き戻された…。この東洋的で仏教的な概念。僕にはとてもよくわかるが西欧人に理解を求めることは不可能に近いだろう。観念ではわかっても仕方がない境涯。未練が執着であり、それを捨て切らないと悟りには至らない。それは言葉通り疑いのない信を持って体験を思惟し続けるしかない。映画の中には到底西欧人には理解できないという要素が数多く詰まっている。それは国際的なマーケットを視野に入れて作品に投資する側から見るととても危険な賭けだが、現場はそこを貫いている。余談だが、日本刀はおそらく考えうる刃物としての武器において最も切れると言われているのを思い出す。切れるから斬れるわけではないことは、中学から高校まで剣道を習っていただけの僕でもわかる。宮本武蔵が巌流島で手にした武器が船の櫂であったように太刀は使い手の技による。話を戻す。極めて東洋的な展開はアクションにしろ舞台にしろ数多い。そしてそれは一応成功している。その点では、終盤の竹林でのアクションはとても素晴らしい。ワイヤーアクションの連続はどの場面も結構すごいと思うのだが、その舞台を竹林に置くというアイデアは、西欧の概念では出てこない。前半、中盤、後半と何度も出てくるワイヤーアクションのある場面はすべて舞台が固定された場所だ。最初は城壁に囲まれた広場、次は屋敷近くの境内のような場所、荒野、二階建ての料理屋などなど、すべてまるでセットという場所である。だが最後の竹林の舞台設定はそれらとは違って最大効果を出している。ゆらぐ竹の動きに合わせて繰り出される攻撃や防御などはスパイダーマンを作る欧米には考えつかないものであろう。さらに舞台はますます東洋思想的になり、最後には霞の中を舞う天女の姿にまで拡大される。これが計算の上で行われたとすれば、絵を作っている側の人間たちは相当のつわものと言えるだろう。構成はさまざまな対比を組み合わせていくところに興味を引かれた。中年のプラトニックと、若さが持つ激情という対比。一本の剣と、剣が交わる多種多様な武器という対比。喧騒渦巻く大都会と、荒野・峡谷・竹林といった舞台設定の対比。平和を願う武侠の知性と、力を示して強奪を行う野蛮性という対比。裕福と貧乏などなど、数多くの対比が絡み合う。撮影は美しく成功している。カメラワークは正確だし、フォーカスも要所要所で適切だ。シネスコサイズも十分に効果的に使っている。同時になかなか見ることのない中国各地の雄大な景色を堪能した。山がまるごと竹で覆われた景色もめずらしい。ニュージーランドのフィヨルドかと思うような奥深い峡谷には圧倒される。砂漠や岩山など中国の国土の広さを思い知らされる。一方脚本だが、こちらはかなり深刻な問題が散見される。碧名剣という名剣を巡って二組の男女が絡む物語だが、編みこみの多様さと壮大さに比べて、主人公個々の背景描写がとても薄く感じる。アクション場面をそこまで長々と描く時間があれば、そうした適切な伏線描写に回すべきだと強く感じた。誰と誰が仇なのかは序盤にさらりと設定される。そのあたりの手際は悪くないのだが、ではイェンはどうなのかと目を向けるとさっぱりわからない。武侠側からは碧眼狐が師匠の仇であり婚約者の仇でもあると明快だ。碧眼狐がイェンに嫉妬して果てるというのもわかりやすい。ではなんでイェンはあんなに暴れるのか。象牙の櫛ひとつ取り返すために行くところまで行ってしまう激情型なのはわかった。でも、なんでイェンは何度も碧名剣を盗み、また手放そうとしないのか。僕にはどうしても不満が残る。妹にして、わかったわ、で始まる女二人も、とても唐突に仲たがいする。そして許さないと罵り合ってまたアクションだ。伏線として張られたものをことごとくイェンは無視して物語が進んでいくがいつまでたっても帰着しない。最も最悪なのはそのアクション場面の前の「私はひとまわりしてこようと思う」というリー・ムーバイが使うセリフだ。ひとまわりする理由がわからないまま、その後に一度静けさを描き、唐突に女同士の闘いがやってくる。そして危ないという場面になると「まて」と登場する。これは無粋すぎていただけない。ただいただけないだけでなく、前半にも中盤にも、アクションの場面の直前にこうしたフリが同様の流れで行われる。これは練られていないのを吐露しているようなものだ。さらに、最後にイェンが身を投げるのもどうにも着地しない。親の重病が治るように山頂から飛び降りたら傷つかず空に舞って消えた。そして親は病気が癒えた。物事はすべて信じれば叶うのだ。という洞窟でローが語って聞かせた振りを受けてのラストなのだろうが、イェンがそこまで思いつめて祈るところに心が動かないのだ。そこが繋がれば文字通り感動が来るのはわかってるのに来ない。最初は美術に目が行き、途中から東洋的な表現に意識が向いた。そして最後には脚本に対する不満で終わってしまった。
Friday, March 17, 2006
Diarios de Motocicleta
邦題は「モーターサイクル・ダイアリーズ」。チェ・ゲバラの青春時代を描いた映画。劇場公開時に見たいと思った記憶がある。だが忙しくて映画館には行けなかった。おそらく歴史モノではないという宣伝文句に惹かれたのだと思うが、なぜ見たいと思ったのかは今では思い出せない。しかしこれは以前「TROY」を見たときに書き記したことと同じなのだが、カストロとかゲバラという名前は知っているが、実際には僕は彼のことをなにひとつ知らない。遠い遠い地球の裏側にいた革命の英雄。そうした距離感だけではなく知っているのは資本主義を共産主義者…。カストロとの日々を描いた映画もあるのでそれを見てみようと思う。本当に日本は平和で、弾圧もなければ独裁もない。管理されていないと思わせられているだけかもしれないが、明らかに平和ボケしたこの数十年の日本に暮らしていると、他国の抱える民族問題やイデオロギーの違いに拠って人々が殺し合っているニュースがまるでテレビの向こうの物語にしか受け止められなくなってしまっている。ネットワークがここまで発達したというのに、そうした自分は変っていない。メディアは高度化したが自分の智慧の眼は曇ったままだ。受けた教育や都会生活による屈折など、その理由は沢山考えられるが、根本的に基礎知識の欠落が問題であることを、こうした映画を見るたびに思い知らされる。一方この作品からはまったく違う側面で自分のいまを思い起こさせるものがあった。見ているうちに自分が若かった頃の記憶がどんどん蘇るのだ。僕もバイクに乗っての帰りを決めない旅に出たことがあった。大学を休学し、自宅からひとりサーフボードの板一枚を片手に抱え、右手だけで50ccバイクのパッソルを繰って明石まで行き、フェリーに乗って淡路島に渡り、ノロノロと島を横断して、鳴門海峡をまたフェリーで渡り四国に着いた。鳴門と小松で波に乗り、徳島を通り過ぎて南に向かってひた走る。宍喰までの山道はトラックに轢かれそうになったりしながら、目指す海部の河口に到着したときには、もう金はまったくと言っていいほど残っていなかったが、絵に描いたような波に狂喜乱舞。そこからまた山を越え、生見にあるサーフボードのファクトリーに転がり込み、なんでもやるから寝かせてくれと頼み込む。知り合いのバンの後ろに寝る生活。サーフボードの修理を一箇所やって50円。それで毎朝サンリツパンという一番安いパンを買い、食いつなぎながら毎日毎日波に乗っていた。この映画の中のエルネストと同じ歳に僕もそんな無茶をしたことをすっかり忘れていた。波乗りの映画を見たときも思い出さなかった。でもこの映画を見ている最中に、何度も僕にも何も怖くない無茶が出来た時代があったことを思い出させた。さて映画だが、心激しいフーセルと呼ばれるエルネスト・ゲバラは医学生は年上の陽気な友人アルベルトと一緒に、一見計画されているようで実際は何も計画されていないとても無茶な旅に出る。最初に離れたところに住む恋人に子犬を手土産に会いに行くが、離れがたく二日の予定が一週間も過してしまう。その恋情を振り切って彼らは本当に旅に出るわけだが、見たこともない景色の連続に圧倒される。また場所が変るたびにキチンとテロップで場所と日時、そして旅した距離が表示される。この表示がないとどれだけ進んだのかを何度も地図を出して確かめるような場面が必要になるだろう。もしくは「アビエイター」や「ナショナル・トレジャー」などでも見られたような説明的な図式アニメーションを重ねなければならなくなる。それをタイポグラフィで見せてしまうのは、ある意味で賢いやり方だと思うが、それを多用することはなく気候風土ががらりと変るほどの状況変化を映像は丁寧に描いている。もちろん最初にカフェでアルベルトが地図の上に線を引く場面があるから成立しているのは言うまでもない。バイクの修理工場で夫に隠れて色目を使う女性は明らかに俳優なのだが、登場する沢山の人々がどうも俳優と思えない人が多いのがこの作品の特色だ。特に鉱山で出会う夫婦はどういう人が演じているのだろうか。彼らは俳優なのだろうか。素晴らしい存在感。それは撮影にも拠るがとても印象深い。ハンセン氏病の患者たちも当然エキストラではない。特殊メイクの俳優もいるが実際の病人たちが湛える静けさの中に映画は一気に切り込んでいく。濃い朝もやのなか、船着場で彼らがフーセルたちに手を振って別れを惜しむ場面は胸に迫る。あの筏での別れは病院側ではなく病棟側なのだ。そして最後に実物のアルベルトの目で締めくくられる。現実とフィクションの融合。こんな映画の作られ方は初めてだ。また印象に残ったのは後半からラストにかけて、エルネストの経験を追憶するがごとくに、モノクロームの色調で彼がこの旅で出合った「考えるべき状況」にいる人たちのポートレートの表示。これがとても強い印象を作り出している。僕もそれなりに写真を数多く見てきたが、こうしたひとりの人間の見てきた人々という切り口での写真の提示は、写真の示し方の常道。普通はそれが写真家なのであるが、こうした映画の中にその手法がまったく違和感なく持ち込まれていることに少なからぬ驚きを感じた。実際、アルベルトが写真を撮り続けているということは映画の中で描かれてはいるのだが、同時にそれら写真的映像(動かずにじっとしているのを映像として撮影している)に記録されている人々は、間違いなく特別な存在感を示しながらこの映画の中にいる。エルネストが感じたものを、そこに住む人々の真実の姿を映し出していくことで見る側に重ねてくる。これはとても成功しているのではないだろうか。しかし安易にこの手法をとることは、そちらにリズムを置きかねない事態に陥ることにも繋がるなど、とても危険なので慎重でなければならない…と学習した。
Wednesday, March 15, 2006
Kirikou et La Sorcière
邦題は「キリクと魔女」。驚いた。いやはや美しい。そして強い。本当にどの場面をここに掲げたらいいのか迷うほどだ。こんなに色が美しく思えたのがとても不思議だ。つい先日に「ベルヴィル・ランデブー」を見たこともあって、アニメーション作品という分野の作品も見直していかなければならないなと思ってこれを観ることにした。しかし、そもそも蛍光色的な鮮やかさで絵を映えさせようという色感が氾濫するテレビ的な日本のアニメは今さら見る気にもならない。同じく、実写映画をアニメに描き起こし直したような作品は、アニメになっている分まったくつまらないし、そうすることで画面からの情報量が極端に少なく思えて絵のうまいヘタが際立ってしまい見るに堪えない。一方、ジブリにしろ、手塚治にしろ、ディズニーにしろ、キャラクターは基本的に線画にベタ色であり、そこはこの映画でも変らない。だが舞台設定の描写がこの作品は決定的に違うのだ。ジブリの作品には背景描写に過多にも思える細かな描き込みが行われる。それはそれでひとつの世界観を生み出すし、それはそれでとても魅力的だ。「千と千尋の神隠し」における神々が訪れる湯屋や「ハウルの動く城」のしなる建造物の描写など、目を凝らしていても見逃すような細かな事象の描きこみは作品の質となって立ち上がってくる。ジブリの作品の傾向としてあり余るほどのモノが描かれる。こぼれ落ちそうなほどに机や棚にモノがぎっしりと積み上がったり詰まっていたり。街の景色も細かな石畳の陰影のひとつひとつや看板や街行く人々の衣装も同じように「詳細な違い」を描して、圧倒的な物質量や弁別性を画面の中に持ち込む。しかし、この作品はそうした要素を持ち込みようがない。キリクたちの生活は簡素そのもの。足元は赤い大地。家の中にはラグ、壷、甕、そして杵と臼。数ある村の家々もすべて同じ様式である。もちろん広告看板もばければ様々なスタイルの乗り物が走ることもない。生活スタイルを舞台としている。そこにどのように美しさを表現するかという工夫が垣間見られる。そしてそれがグラフィックデザインに通じる感覚であることがとても新鮮に思うのだ。今までとはまったく違った性質を持った美しさに僕が心を奪われるのは、平面グラフィック的な構成感覚だろう。わかりやすいところでは、魔女カラバのロボット的な眷属たちの姿だった。しかしこの眷属たちの姿は、僕にはアフリカ的というよりも、シェフィールド大学のデヴィッド・マクラガンが著した「天地創造」というテーマの本に記載されているアメリカ・インディアンのバヴァホ族がヘイル・チャントに残した砂絵に見られる造形に近い感じがする。造形的にアフリカにおける象徴性を示すデフォルメは常に豊かな曲線を伴っている。一方、ナヴァホ族やレナペ族が残した造形は非常に幾何学的な洗練性が見出せる。そうしたことが頭を過ぎるが、それは枝葉の話なのでここでは置いておこう。遠くにある末なし河近くの森林の様子はゴーギャンの絵を思わせるような平面性を持ちながら、グラフィック的にすべてのフォルムがリファインされ、同時にすべてにシンプルな個別性を与えている。正確なデッサンの末に行われた葉の一枚一枚の模様のデフォルメ。生きた線を残しながらコピー&ペーストではないひとつひとつ描き込まれた緻密さ。そうした手法にデザイン的な整理が見出せてとても惹かれるのだ。また横長の画面の中での構図の作り方にも共鳴する。たとえば呪いの泉に水が戻ったことを喜び踊る村の女たちの姿は、ピカソの「アヴィニヨンの娘たち」を思い出させる。一転して戻った水がキリクの死の活躍によってのものだったと知り歌を捧げる村人全員が集う場面も、線画にベタ塗りでありながら大胆な構図のカットを織りませながら微妙な色使いを見せる。この対比的な組み合わせは舞台設定、場面構成、そして登場人物たちの動きや表情などすべての要素から見出せる。たとえばキリクのちょこまかした動きとキリクの母親の常に静謐さを漂わせた動きの細やかな対比。全編に亘って臼を打つ杵の音は常に静的なシーンに重みとリズムを与える一方、喜びの感情には動的で複雑で躍動的な生命力を描くという対比。また役柄ごとにも対比を与えている。村の女たちの簡素さに対して、魔女カラバはエミリオ・プッチやレオナールのプリントのような美しい柄の生地を腰に巻き、頭から身体はゴールドの装飾に彩られる。乾いた木の椅子に座る村人の老人は黄土色の布を身にまとう凡夫だが、一方の賢者であるキリクの祖父は清浄な青の台座に座り真っ白の衣服をまとうまるでファラオのようだ。水のない場所は乾燥した色彩で、末なし河近くは極彩色のジャングル。こうした対比が細かく織り込まれていて本当におもしろい。子供たちに向けて作られた作品であることはわかる。しかしキリクの賢さはなんだろう。魔女カラバの行いの裏にある背負う痛みはなんだろう。そこに子供に媚びない作り手側の揺るぎない思想を感じる。そう思うと先に書いた昨今の日本のアニメは媚びが過ぎるのだ。いや媚びしかないと言ってもいいほどマーケティング的な方法論に蹂躙されている。そこを僕は見抜いてしまうから楽しめないのだろう。どうして人は意地悪なんだろう。母親はキリクに言う。「私はわからない。意地悪なのは魔女だけではないし。こちらは苦しめないのに人を苦しめたがる人はいる」。それにキリクは答える。「そうか。必要なのは覚悟しておくということなんだね」。思想なしに、こんな脚本が書けるだろうか。それ以外にも数多くのドキリとさせられる言葉がこの作品には散りばめられている。お山の賢者の言葉は胸に響く。キリクは常に前向きに物事に向かっていく。同時に常に正直に自分の気持ちを言葉にする。賢者である祖父のひざの上に上って抱かれる場面は、そうした素直さを忘れてしまっている自分に気づかされるようで印象深い。ラストには、そ、そこで結婚ですか…と驚くような展開が待っていた。けれどもキリクが切り開いたものは、この村の喜びの出来事だけではなく、僕の心の中にある自分が作ってしまっている殻の存在を知ることに繋がった。それを破っていくことは今の僕の大きな課題だ。あの背中に打ち込まれたトゲ。それが意味するものはとても深い。
Tuesday, March 14, 2006
THE HOURS
邦題は「めぐりあう時間たち」。なんでだろう。前にこれ見たんだよ。でも、いつどこでどういう感じで見たのか全然思い出せない。でも見たんだ。序盤にメリル・ストリープ演じるクラリッサがエイズの詩人を演じるエド・ハリスのアパートに行って「もう朝よ」と元気良くばっとカーテンを開ける瞬間に、あれ、これ見たことあるよと思う。でもその後の展開は全然記憶にない。本当にまったく記憶にないから物語を追い続けながらデジャブだったのかなと思っていた。そうしたら後半に、散歩と偽って家出したヴァージニアを夫が追いかけ、駅のベンチに座っている姿を見つける場面で、あ、やっぱり見たんだと確信する。でも何も思い出せない。まぁそれはいいか。とにかく見直した。
映画は、愛するもののために自分の人生を注いでいくものたちが、それぞれの心の中に積もりに積もった空虚感をもてあます様を描いていて痛々しい。こんな状態を続けることには耐えられない。そうした葛藤が心の底で蠢くが、ではどうすればいいのかと言っても行動は見出せず、絶望が深まっていく。自分自身に正直に向き合う時間。しかし止まらずに進む時間の流れはとめられない。起こっている状態に正面から対峙しようにも日常に押し流されていく。暗闇の中で溺れかけている自分に気づきながらも、目の前にある愛情らしきものを最も大切なものだと思い込もうとする。しかしそこに救いを見出せない自分。感じるはずの喜びが沸き起こってこない空虚。こんなはずではなかったと考えるのはたやすいが何も変らない。その堂々巡りを続けていても出口は見つからず、時間は止まらず過ぎていく。葛藤と焦燥。しかし空虚は誰にも理解されない。絶望。もうそれしか道はないというものを見出したとき、それはあまりにも周りからは身勝手とされる行動。死ぬのか。もしくは身勝手な重荷を背負っても生きるのか。なぜか今はとてもよくわかる。ニコール・キッドマンがこの演技でアカデミーを獲ったらしいが、どの俳優もあまりに素晴らしくてちょっと言葉が見つからない。エド・ハリス演じるリチャードが窓から身を投げる場面は本当に美しい。描かれる繊細さが痛いほど刺さる。この作品でのジュリアン・ムーアはとても素晴らしい。「フォガットン」で中途半端だったのはやはり脚本のせいだろう。メリル・ストリープは大御所の貫禄を見せつけるような存在感だ。他にも脇役が素晴らしくて全編に亘って目が離せなかった。しかしながらこの映画のメイクアップはすごいとしか言いようがない。想像を遥かに越えた技術があるのだろう。ノーマルなのはメリルだけで全員特殊メイクで恐ろしいほどの変身を見せる。特にエドのエイズの顔とジュリアンのお婆さんはどちらも違和感がなくてびっくりする。エドはこの映画のために本当に痩せたのだろうか。あの痩身での演技は鬼気迫るものがある。美術も衣装も本当に素晴らしいし、一本の映画で三つの時代を描いているのにどの時代も手抜きがない。同時に撮影と照明がとてもうまい。それぞれの土地柄の陽射しの感じをうまく取り入れながら自然光に近い光を作り出している。特にリッチモンドでのある程度高い生活水準を持ったライフスタイルは非常に参考になる。小ぶりの屋敷。裏口から庭につながる景色やガーデニングの様式。玄関からロビーに置かれているもの。机の上にある書籍や階段のグリーン。壁にかかる絵画。ヴァージニアの仕事部屋。著述に使われている道具。ダンヒルのライター。寝室のリネン類の質感。カーテンの柄や光の透け具合。使われているもののすべてがまるで百科事典のようだ。英国式の田舎生活というテーマでこれほどまでに美しく描かれたのは見たことがない。ニューヨークの場面でも登場人物たちの生活水準は低くない。さらに彼らは小説家や編集者といった職業につきインテリジェンスを持った人々。そういう美意識を持った人間たちが持つ審美眼で選ばれる華美でもなくストイックでもない生活観がとても興味深い。ブランド志向というよりも上質で洗練されたものを好む嗜好がよくわかる。
リチャードの投身自殺によって結局キャンセルとなるが自宅でのパーティのセッティングやエンターティニングのセンスを追いかけるだけでもとても勉強になる。ロスの場面では東京オリンピックの頃の日本が目指した豊かさとはこういう世界だったのであろうと思わせるベトナム以前の穏やかで豊かなアメリカが描かれていて、これも生活様式の見本帳のようだ。しかしそれが日本には極端にダウンサイジングされて持ち込まれた。そこに日本の近代デザインの悲劇がある。そういえばジュリアンがベッドに横たわったまま水没する場面は驚いた。ヴァージニアに重ね合わせた死を考える。だから水は透明な水ではなく水草の混ざった川の水。物語を最後まで見るとこうした繋がりが見えてくる。そして絶望の果てにいる母が感傷的にならず息子やまわりには平静を装う。それに対して心から怯える幼心が立ち上がってくる。それが寂しさを抱え続けたリチャードの哀しみに重なり、そうした孤独な彼を見送るしかすべがないクラリッサ。ぞっとするほど深い深い脚本だ。三人の女がそれぞれ姉や友人たちにキスをする。そうしたシーンも何年か経ってからもう一度見直してみるとまた違った理解が得られるのかもしれない。味わい深い映画だった。
映画は、愛するもののために自分の人生を注いでいくものたちが、それぞれの心の中に積もりに積もった空虚感をもてあます様を描いていて痛々しい。こんな状態を続けることには耐えられない。そうした葛藤が心の底で蠢くが、ではどうすればいいのかと言っても行動は見出せず、絶望が深まっていく。自分自身に正直に向き合う時間。しかし止まらずに進む時間の流れはとめられない。起こっている状態に正面から対峙しようにも日常に押し流されていく。暗闇の中で溺れかけている自分に気づきながらも、目の前にある愛情らしきものを最も大切なものだと思い込もうとする。しかしそこに救いを見出せない自分。感じるはずの喜びが沸き起こってこない空虚。こんなはずではなかったと考えるのはたやすいが何も変らない。その堂々巡りを続けていても出口は見つからず、時間は止まらず過ぎていく。葛藤と焦燥。しかし空虚は誰にも理解されない。絶望。もうそれしか道はないというものを見出したとき、それはあまりにも周りからは身勝手とされる行動。死ぬのか。もしくは身勝手な重荷を背負っても生きるのか。なぜか今はとてもよくわかる。ニコール・キッドマンがこの演技でアカデミーを獲ったらしいが、どの俳優もあまりに素晴らしくてちょっと言葉が見つからない。エド・ハリス演じるリチャードが窓から身を投げる場面は本当に美しい。描かれる繊細さが痛いほど刺さる。この作品でのジュリアン・ムーアはとても素晴らしい。「フォガットン」で中途半端だったのはやはり脚本のせいだろう。メリル・ストリープは大御所の貫禄を見せつけるような存在感だ。他にも脇役が素晴らしくて全編に亘って目が離せなかった。しかしながらこの映画のメイクアップはすごいとしか言いようがない。想像を遥かに越えた技術があるのだろう。ノーマルなのはメリルだけで全員特殊メイクで恐ろしいほどの変身を見せる。特にエドのエイズの顔とジュリアンのお婆さんはどちらも違和感がなくてびっくりする。エドはこの映画のために本当に痩せたのだろうか。あの痩身での演技は鬼気迫るものがある。美術も衣装も本当に素晴らしいし、一本の映画で三つの時代を描いているのにどの時代も手抜きがない。同時に撮影と照明がとてもうまい。それぞれの土地柄の陽射しの感じをうまく取り入れながら自然光に近い光を作り出している。特にリッチモンドでのある程度高い生活水準を持ったライフスタイルは非常に参考になる。小ぶりの屋敷。裏口から庭につながる景色やガーデニングの様式。玄関からロビーに置かれているもの。机の上にある書籍や階段のグリーン。壁にかかる絵画。ヴァージニアの仕事部屋。著述に使われている道具。ダンヒルのライター。寝室のリネン類の質感。カーテンの柄や光の透け具合。使われているもののすべてがまるで百科事典のようだ。英国式の田舎生活というテーマでこれほどまでに美しく描かれたのは見たことがない。ニューヨークの場面でも登場人物たちの生活水準は低くない。さらに彼らは小説家や編集者といった職業につきインテリジェンスを持った人々。そういう美意識を持った人間たちが持つ審美眼で選ばれる華美でもなくストイックでもない生活観がとても興味深い。ブランド志向というよりも上質で洗練されたものを好む嗜好がよくわかる。
リチャードの投身自殺によって結局キャンセルとなるが自宅でのパーティのセッティングやエンターティニングのセンスを追いかけるだけでもとても勉強になる。ロスの場面では東京オリンピックの頃の日本が目指した豊かさとはこういう世界だったのであろうと思わせるベトナム以前の穏やかで豊かなアメリカが描かれていて、これも生活様式の見本帳のようだ。しかしそれが日本には極端にダウンサイジングされて持ち込まれた。そこに日本の近代デザインの悲劇がある。そういえばジュリアンがベッドに横たわったまま水没する場面は驚いた。ヴァージニアに重ね合わせた死を考える。だから水は透明な水ではなく水草の混ざった川の水。物語を最後まで見るとこうした繋がりが見えてくる。そして絶望の果てにいる母が感傷的にならず息子やまわりには平静を装う。それに対して心から怯える幼心が立ち上がってくる。それが寂しさを抱え続けたリチャードの哀しみに重なり、そうした孤独な彼を見送るしかすべがないクラリッサ。ぞっとするほど深い深い脚本だ。三人の女がそれぞれ姉や友人たちにキスをする。そうしたシーンも何年か経ってからもう一度見直してみるとまた違った理解が得られるのかもしれない。味わい深い映画だった。
Sunday, March 12, 2006
Les Triplettes de Belleville
本当の題名は「ヴェルヴィルの三つ子」なのだが、その三つ子が歌う曲名が邦題となったようで日本では「ヴェルヴィル・ランデブー」。ショメ監督はこの作品の製作に5年かけたそうだが、なんだかフランスの底力を見せられたような気持ちにさせられる映画だった。デッサンがすごい。とにかくすごい。アニメーションにおいてはどんな作品も絵の中で強調したい部分をデフォルメして表現するのは当然なのだが、この作品はとにかく描きこんだというタッチではなく、その前の段階のデッサンがすごい。線が生きているというのだろうか。老婆となった三つ子たちのたるんでしまった身体の線は。最初はふくらはぎの筋肉やのフォルムなどに目を奪われた。しかし強いパース感覚はキャラクターなどのデフォルメにも生かされていて、犬のような長い鼻を強調した顔はまるでサルキーを思わせる。そしてそうしたフォルムと、それぞれの主人公の性格が一致していることにさらに驚かされる。まず先にパーソナリティがあって、それを連想させるに近い動物などをイメージしたうえで個々の造形を創案したように思える。街の様子もとてもフランス的で興味深い。走らせる車などをヴィンテージにしながらもモダンなタッチも組み込まれている。マンガ的な描き方での強調も半端じゃない。ジョセフィン・ベイカーやフレッド・アステアはホントまんまだし、レストランのマネージャーが出てきたときも大笑いしてしまった。そうなんだよな。目一杯に愛想を振られる時って確かにあんな感じ。謝るときはまるで五体投地の三礼だし。それから画面全体にグラフィックデザイン的な構図が数多く見出せた。カッサンドルのポスターを思わせる船の描き方など個々のモチーフだけにとどまらず、ギャングが丸窓の向こうでぷかぷか煙草を吸うところも構成主義的な構図に思える。シャンピオンの訓練中にバスに幅寄せされる様子などにも強いパースをかけて画面を切り取り、そのあとにご注意をというタイポグラフィが重なるなどはまさにグラフィックの感覚だ。三つ子が演奏するときの観客たちの様子も、個々のキャラクターを丸、三角、四角というようなグラフィックエレメント的なカタチに近寄せた上に画面の中にバランスよく配置している。またヴェルヴィルの港に辿り着いた場面では垂直に見下ろすような画面構成を見せ、その直後に広角レンズ的な視点でピア31の切り立った階段とその向こうに見える街を描いたり…。そういうグラフィック的な感覚が常に画面に緊張感を与えていて僕にはとても素敵に思える。素晴らしいセンスだ。キャラクターたちの動きも筆舌に尽くしがたいものを見せるが、根本的なリズムセンスの次元が全然違う気がするのは僕だけだろうか。新聞紙と冷蔵庫に掃除機で奏でるジャズが始まったときにそれを思った。しかし、あの新聞紙をしゃかしゃか動かす場面の軸をブラさない動きは本当にすごい。肩から腕の動きだけだが身体にシャウトのリズムが満ちていることを新聞紙の曲がり具合が伝えてくる。ここの音とのシンクロ感は最高だ。また、まるでフラットアイアンビルの前の交差点で、盲目を演じるマダムにデブなボーイスカウトの少年が三つの誓いよろしく常に三本指を立てるなどホントに細かいところに気が利いている。子犬の頃にシャンピオンの部屋でおもちゃの列車に尻尾をはさんだからブルーノは電車に向かって必ず吠えるわけだが、こういう個性の与え方にも驚きがある。おまえは牛かよという体型のブルーノがすごく愛しく思うのは、ツール・ド・フランスの最中にさらわれたシャンピオンを追って港まで行くためにパンクしたタイヤの代わりを務めるところ。痛々しいようでブルーノは全然こたえていない。すごいアイデアだと思う。さらにエンドクレジットが終わった後にまで。あのペダルボート屋のお兄ちゃんがまだ帰りを待ってるとは思わなかった。余談だが、中盤からの摩天楼の街ベルヴィルは明らかにNYCなのだが、実際のベルヴィルはパリの北側にあるごみごみした街だったと思う。序盤で描かれる少し荒んだ街は実際の情景ではないと思うが雰囲気は近いのではないだろうか。昔は良かったが都市と郊外両方の開発が進み途中途中に位置する街に漂う雰囲気。それらは高架を走る電車などの後付けされた部分だけは立派。だが駅を降りると駅前は喧騒があるが一歩街に踏み入れると移民や低所得者たちがボロボロのアパートに時間が止まったように暮らす。それはどこか墓場のような様相を呈する街。のどかというよりも無気力さが漂うような印象。隣街との違いがよそ者にはわからないような変哲のなさ。そうした光景はパリだけではなく東京でもNYCでも、都市の主要な交通機関が地下鉄に置かれたような都市には必ず見られる。余談ついでにフランスのオフィシャルサイトはコンテンツがとても豊富。でもこの映画、絵のタッチや物語の終わり方などどこかフランス的と言ってしまえばそうなのだが、逆説的に言えば、いざ劇場公開ということを睨んでの映画製作となるとプロデュース側からの意向で削られてしまうような要素も数多いのではないかと思う。その意味ではディズニーの正反対にあると思うし、フランス的というよりもショメ監督の持つ、絶対に妥協しないような職人としての仕事の仕方に独自性が生まれたのだろう。そして、こういう人こそ応援していかなければならない人なのだと思う。
Friday, March 10, 2006
THE INTERPRETER
邦題は原題のまんま「ザ・インタープリター」。そういえば昔の作品には「逃亡者」とか「追跡者」とか「目撃者」という直訳名がつけられていたように思うが最近は変ってきたようだ。だけど、なんで訳が「ジ」ぢゃなくて「ザ」なのか、そこがわからない。発音しにくいから…というようなマーケティング的発想なのかもしれない。ひょっとすると事前調査とかした結果なのかもしれない。だけどこういう単純な間違いは日本の子供たちのためにも迎合するべきではないと思うので僕はあまり容認したくはない。映画が始まってすぐ砂っぽいアフリカの映像。そこを埃まみれのジープが走ってくる。車内で広げられる死亡確認リストのノート。住民の半分が死んだという記録なのだが、これがとても整然と書かれていてノートも新品のように汚れていない。なんで汚れてないのよ…と、美術が甘いようなイヤな予感がしてタイトルバックが始まる前からちょっと引き気味。しかしその一抹の不安は、タイトルが表示され、舞台が国連の会議場に移った途端に消えた。国連の内部を映画で見るのは初めてだが、非常に美しく撮られていて、かなり計算されていることが窺える。というかこの映画、国連本部を舞台にしようっていうことなのだろうか。だとすると大統領府やらCIAといった飽き飽きするほど設定され尽くした舞台とは違って、この作品はかなり挑戦的なプロデュースを行っていることになる。その許可はありえないほど難しいはずだ。そう思うのは自分がUN50の仕事をを手掛けたとき、国連という機関の特殊性を十分に味わった経験に拠る。映像は全体に増感調子で彩度が高く感じるが違和感はまったく無い。確かインタープリターという言葉は通訳という意味だったっけ…と曖昧な英語の知識を手探りしているうちに、案の定、ニコール・キッドマンが通訳席に座っている。911のテロ以降に作られた映画だからか、セキュリティとリスクマネジメントが素早いテンポで描かれる。敷地から出て行く車列を確認し、「いま首相がアメリカに戻った」という台詞を警備責任者がトランシーバーに向かって吐く。それは国連と言う場所の特殊性を手際よく物語っていて、脚本は良さそうだと感じる。その予感はすぐに序盤のショーン・ペンとニコール・キッドマンの会話の中で確信となった。言葉が冴えている。またこの二人だけの会話の場面は撮影も美しい。数えただけでも10近いフレーミングがあったように思う。下から、目線から、寄り、引き、手前ボケ、重ね合わせ…小気味良く画面が切り替わるリズムも悪くない。なんだか序盤でしっかり掴まれてしまった感がある。物語はテンポを速めながらどんどん進む。あっという間に設定、人物描写、状況説明を終わらせて展開へ。映画として理想的な構成だ。そうした序盤から中盤までの小気味よいテンポは、中盤から終盤までも続く。かといって途中途中にとても静かな場面もあるのにテンポは崩れない。静かな場面はショーンとニコールが演じまくり、同時に冴えた脚本が緊張感を失わない。なにより興味深いのは画面の中の情報量にシドニー・ポラックが相当考えているのだろうと思わされる絵が続くことだ。こういうワイドスクリーンだからこそ盛り込める情報量をキチンとコントロールし尽くすディレクションが生きているのだと思われる。たとえば幅広い画面を十二分に使っての手前ボケと奥の情景。たとえばワイドな画面を使っての少し極端な構図によるその場の雰囲気の描写。その逆に一気にクローズアップしてみせるなど、何枚かキャプチャを参考につけて忘れないようにするが、そうした、普通は見逃しがちな部分での情報の与えられ方、画面サイズの有効活用が、極めて大胆、且つ精緻な感じがする。こうした仕事はかなりの集中力が必要だと思うがシドニーはやり遂げている。さらに、この手の映画は中弛みが起こる場合が多い。もしくは、中盤から終盤への展開の流れが見えてしまう。しかしテロ爆発でバスがどかーんと爆発するあたりからも、全然先が読めない。シルヴィアは急にいなくなるが、すぐに大統領が到着し視点は警備側にスイッチされて彼女がどうなったのかを忘れるほど。やっぱりそうだったのかと画策している面子が割れ始め暗殺が不成功に終わっても、まだシルヴィアに騙されていることに気づかない。結局トミーが最後まで騙されたように、僕も大方の観客と同じように最後までシルヴィアに騙され続けた。かといって、それが全然無駄になっていないこの枝葉の広げ方と帰結の手際はもう最高だ。いやー、やられた。面白い。テーマもいい。演技もいい。ショーンも貫禄の演技で悪くない。ニコールは素晴らしく素敵だ。この役柄では、ほとんど笑顔を見せないが、どんな時でもとても美しい。表情豊かなタイプではないのに感情表現にぬかりがない。なんかマジやられた。そんな感じだ。最後の最後に犯罪サスペンスではなくポリティカルなテーマに帰着させる。見終わった途端に国連ってなんなんだろうという思いが湧きあがってきた。それが作り手の意図であることはわかっているが、拒否権行使で超大国の考える自国の不利益をことごとく排除するために存在している合議機関と成り下がった今の国連の状態を思い起こさせる。同時にアタマの中にコミックスだが原潜・やまとを使って海江田艦長が問いかけた「沈黙の艦隊」がよぎる。だが、そうした思いを起こさせることをアメリカ、英国、ロシア、フランス、中国という主体者たちを直接的に描くのではなく、最も利己主義的なモデルケースとしてコソボならぬマトボという仮想国での非人道的武力行使を描きながら、最後にマホボ大統領に政治のそもそもの理想的理念を「読ませる」。そこに国益のためではなく世界平和に至る道筋として存在意義を持って生まれた国連のあるべき姿が重なるのは深読みしすぎだろうか。持つべき議論、行使されうる力というものを、この作品は僕に訴えかけてきた。
Thursday, March 09, 2006
LEGALLY BLONDE
この手のタイプの映画は基本的には興味ナシなのだが「ブリジット・ジョーンズの日記」などと同じで、作品のデキがどうだとか言う以前に見ておかなければならない。言うまでもなくそれは、僕のような全然女心がわかっていないオッサンが、若い女性を対象とした広告を考えたりするにあたって、やっぱりこういう作品も見て、純粋なファッション性と現実に喜ばれるミキシングの両面を整理しておかなければならない。同時に、主役のリース・ウィザースプーンがいきなり今年のアカデミー主演女優賞を獲ったりするものだから、これまで追いかけていたナオミ・ワッツ、ケイト・ブランシェット、レニー・ゼルウィガー、そしてニコール・キッドマンたちに加えて、リースも見ておかなければならない俳優のひとりに加えざるを得なくなってしまった。映画が始まった途端にうわぁ…。どピンクの読みにくく丸っこいスクリプト書体。なんと小文字の「i」のドットがハートマークになってたりするやんけ。勘弁してよという感じ。だけど、このオープニングのシークエンスだけで、いったい何人の若い女性を使ってるのか数え切れない感じ。元からオタクじゃないので数える気はないけれど、相当本気の作りだなと思わせるほどに、言い方は悪いが馬鹿系の王道を行く徹底さが見て取れる。うわ、ばきゅーん。プロポーズを受けるはずがイキナリふられちゃったよ。だけど、その後にエルのメジャーがファッション・マーケティングで、水玉の歴史についての論文を書いているという設定にはにんまり。もうやけくそで、そうこなくっちゃと思う。これはもう余計なことは考えずにどっぷりこの世界に浸るのが正解のようだ。女性たちはそんなことも考えもせず、最初からどっぼーんなのだろう。衣装のこだわりは本当にすごい。エルウッドが画面に登場するたびに常に違う衣装。それも全部キマってる。つま先の靴からドレス、メイク、ヘアスタイルに小物。さらにエルが使う小道具の細やかさ。あの水色の地にホワイトのスマイルマークが入ったローブや、ふわふわしたピンクの電話機。さらに奥にあるドット模様のライトスタンド…。衣装のソフィー・カーボネルが持つ類まれな才能を見ることが出来る。ホントにすごい。物語は、おそらく女性たちがこうなって欲しいと願うままに物事が展開していく。ピンチも笑顔で向かっていけば必ず切り抜けられるし、捨てる神あれば拾う神ありの諺のごとく都合よく話が進んでいくことには見る側は無抵抗でなければならない。しかしそれでは普通は三流映画になってしまう。ではどこが違えば三流にならないのか。そこを考えると大事なことをこの映画はしっかり守っていることに気づく。無意味な枝葉はすべて省く。広げた伏線はすべて帰結させる。状況設定と登場人物紹介は素早く。展開で主役と脇役の関係変化を与える。先へ先へと引っ張る展開。飽きさせない美術と衣装。シーンごとの絵の質を整える。音や撮影などでの効果を繰り返さない…などなど、きちんと押さえられている。脚本は愛すべきヒロイン像というものを徹底研究した上で書かれたはずだ。僕がそう思ったのはブリジット・ジョーンズの一作目と同じく、色や仕上げは違うがこの映画でも主人公がバニーガールのスタイルで登場したときだ。最初はおいおいと思った。どっちが先なんだとも思った。だが良く考えると突き詰めていくとこのスタイルに帰着するのは当然なのだ。あの脚本で他にどういうスタイルがあるだろうか。和装というのを思いついた。さらにピンクの芸者というのも思いついた。だけどそれこそ西海岸と東海岸の対比と、いまどきのトレンドの極大化というところに絞って余計な枝葉を作らないようにしているこの作品でキモノはない。結局、見終わってみるとリース・ウィザースプーンのひとり舞台。良く言えば他を圧倒する存在感と輝きを持って彼女は演じまくる。演技力は一流だと思える。表情豊かな彼女はケイトやレニーに近い感じがする。ちょっととんがりすぎるアゴの線まで彼女は自分の役作りに利用している。それはプロの仕事だろう。そういえば原題を直訳すると「法的な金髪」。だけど邦題は「キューティ・ブロンド」。まぁ原題で「可愛い金髪」っていうマヌケな題名はありえないわけだけど日本的な感覚では「きゃわいぃ」が妥当か。法的の…と言われているのに、いきなりファッショニスタの世界観から始まるところは作り手の狙いということだろうか。いずれにしろブロンドと入る題名はなんともアメリカっぽい感じがする。ディス・イズ・アメーリカって感じだ。
Tuesday, March 07, 2006
The Limey
邦題は「イギリスから来た男」。原題のライミーっていう意味を全然知らなかったがアメリカ英国人のことを指す言葉なのだそうな。語源は英国水兵がビタミン補給のためにライムを食したことに拠るらしい。監督はスティーヴン・ソダーバーグ。「エリン・ブロッコヴィッチ」の直前にこれを作ったと思うのだが全然こっちの方が面白い。エリンの方は実話だから作るのがむずかしかったのかもしれない。史実系や実話を描いた映画は結構沢山見てきたけれど唸るような作品は本当に少ない。一方、この作品はソダーバーグの才能がとてもよくわかる。映画を見ていると撮影されたシーンというのは案外少ないことに気づく。ロケ場所もすごく少ない。けれども十分に見せる。またソダーバーグには映像を切り替える独特のタイミングがある。一般的にはそのタイミングが自分のリズム感に合わないと苦痛に思うのだが彼のタイミングはまったく別のリズムがあって嫌ではない。しかし映画が始まってしばらくしてからどうにもクスクス笑いが止まらない。ルイス・ガスマン演じるエドが憲太郎に見えて仕方ないのだ。というかまるで憲太郎でしょ。ルイスは「マグノリア」にも出ていたっけ。テレンス・スタンプはどこかに60年代のイコンだと書かれていたが僕にはどうも「スーパーマン」の敵役のなんとか将軍みたいな極悪人というイメージしかないのは単に勉強不足っていうことだろう。それからピーター・フォンダってのは妖怪なのかね。テレンスと同じ歳で今年67歳になるというのに、皺はないしデブでもハゲでもない。ハリウッドのセレブな役がそのまま生きて歩いてるような感じで、どういう延命療法を続けてるのかわからないけれどマドンナのようにハリウッドに集るアンチエイジングのすべてを試みているのだろうか。岩場で足をくじくっていうあたりはジジイ丸出しで笑えるが、ピーターの変らなさはサイボーグのようで気持ち悪い。物語はものすごく単純だ。娘の死に疑問を持った男がそれを確かめる。ただそれだけの話。その単純さをソダーバーグは逆用して新しい表現を試みたのだと思える。時間経緯を恐ろしいほど細かく操作していく。この手法は確かにオリジナリティがある。沈黙の映像に重なるように続くセリフの声。編集後の出来上がりまで完全にアタマに入れて撮影が行われたのは当然なのだが繋ぎがとても面白い。微妙に時間をずらすようなインサートもあれば色感を変えての回想も差し込まれる。その幅が面白い。撮影も手掛けるスティーヴン・ソダーバーグならではの作り方だろう。鏡をうまく使った画面の作り方やところどころで見せる極端な画角など学ぶところはあるが映像の作り方にはそれほど目新しいところはない。美しいところとチープなものが混ざっている。それまで確信犯的に撮ったとは思いがたい。特に室内のシーンではセットを組まずにロケで行っているからか微妙に窮屈な撮影をしている。もちろん全体にロスの風景満載でどこか楽しい。冒頭にウィルソンが降りてくるLAXの景色とか、本当に普通の旅行者の視点そのもの。あのアライヴァルの出口から出てきたときに見える高架下の影と向かいの駐車場の景色や、タクシーの黄色や、乗り場あたりに差し込む西海岸特有の陽射しの感じも写しこまれていて、ちょっと別の記憶が蘇る。ロスらしいと言えば空の感じだがパキンとした青空もあれば霞んだ空もあって懐かしくも匂いまで漂ってくる。美術も普通。衣装も普通。映画中にテレンスの若かりし頃の映像が出るのは、ケネス・ローチ監督の「夜空に星のあるように」。いつか見直したいと思うが、ラストがそれで締めくくられるところにもソダーバーグの確信犯的な映画作りの姿勢が見えてとても興味深い。そういえばイレインの家の壁にかかる「The Clouds Cannot Sleep」という映画のポスターだが字詰めがひどくてすごく気になった。当時は活版時代だったのかもしれないがどう見てもひどいと思うのでキャプチャーを上げておく。一瞬の映像なのに、こういうことにキチンと気が行ってしまうのは僕の才能ではなく単なる職業病のようにも思う。しかしながら、とにかくこの映画、自分の英語力のなさを思い知らされる映画だった。前半にギャングがウィルソンに向かって喋り方が娘に似ているという台詞があるが僕の掴みもその程度。イレインがウィルソンと交わす会話の中にあるのだろうウィットなどは全然わからないので笑えない。毒づくウィルソンの一気喋りに麻薬捜査官のおやじがさっぱりわかんないと呟くところも情景はわかるが笑えないし深い意味がわからない。たぶんアメリカ人から見たイギリス人っぽさを丸出しにしているような脚本なんだと思うけれど、英語での漫談についていけないのと同じでお手上げである。さらにどうでもいいんだけど、この映画を見ている最中に「マルホランド・ドライブ」の中で描かれているメガネかけた映画監督ってスティーブン・ソダーバーグを描いてたんだってのに気づいた。くだんの映画ではその彼を描く意味すらまったく無駄に思えたけれど。
Monday, March 06, 2006
HEAT
どうも失敗したくない病が続いていて、別にこの映画が見たかったわけではないのだが安直な防衛策として大御所系を選ぶことにしたらなぜかこの作品に行き当たった。ロバート・デニーロとアル・パチーノの初共演で奏でるクライム・シンフォニー、とかいう宣伝文句。1995年公開。当時はそうだったのかもしれないがコピーライターが簡単にシンフォニーとかいう言葉を使うあたりバブル気分だよなと思いつつ見始める。始まった途端に彼ら二人の名前が並列に表示されるあたりもふーんという感じだった。まるで二人を見比べろと言わんばかり。デニーロがクールに登場するが両者の登場の仕方では濃厚なキスシーン演じるアルの勝ちだろうか。映画はいわゆるサビアタマな作り。ドンパチやって一気に状況説明となる。このあたりの手際よさはハリウッド一流のものだ。おっとジョン・ボイトまで登場じゃんよ。みんなファッションがアルマーニっぽくて今見るととってもダサい。1995年といえばトム・フォードに王座を奪われる直前の全盛期だもんな。序盤でちょっと待てよと思ったのはイーディの家。確かにサンセットの上は眺めいいけど、こんな眺めの良い場所に貧乏デザが住めるかね。というかそんな簡単に寝ちゃうわけとか思ったがまぁいいや。ベッドを見下ろすデニーロが無茶苦茶シブい。二人ともコルレオーネという伝説に残るマフィアを演じてきたわけだが、デニーロはカポネも演じているわけで、その分ワル役を演じるとそうしたイメージがつきまとって分が悪い。でもさすがにキレかたはデニーロ一流の演技で怖さは半端じゃない。中盤、早々にご両者の対面。ここが他の映画にはない展開で面白い。脚本もいいし二人とも素晴らしい。その後の展開はもうぐいぐいと引っ張ってくれて、この作品を選んで失敗しなかった安堵が早くも僕に訪れる。後半の展開は見事。延々とどきどきさせられる。手際よさは映画の中のデニーロ演じるニーロだけではない。この映画そのものの手際のよさに胸が晴れるような思いがする。脚本もよし。こういう映画は彼らのような一流の役者ナシには成り立たない。それをよくわからせる。美しい美術もあるが、そういうことに意識を留めさせない物語の展開。これはいい映画の持つ力だ。何度ももう終わりかなもう終わりかなと思わせつつ、帰結させていない伏線をひとつづつ潰して行きながら、静かにラストに向かっていくところは本当に素晴らしい手際だ。脇役もいい。というか脇の描き方も絶妙だ。普通の映画なら脇は脇としての程度にしか扱われない。しかしこの映画は脇にも十二分に演技の機会を与えている。そこに全員が精一杯取り組んでいて清々しい。それは主役二人に対するリスペクトから生まれたものだろうか。これほどまでに出てくる役ひとりひとりが本当にキチンと自分の役割を果たしきっている映画もない。その意味ではシンフォニーという宣伝文句は伊達ではなかった。確かにその通りと思える。見終わった後に調べてみるとマイケル・マンはこれを監督する前に、まったく同じ内容のテレビドラマを作っている。しかしその後に彼が監督した「アビエイター」も「コラテラル」も、どちらも映画の終わり方が中途半端で不完全燃焼だった。つまりこの作品はリメイクだからうまく出来たと理解するしかない。一度作ったものを作り直すのだから演じる誰もがどう演じればいいのかについて細かいところまで話し合えただろう。「マイアミバイス」も彼の仕事だが来年あたりから映画化が始まるらしい。とにかく最近は、枝葉ばかりが描かれたり、キャスティングに失敗していたり、伏線が帰着しなかったり、美術や衣装が手抜きだったり、撮影が無駄なモノを写しこみすぎていたり、余計なヴィジュアルエフェクツに勝手に酔っていたりと、そういう作品と時間を過したくない思いが強まってきている。でも、まずいものを食べるから美味しいものがわかるという理のように、よくないものを沢山見ることは悪くなる落とし穴を沢山知ることになる。わかっちゃいるけどね。