Tuesday, February 28, 2006

LEGENDS OF THE FALL

「セブン」直前のブラッド・ピットとアンソニー・ホプキンス。後に「ジョー・ブラックをよろしく」で組んで独特の重みを映画に与えることになる彼らの共演に期待して観る。映画の始まりが美しい。画面に向かって息を吸い込みたくなるような澄み切った大気が伝わってくる。舞台が森にかこまれた清浄な場所であることがよくわかる。そうした心洗われる雄大な景色に重なるように年老いた男の語りが始まる。母のイザベルが家を離れるとき、見送る男たちの背広姿に見惚れた直後に、家の前に広がるモンタナの雄大な自然の絵は本当に素晴らしい。1994年アカデミー賞の撮影賞に選ばれし映像とはこういうものだろう。そしてその自然が美しいだけではなく牙を持っていることも恐ろしく巨大な大熊の登場で知る。大佐が送った手紙に返事を書くイザベルの部屋の家具調度や彩られた色彩感にも目を奪われる。その部屋を見て、以前ロケで訪れたボストンで、政府の管理下にあるために、どうしても撮影に借りることが出来なかった元将軍の自宅を思い出す。またニューヨークのメトロポリタン博物館のあの中庭から入りロイドの家で終わる徹底したアメリカ様式の集積が続く回廊も思い出す。そうした記憶と照らし合わせてみても、この映画が完璧な時代考証とその再現を基盤にしていることがわかる。監督はエドワード・ズウィック。彼の「アイ・アム・サム」や「ラスト・サムライ」はどちらも好きな映画だ。導入から序盤は、あまりに美しく平和。幸せな家族の肖像を描くのであればこう描けというお手本のような構成を見ることができる。三男サミュエルがスザンナを連れて帰郷するところから本筋の物語が始まるが、それ以後も屈託のない絵に描いたような幸せが描き続けられるが、その度が過ぎるほどと思う幸福感は、早々にそれが崩れていくのであろうと予感させるに十分で、観客の興味を次の展開へと進ませる。映画の内容について深くは語るまい。数多くの生と死が描かれ、数多くの想いが交錯する。それを常に雄大なモンタナの自然は見守っている。このタイプの映画は、静かに観て味わうしかないだろう。脚本、演出、美術、衣装、撮影、そして俳優たち。すべてに欠けるところがなく、完成度がとても高い作品だ。自殺したスザンナを埋葬したあとトリスタンに言うアルフレッドの「私はルールに従って生きてきた。お前は何事にも従わなかった。しかし皆はお前を愛した」と言う言葉が印象深い。複雑だが深い感動を覚える作品だった。

Friday, February 24, 2006

Bridget Jones: The Edge of Reason

邦題には「きれそうなわたしの12か月」という副題がついている本編は、2001年公開の「ブリジット・ジョーンズの日記」の続編。役づくりのためにぷっくり太って演じまくるレニー・ゼルウィガーの熱演は素晴らしい。だが、内容は文字通り世界中の心満たされない乙女たちの夢想物語。いきなりジュリー・アンドリュース気取りのブリジットをサウンド・オブ・ミュージックのメロディで登場したときには正直に言って男である僕はどこか馬鹿馬鹿しくて見てられないという想いを持たざるを得なかった。真面目に作られているだけに、逆に飛びすぎな夢想についていくのが精一杯。そういえばパラシュートで飛び降りる場面にはカーリー・サイモンの「Nobody Does It Better」が流れて、それはそれで好きな歌手だし曲なので良かったが「007 私を愛したスパイ」の気分で観ろという暗示かと思うと、とほほという感じだった。さてさて。前作を見たときも徹底してブリティッシュ世界を描いているなと思ったが、本作でもその点は変わらずに徹底していて興味深い。原作がロンドンに暮らす女性なのだから当たり前なのだが、ヤケになったブリジットがばくばく食べるアイスクリームやら、マークの家のキッチンに映るパーシルの洗剤やら、友達はブリティッシュグリーンのミニクーパーやらやらやら。衣装もジグゾーとかマーク・ジェイコブズとかFCUKとかどこか英国っぽい。ブリジットがずり落ちるガラステラスのようなマークの家のコンサバトリーも英国住宅の特徴だし、母に呼び出されるデパートの内装など、もう徹底的に「脱アメリカ」な志向が窺えて目にも楽しい。そうした見た目以上に、なによりも英国的なのは実存するクラスが描かれているところかもしれない。女王を頂点としたクラス、つまり階級は英国の誇りであるわけだし、貴族も労働者もいまだに歴然とした相応の生活様式が存在している。くだんのデパートもアッパー志向のハロッズやハービーニコルズじゃなく中産階級ご用達のドベンハム。つまりブリジットの家柄は庶民ということを暗に示している。育ちもドイツの場所もわからない程度の教育だしアッパー・ミドル気取りの母親には常に言葉を注意されているわけで間違いなくミドルクラスの家柄となるのだろう。一方のマークの実家のダーシー家は五代続けてイートン校に通わせてきた家柄だし、仕事は人権擁護派の弁護士で大使たちにも顔が利くアッパー・ミドルの理想的な男。さらに謎のクラゲ攻撃で判明する美しくてスリムで足の長いマークの同僚・レベッカの親はコットランドの半分を所有してる大地主。つまりアッパーかもしれない裕福な家柄の娘。つまり釣り合う家柄なのかどうかという側面が暗に張られていて、そこにブリジットが思い込む浮気疑惑を増長させる要因がある気がする。同時に結婚できないかもしれない…という感情をブリジットが抱えるところにも階級という概念が大きく影響している…と読むのは考えすぎだろうか。いずれにしろ僕は英国のことを本当のところは全然わかっていないわけだし、アンドリュー・デイビスのTVシリーズ「高慢と偏見」を知らない僕には、オチを読みきれないフリが数多くあって、そこでの不完全燃焼は残念だった。

Thursday, February 23, 2006

Spy Game

レッドフォードとブラピが組んでるというだけで見る価値がある…と思って観た「リバー・ランズ・スルーイット」が想定以下の不発だったので、この映画も半信半疑。さらに2001年の話題作を今頃見直してるわけだから相当遅れてる。だけど2001年は本当に映画なんて観てる余裕のカケラも無く働きづめだった。まぁそれはどうでもいい。話を戻そう。この作品によってレッドフォードに半信半疑だった僕の疑問は監督としての才能と俳優としての能力を混同していたことに拠ると今更ながら気づくことになった。映画はエンターティメント作品として観るならかなり面白い。題名に「ゲーム」とつく意味が納得できる作りで、全体の構成も、細部の構成も脚本が素晴らしく冴えている。しかし脚本のマイケル・フロスト・ベックナーはこの作品以後も大した実績を残していない。ということは結局監督のトニー・スコットの力量っていうことになる。彼はこういう種類の映画がすごく得意だ。「エネミー・オブ・アメリカ」やら、BMW FILMSの「Beat the Devil」など、スパイ系や戦争系の専門監督と言ってもいいぐらいの勢いに思う。映像はいかにもトニー・スコット。真実味を漂わせる映像の作り方はきっと誰も真似のできない彼の技なのであろう。ぐいぐい引っ張り込む最初の刑務所のシーンもぞっとするほどの細かな演出が凝縮されている。手の込んだ美術と演出、さらに瞬きすら許さないようなリズミカルなカット割りすべてが最初から計算されていたごとくに編集され、場面ごとに漂う空気感を濃密に漂わせる。こうした塗り込められたような絵づくりを見ると、昨今のヘタなヴィジュアルエフェクツ満載系の作品が大仕掛けのくせになぜ弱々しいのかがよくわかる。人間の目は認識しない次元まですべての物を正確に測っているのだ。それがどんなに巧妙でもピクチャーマッピングされた表面と実際に年月を経た表面の違いは知覚する。さて、物語は人間同士の信頼が軸になっている。それを際立たせるために秘密と裏切りと画策という逆説的な舞台が存在し、それがCIAでありスパイ。この組み立てがあるからこそ今までにないスパイ映画のトーンが存在するように思う。普通なら事件が起きて現場で必死になるエージェントを追いかけてドキドキハラハラ。それがこの映画ではブラッド・ピット演じる若きエージェントのビショップはずっと殴られているだけ。物語の絵解きはCIA本部の作戦会議室で行われ、そのすべてがロバート・レッドフォード演じるミュアーの回想シーン。そこに、ヴェトナムから始まって東ドイツ、ベイルート、香港と時代ごとにヤバかった場所での映像が枝葉として次々に描かれても主軸がブレないわけがある。構成が本当に重要なのだと学習する。また意識的に変えられた時代ごとの映像のタッチも納得できる。ヴェトナムは土色。東ドイツは重苦しい鉄色。ベイルートは明度の高い乾燥した色彩。そして中国はじっとりした深緑。どれも計算され尽くしていて目を見張る。中でもプラハの街は非常に美しく印象的に描かれているのだが、いきなり富士フイルムの看板をぐるぐる回って撮り続けてくれたのには少し驚いた。実はその場面で二度時計台が映るのだが微妙に時間の前後が交錯しているのに気づいてしまった。おれはどこを見てるんだろう。余談ついでにドイツ大使の妻としてシャーロット・ランプリングが出てきたのには驚いたが、さらにそれを引っ張らずに撲殺という見事な消え方を与えるのもトニー・スコットの為せる技だろう。ビショップが助けようとするエリザベス役のキャサリン・マコーマックについてはまったく知識が無い。しかしレッドフォードとブラピを相手にする女優としては決して悪くない。屈託の無い笑顔と壮絶さを同時に持ち合わすことが出来る女優のひとりとして記憶に留めておきたい。彼ら三人のカフェでの会話のシーンは三者三様に善人と裏の顔を牽制し合いながら覗かせる。同時に物語の主軸を決定づける重要な場面であり、とても印象深い。ラストにもヘリに座ったキャサリンの静かな演技で始まる三者三様の無言劇がある。ぼっこぼこの顔で見せるブラピの演技が本当にすごいのだが、そこにレッドフォードが重ねられ一流の役者の力を漂わせてくれる。

Wednesday, February 22, 2006

LES INVASIONS BARBARES

邦題は「みなさん、さようなら」。確か2003年度のアカデミー賞で外国語映画賞に選ばれたという記憶のみで、よくわからないままジャケット買いの勢いでこの映画を見始めた。そのために描かれる状況を掴もうと細々した部分に眼が踊る。電話をかける母親のいでたちと家具調度品の具合、電話を取る息子が着るシャツの洗練度。さらに彼が働く環境やデスクの大きさを掴む。オークションの場面に移ると白髪の日本人が真ん中に座っている。どうやら美意識を持てる程度の生活水準がある家庭を軸にした物語のようだ…という認識。映画がはじまって100秒程度で成立。その直後に映画のタイトルが出始める。こうした状況説明要因をすかっと整理して伝達する手法は、どんな場合でも非常に重要だし学ばなければならない。その後の病院の廊下を辿る90秒もすごい。当然、相当な演出があるわけだが90秒間延々と続く次から次へと展開する病人も含む病院の住人たちの姿に圧倒される。一転して静かさ。また騒々しさ。こういうテンポも重要だ。映像は適度に整理されていて無駄がなくフランス的美意識が漂う。まるで別荘のようにセバスチャンが父のために作り上げる病室も嘘がない程度にセンスが効いていて、声高ではなく目立たないが衣装も美術も練られているのがわかる。ハリウッドではこういう演出は常に過度になってウンザリする。物語はフランス語を話すカナダ人一家。息子セバスチャンはロンドンで働く証券ディーラー。モントリオールに住む母・ルイーズから父の病気が悪化しているので帰って欲しいと連絡を受ける。父・レミは女癖が悪く家族に迷惑をかけながら生きてきた。セバスチャンは複雑な思いを持ってフィアンセと共に帰国する。友人に依頼しての検査の結果、父は末期の癌。アメリカの病院に移そうとしたが父は嫌だという。同時に母から友人を呼んで楽しい病室にして欲しいと頼まれ行動を開始。途端にNYのWTCビルが崩壊する映像。そこに重なるように女遊びが過ぎる父は大学教授であり高い知性を持っていることを示す。友人たちが次々に個性豊かに集う。彼らは全員知性的で暗さを消すのに余計な事はしない。友人の一人のマヌケ妻が「私が薦めた奇跡の治療という本を読んだの」とストレートに聞いて帰宅する。それに対して知性ある友人たちは「彼女何歳?」という会話が始まり、「脳みそよりおっぱいの方が大きいようだ」と続く。さらにその後にマヌケ妻の夫が知性的な猥雑さを持って話を収める場面は見事。こうした脚本にも共感する。そうした脇を押さえる役者たちの積み重ねは枝葉の先にまで及び、テレビ版「ニキータ」での印象が強いロイ・デュプイが刑事役で好演を見せる場面や、会話の中に登場する女性たちをちゃんと映像化するなど、物語の隅々まで手を抜かず押さえている点も見ごたえがある。さらに中盤に湖に寄るシーンと後半の舞台として、以前Forests Foreverで特集したカナダのローレンシャン地方の美しい自然が見れるのだが、この映画の中でもカナダの誇る静かで美しい森として扱われていて少し安堵の気持ちになる。さて、映画は何を描こうとしたのだろうか。身勝手で破天荒な人生を送ってきた初老男。彼に訪れた抜け出し得ない苦難。それらを見守る家族と友人たちの重大な事態への知性的な対処・対応。麻薬と静寂への逃避によってさらに深まる抜け出しがたい苦しみ。そしてその周囲の人間たち自身が抱える個々の重大な問題点の表出。逝くことを受け入れるためには何が必要なのか。物語が進むにつれ、直視することも厳しく感じるほどの重圧を感じ続ける。一瞬たりとも無駄のない物語。しかしIMDBでも、ある日本のサイトでもこの映画をコメディという分類にも位置づけている。だが僕はそれには到底同意できない。この映画にはどこにも笑えるものなど存在しない。水面下にある多様な壮絶さを見ずしてこの映画をコメディという側面で見るなど僕には出来ない。

Tuesday, February 21, 2006

Spotswood

邦題は「スポッツウッド・クラブ」。アンソニー・ホプキンスよりも若き日のラッセル・クロウが興味をそそったので観てみた。出だしすぐにMGに乗って現れるラッセルは一瞬で役柄を演じきる。その時間たった8秒。これで十分にキムという男の人格が滲み出る。まったくすごい役者だ。1992年制作の映画だが「サウンド・オブ・ミュージック」を見に行かないかという台詞があるところを読むと時代設定は1965年頃だろうか。レベッカ・リグ演じる将来はモデルになるというシェリルが登場したときはアリ・マッグロウかと思うような衣装と髪形にびっくりした。舞台は古臭いイングランドの田舎町。ラッセル演じるキムの髪型もリーゼント崩れに尖ったもみ上げ。とにかく劇中でアンソニーが呆れるのも無理もないと思わせる田舎臭さ満載で、見終わってみると悪くない。ラッセルは光っていたが、やはりこの映画はやはりアンソニーの映画だった。ビジネスコンサルタントとして自動車部品工場の社員数縮小を提言するウォレスは近代化を信じているように見える。しかし彼がもう一方の究極の前時代的手工業型のモカシン工場を評価するなかで本当の経営とは何かを見出していく部分は見ごたえがある。アメリカ型効率第一主義経営と英国型一族手工業経営の両面を映画の中に持ち込んでいるわけだ。それらを対決させるわけではなくウォレスというビジネスコンサルタントの意識を通じて両者の利点と欠点を描いていく。現実には英国型の経営は国際化の側面では維持できず、ジャギァはフォードに、モーリスはローバーからBMWにと移ってきたが、品質にファッション価値を加えたブランドビジネスを遂行するイタリア型一族経営手法が見直されている現在、どんな事業体でも経営資産は人にあるということを如実に示しているこの映画の根底に流れている価値観は間違ってはいない。ウォレスは言う。「あなたは従業員を堕落させてしまった。資金が底を突いたらどうします」。社長が言う。「金の問題じゃない。要は信頼関係だ。従業員には敬意を持って接したい」。このやりとりは印象深い。同時に適材適所という意味ではキムを自動車部品工場に移すウォレスの行動にこの映画の底辺を流れる人間愛が滲み出て清々しい印象を残した。

Saturday, February 18, 2006

CAST AWAY

トム・ハンクスのひとり舞台と言ってもいい映画だった。それも壮絶な演技だ。生存4年目のウィルソンと暮らすキャプチャの場面は一瞬トムと思えず「猿の惑星」かと思った。チャールトン・ヘストンより弱々しいところがトムらしいが、ほのかなユーモアを残しながらの演技がトムの真骨頂。「ターミナル」でもそれは如何なく発揮されていた。この映画も例外ではない。笑えないけれど笑ってしまう情景と言うのは自分の日常にもある。しかしこの作品でのトムは、そこを彼自身で十分承知の上で演技を使い分けながら絶望と希望の間を彷徨う。そのさまは壮絶だ。顔も体型も、肌の様子や眼つきまで徹底的に変える演技は全盛期のデニーロを彷彿とさせる。聞いた話では25キロも体重を変えたらしい。とにかく音楽もなく、ひとり演技の状態が延々と続くというのにまったく飽きさせない。脚本も良いが、これは役者の力に負うところが大きいだろう。観客はずっと彼は救出されるのか…戻れるのか…と、いつのまにか島で生き抜く彼と一体化していく。映し出される波はサーファーにとっては最高の波。しかしドルフィンスルーでアウトに出れるわけでもなく、確かに筏で外海に出るのは至難の技だ。戻ってからの物語はどうもスッキリしない。しかし、そのスッキリしないところがゼメキスの狙いなのかもしれない。その意味ではハリウッド的ではなくフランス映画的な終わり方だなぁと感じたところでエンドクレジット。何故かわからないが、見ている最中、頭の中にボルネオに潜み続けた小野田中尉が何度も過ぎった。極限での精神力。誰かとの対話ということが支えとなること。この映画でのウィルソンのように実態を伴わなくても、それは人間が生きるために必要なもの。そしてそれを失う痛み。さらに失った後に来る絶望的な孤独感。それへの怖れ。そうした人間の本質を、一方では描ききってもいる映画であって、視点をハリウッド的なエンタティンメント作品ではなく、恋愛や友情という側面で見るのでもなく、純粋に人間の内側にある支えあってこそ生きていけるという側面や、生きるということは何のためなのかという視点からこの作品を見るべきなのであろう。心に残るものが数多く見出せた作品だった。

Thursday, February 16, 2006

Bridget Jones's Diary

続編を見る前に第一作を見なければという事で見始めたが、なんていうか女が喜ぶコンテンツという切り口で考えられることをすべてを盛り込んでみました…という前半にはちょっとまいった。チャカカーンの歌声は懐かしかったが、いきなり結婚式の夢想だし、それもいきなりヒュー・グラント。モテ夫が来たよって感じ。ひと昔で言えば「シャンプー」の頃のウォーレン・ビーティってとこか…と爺臭い連想が走る。「モーリス」のヒューはどこ行ったんだ。それにしても徹底的に英国調に寄せていくあたりが散見されて面白い。俳優たちの発音は完全にキングスイングリッシュだしクリケットやフットボールなど英国のスポーツしか出てこない。ホームパーティもキーマ・カレーでバーベキューじゃないあたりも同じだろう。女性たちの憧れのカタチを盛り込んだワンシ-ンかと思われるが、メルセデスに乗って郊外に遊びに行く場面はロンドンでなければ絵にならない。東京もニューヨークもこういうシーンは似合わない。そういえばヒューがオフィスで口走る「彼女はアメリカ人だから強そうで…」という台詞にはニヤリとさせられる。これはヒューだけでなく多くの人がマンハッタンキャリアたちをそう見ている前提であり、ブリジットはその逆ですよと明瞭にする脚本の魔術だろう。中盤にヒューは一度すぱっと消え、これまたキャリア女を伴った英国調のモサ夫がクローズアップ。なんかコリン・ファースって印象が薄いのだが、それは僕だけだろうか。突然テレビキャスターになったり、誕生日に自宅で料理作って友達を招くという行動に出るあたりも、とにかく女がやってみたいと心に思うことをひとつづつ実現しているようにも思われる。クイジナートで悪戦苦闘するあたりの描写にもそうだが美術と小道具が英国的に徹底していて興味深い。マークの家は貴族のお城であり、調度品やクリスマスの飾りつけが勉強になる。個人的にはダニエルのロフト型の自宅がすごく惹かれる。あれだけの本が置ける家はまさに夢。階段にかかっている絵などの趣味も悪くない。しかしレニー・ゼルウィガーは間違いなく太っちょなのだが、綺麗なのかブスなのか微妙なところで不器用な女をキチっと演じていて素晴らしい。この映画はこういう女心のリアリティがあるから成立する。いつのまにか物語の中で切り札を持つのがブリジットに移って行く脚本の組み立ては素晴らしいが寂しい母親と無骨で不器用な父親を描きこむあたりはオマケかな。で、結局ハッピーエンド。なんやねんそれと言うのが本音でどうしようもない。

Tuesday, February 14, 2006

CHEBURASHKA

徹底的に自分を子供に戻してくれる映画だ。チェブラーシカは物語の中心的な存在であるが、彼はほとんど語らない。物語は彼よりも彼を取り巻く人々との対話として進んでいく。そこで描かれる精神は純粋無垢そのもの。しかし、そうでありながら、どんな存在でも働ける場を持てることも陰に示しているところは崩壊寸前の共産主義の悲哀も示す。夕刻になり、動物園から動物たちが帰宅していく場面などはぎょっとさせられる。一方、そういうことを考えてはいけない映画なのであろうと観ながら思う。愛くるしいチェブラーシカに素直に感情移入できる幼児に戻って素直に楽しめばいいのだろう。そこに主人公、脇を彩る善役、悪役が持つ心の揺れ動きに身を任す。それが正しい観方であろう。絵本のような美術は興味深い。同時に見慣れないロシア語のタイポグラフィも面白い。映画最初に現れる壁にポスターを貼っていくような表現手法は色褪せることがない。だが一方でものすごく古い映画のように思えて、実は「ゴッドファーザー」と同じ1972年に公開された映画である。1968年公開の「2001年宇宙の旅」の方が古い映画だと言われてもにわかに信じられないのは僕だけではないだろう。さすればこの素朴さとは何だろうか。単にお金がないということでもないだろう。時代はあのブレジネフ率いる恐怖政治の真っ只中にあっても、実際に当時のソヴィエト連邦の子供たちが、このような素朴さを持って暮らしていたということだろうか。そう思うとチェブラーシカが漂わせる哀しみは描かれる物語以上の深みを持って胸に迫る。

Monday, February 13, 2006

Cinderella Man

さすがにロン・ハワードにラッセル・クロウ。外さない映画を作る。男、女、家族、信念、愛、挫折、屈辱、情熱、友情、貧乏、悲哀…と、よくまぁ織り込んで編みこんだもんだと感心する。クリフ・ホリングウォースの原作を「アイ・ロボット」や「ビューティフルマインド」を手掛けたアキヴァ・ゴールズマンが脚本として組み立てたようだが、アキヴァがやっぱりすごいって事なんだろう。映画ではボクシングというスポーツを描くが、舞台は大恐慌の煽りを受けた哀しき貧乏一家の物語。良かった時代からどん底への一転を、箪笥の上に並ぶドレッシング小物の質の違いを持って表現する手法も見事。また壁紙そのものの質などにも目を奪われる。照明も素晴らしい効果を出しているが、肉厚の金時計や絹のレースなど、その小道具の一点一点に細かい配慮が見出せて楽しくなる。またNYCが舞台だから変に土地勘も働いて、ブラドックが港湾仕事を得るために相当歩かなきゃならなかったあたりまでキチンと描かれていて構成に手抜きがないこともロン・ハワードらしさの一端を見る。物語の終盤に延々と続くラウンドの場面でも目を逸らせない構成が見れる。その継続性には本当に舌を巻く。当然リング上での駆け引きや闘いの様子はあの手この手で描かれるが、その試合の展開を見守る数多くの情景が次々に差し込まれる。仲間たちの集う酒場、教会、姉の家の子供たち、リングサイドの新聞記者、マディソンスクエアガーデンの顔役たち…。彼らが徐々に目を見張っていく感情に観客を巻き込んで行こうという思惑が見事に具現化されていて、否応なしに頑張れという応援の一員にされてしまう。本当に、どの場面も印象深いが、それはロン・ハワード好みの撮影手法と編集で重ねるテクニックがこの映画でも如何なく発揮されているからだろう。同時に何気ない場面であっても印象を強めるためにはどう構成すればいいのか…という点ではとても勉強になる映画だ。二人が対話するシーンは当然一方に一台という画面と引きの絵を映して状況を示すアングルがあるわけだが、焦点を移動させるフォーカシングと徐々にクローズアップしていくモーションによって8台ぐらいカメラを回しているような錯覚を覚える。もちろん決めのフレーミングがとても美しい。親分プロモーターのジョンソンのオフィスでマネージャーのジョーがジムとの試合を捻じ込むシーンはそうした映像的演出がすべて入っている。このシーンではジョンソンの持つ葉巻からシーンが始まるように、寄りの場合は小道具が重要な役割を果たす。盗んだサラミを返しに行ったあとのジェイとジムの会話も歩く二人を引きで撮り、立ち止まってから両者を映す固定構図になるがジムが腰を曲げて座り込む動きに合わせて構図が徐々に動き、最後に抱きしめてから立ち上がり、歩いて画面からワイプアウトするまでの流れるような流れも教科書的な演出として学習する。キメ絵が中引きの場合は手前と奥に人物や大道具がボケで入る基本の絵づくり。人が沢山いてカメラが左右に動く場合は要素が込み合って散漫な絵になりがちだが、そこをこの映画では色と柄を構成した衣装で見事に美しく仕上げていく。教会の前で開かれる誕生パーティで子供や母親たちの表情を組み込みながらジムと牧師が会話するところに軸を持っていくシーンはそこが見事だ。ジムが着ているブリティッシュグリーンのシャツが映える色柄の衣装だけでこのシーンが構成される。ワンピースもあればセーターもあり全員違う衣装だが色彩感はひとつにまとめていて美しい。ラッセル・クロウとレネ・ゼルヴェガーはもう文句なしの演技と言ってもいいと思う。二人とも美形じゃないし普通のオッサンとオバサンのキャラなわけだが二人とも一目瞭然に一流の俳優としての存在感が滲み出ている。そしてそれがルックスではなく演技の力であることを如実に示し続ける彼らにアカデミー受賞俳優の底力を見る思いがする。余談だが彼女の名前の片仮名表記はレネ・ゼルヴェガーではなくレニー・ゼルウィガーなのだろうか。どうも発音がむずかしい。余談ついでに変に気になったのはタイトルマッチ直前にジムがマックスとサロンで鉢合うシーンでジムの切り返しに笑うフラッパーガールのロマーナ・プリングルの扱いだ。その他大勢のエキストラの中で彼女がやけにフィーチャーされて記憶に残った。ロン・ハワードが何か企んでいるのかもしれない。

Saturday, February 11, 2006

HEAVEN

なんだかとんでもない映画を観てしまったような気がする。きっといつまでも僕の心に残る映画となるような気がしている。それは僕の中においてジャン・ジャック・ベネックスの「DIVA」以来の存在感のようなものだ。物語、脚本、映像、構図、美術、衣装、小道具…すべてに精緻。さらに俳優たちも完璧に思う。もう本当にすごいなと思うことだらけで何から書き残せばいいかわからないほど素晴らしいと思った。キェシロフスキの脚本とトム・ティクヴァの構成に心酔する。文字通り「天国」というテーマを自分が生きるべき時間の内容に置き換え、さらに主人公たちにその時間を限られたものとして手渡す。そこに神の視点を置いて描く映像も素晴らしく心地よい。普通のアクション系映画なら絶対に入る繋ぎの演出が見事に削られている潔さが、起こっている状況を追いかける流れとは別の思考を確実に指し示すようだ。言葉少なくものすごい心の葛藤を演じ切るケイト・ブランシェットに心酔する。揺るぎない殺意が同じく揺るぎない愛に底打ちされているフィリッパの複雑な心理を涙ひとつで演じきる場面は胸に迫る。透明なという形容詞がこれほどまでに当てはまる美しさは見たことがない。愛の深さを確かめようにフィリッポの眼差しを受け止める場面もケイトにしか演じられない深みがあって驚かされる。対するフィリッポも「プライベート・ライアン」でナイーブな役を果たしたジョヴァンニ・リビージ。彼も自分の持つ透明さを演技に滲ませる。さらに職務を越えて愛する息子を抱きしめるフィリッポの父親を演じるレモ・ジローネも強く印象に残る。彼がフィリッパに対する息子の気持ちを確かめたあとに口にする「なぜ人間は最も大切な瞬間にこうも無力なのだろう」という言葉。なんと深い言葉だろう。神の視座を暗示するかのような上空からの映像が映し出す整然と美しいトリノの街並み。向こうの世界へという暗示に思えるトンネルを越えた途端に広がる鮮やかなトスカーナの大自然。フィリッパたちが結ばれる場面も神々しいほど自然の美しさを捉え切る。宙を漂う感覚や、室内でも徹底的に柔らかなデイライトで描くフランク・グリーべの撮影も文句のつけようがない。深くて複雑なのに単純でもある。普段の暮らしで誰もがふっと心に過ぎるちょっと答えの出せないような物事の捉え方を考えさせる。この映画、たぶん満点に近い。僕はこの映画が持つあらゆる側面を今も味わい続けている。

Wednesday, February 08, 2006

EL SUR

この映画は1983年公開だからかなり古い作品である。映画のタイトルやクレジットもモーションではなくタイポグラフィもシンプルで味気ない。だが本編が始まった途端、そこにはフェルメールの絵のような美しい映像に僕は一気に引き込まれてしまった。光と影。背景の中に現れる要素。暗闇の有効活用。抑えた色彩感。季節感の表現。もう数え切れないほど学習させられる映画である。この映画のDVDは購入して手元に持っておきたい一本だなと思わされる。映画の中にはさまざまな場面があるが、その舞台は…となると実に少ない。カモメの家が主軸だが他にはシネマの前、隣のバー、駅近くを思わせる部屋、そして教会とグランドホテルである。あとは海を見渡す丘の上や大きな裏山のような雄大な自然の景色だ。そのシンプルさが素晴らしく僕を惹きつける。また、バールの窓際の席で手紙をしたためるシーンや、グランドホテルでの昼食のシーンはエディトリアル的なファッション写真構成そのものに思えカット割りと構図の素晴らしさに唸ってしまう。カメラが捉える人物との距離感には相当の幅があるのだが映像が美しいので気にならない。目立たないけれど衣装も繊細な気配りが効いていて素晴らしい。質素だけれど上質であることがわかるし、一枚一枚の服の色彩がとても見事だ。映画の基本の基本がしっかりしていて見ていて本当に気持ちいい。娘が父の思い出を語る主法で散文詩的なナレーションが物語を引っ張っていく。この手法は静かな描写の映像をゆったりと見せながらストーリーを紡いで行くのに最も適している。つまり演じ手が台詞を語るのではなく情景だけを見せながら話を展開していくという極めて写真構成的な手法。僕はスティル出身の人間としてこうした手法が非常にしっくりくる。しかし、その手法が効果を発揮するのは、この映画のように完成度の高い絵画そのもののような映像美が合わさってこそ。静かなナレーションを陳腐な構図や、画面内要素が整理されない絵にいくら重ねてみても物語には意識がいかない。このあたりの案配は極めて慎重に取り組まなければならないだろう。その意味でこの映画から立ち昇ってくる空気感は、何がどう存在しているからなのか、その構成要素をもう一度検証しておくべきだと思った。

Sunday, February 05, 2006

TWISTED

霧に包まれたゴールデンゲートブリッジを絵画のように描きながら、そこを飛び行くカモメが濡れた眼球に映りこむオープニングは印象的。だが、はい私は警官ですとテキパキと逮捕して急にトーンダウン。そのまま酒場、男漁り、自宅、分析医の部屋とトーンは上がりもせず下がりもせず淡々と物語が続いていく。全体の30%までそのトーンのまま、映画の主題が見えないのはいかがなものか。いい人はいい人らしく。悪い奴は悪っぽく…というステロタイプな衣装や演技・演出に飽きてくる。前半のアンディ・ガルシアもその演出に潰されてしまっていて演技として移入しているはずの感情が伝わらない。主役のアシュリー・ジャッドも笑顔ばかり振りまく印象で抱える苦悩があることすら伝わらない。アシュリーは観客の目を釘づけに出来るほどの女優ではないが、とにかく親の死と物語に何か繋がりがありそうだと思わせるまでがあまりにも平凡すぎる。その平凡さが中盤から後半にかけての伏線だと言われたらそれまでだが、フィリップ・カウフマンのフィルムだと言うことで見始めたが中盤までで失敗かと思わせられ席を立ってしまう客がいても仕方がないだろう。まぁそれはいい。とにかく前半は退屈だ。相棒に真実を隠された事に対して階段の途中でアンディ・ガルシアが激怒する演技に気分を直し、もう少し見ようかと思い始める。だがその後も掴みがゆるくテンポが遅い。退屈さが抜けない。なぜだろうと考えた。おそらく映像的に弱いのだ。カメラアングルも切り替えも陳腐。惹きつけるものがない。アシュリーが気を失っていく時の演技も馬鹿馬鹿しいほどヘタだ。サウンドエフェクトが無ければ酔って目を回しているだけにしか見えないだろう。物語自体もどうしようもない。そんなオチだけでホントに終わらせるんか…と思っていたら本当に終わってしまった。収斂出来ない伏線は張るなということだな。

Saturday, February 04, 2006

THE NIGHT PORTER

シャーロット・ランプリングである。豪奢なパレスの一室と思われる部屋で、テーブルの上に素っ裸で座り、片足を曲げ向こうに足を開いたまま後ろを振り返る女。シャーロット・ランプリングを撮ったヘルムートのモノクロームの写真だけが、若き日の僕にとってのシャーロット・ランプリングだった。その強烈なイメージは脳裏に今も焼きついたままだ。そうして彼女は僕にとってノーブルの権化であり、気高さの権化であり、ミューズとなっていった。しかしそれは彫刻のようであり、見とれるほどに美しいが触れてはいけない存在。生身の人間としてよりもミューズ。つまり女神のような存在として位置づけていた。だからこそ、この「愛の嵐」も前々から見たいようで、実は見るのが怖い映画だった。見てしまうとその僕の内なるイメージが脆くも崩れるような気がして、いつまで経っても見る勇気を持てなかった。そして最近「スイミング・プール」を見た。しかし年老いてしまったシャーロットを見続けることに耐えられず「スイミング・プール」は中途半端なところで見るのを止めてしまった。そのコメントはまた別に書くとして、やっぱり確かめなくては…という想いを持ってシャーロット・ランプリングの代表作であるこの映画を見始めた。しかして映画が始まった途端、シャーロットの美しさに画面に釘づけとなった。その神々しさ。生身の人間として微笑む美しい姿だけではなく、その内側に秘められたる強い力。それは、美しさに見とれても決して触ってはいけない尊い神像のような存在であった。決して距離を縮めてはいけない禁断のミューズ。怒りを抑えているようでもあり、泣きたいような悲しみを抱えているようでもあり、映画を見るまでもなく登場した瞬間の一瞬で変る表情の中に、激情と哀しみとが秘められた悲痛さを感じさせる。この存在感は誰にもない。まさにメデューサのごときシャーロット・ランプリングなのである。映画は全体に明度が低く微妙な表情が読み取りにくい。真っ暗な映画館で座りスクリーンを観るというスタイルで鑑賞するのが正しい見方であろう。色彩は青みが美しい。ところどころで青の時代のピカソの絵を思わせる。物語の背景は早い段階で掴むことが出来る。脳裏に浮かんだものを短い場面のインサートで繋いでいく手法により展開する流れが自然とわかる。途中途中に差し込まれるくどいほど長い舞踏やオペラの場面も、回想されているシーンだと思うことで苦痛は和らぐ。しかし、数多くの人間の苦悩が編みこまれるわけだが、それにしてもこの映画、物語が進むリズムが非常にゆっくりしていて、僕のようにシャーロットに見惚れるという要素がないと見続けるのには相当の努力が必要かもしれない。

Friday, February 03, 2006

STEP INTO LIQUID

駄目だ。アドレナリン出まくり。一度でもまともに波乗りにハマった事がある人間なら、オープニングの透明な波を見ただけでガツンと来る。映画の最初にノーエフェクト、ノースタントと出るところがクール。身体が熱くなる。キャプチャに載せたシーンの波はレギュラースタンスの僕にとって、おそらく最高の夢の波と言ってもいい。この海面の状態は結構強い正面向きのオフショアが吹いている。こういう時はとにかく焦らずに波のボトムまで降りきらなければ抜けるためのスピードが出ないわけだが、このタメの瞬間が一番怖い。僕はこの写真の波の半分の半分ぐらいのサイズしか乗ったことはないが、それでもボトムターンが決まらなければチューブもないしカットバックもない。まぁ現役で波乗りにどっぷり行っていた当時にもサーフィン映画というものはあって、有名なところで「フリーライド」や「チューブラースウェルズ」なんかは四国にいた頃にサーファー集めて上映会とかやってた事などを思い出しつつ、とにかくすごい波ばかり見ていると物部や海部の河口の巻き具合や大型台風で鳴門や小松に押し寄せた大波などを思い出して身体が熱くなるわけだ。しかしハワイやオーストラリアの波は、実際経験した感じでも日本の波の3倍ぐらい岸に押し寄せるスピードが速いわけで、その分パワーもすごくて小さな波でも大きな技が出来るところが面白い。だから、この映画に映し出されてる波なんかはどれもこれも全部半端じゃないわけで、パイプラインのワイプアウトを見てるだけで鼻の奥がツーンとしてくる。しかしジェリー・ロペスがあんなに老けてるんだから自分も年寄りになったってことだな。キャプチャ写真の、ドルフィンスルーがバッチリ決まるところでもどきどきする。このサイズで一瞬でも蹴り上げが遅れると頭から珊瑚礁に突き刺さるように巻き上げられる。自分自身、そういう恐怖の体験を持っているだけにぶっはーという感じでどうにも落ち着いて見ていられない。どうにもお尻のあたりがモゾモゾしてしまう。後半に出てくるフォイルボードってのには驚いた。どんな乗り心地なんだろうか。抵抗が極限まで少ないわけだから後は波の力を受ければ前に進むという原理はわかるので、雲の上を滑っているようだというのはなんとなくわかるが、レールの抵抗を使わないでのターンってのがどういう感じか想像するしかない。最後に出てくる60フィートの波は正直ぞっとする。後で彼らは笑いながら話しているが海の中にいたときは絶対に顔が引きつっていたはずだ。正確に測っての60フィート。つまり18メートル。8階建てのビルの頂上から飛び降りながら波に乗るっていうことだ。ありえねーと思いつつ血が騒ぐ。くそっ、コヤジになったけど今年の夏は海に行くぞ。

Thursday, February 02, 2006

TROY

勝利したのは兵士だと言うアキレスの言葉を押しつぶすように歴史に残るのは国王だと言うアガメムノン。このイデオロギーは西洋も東洋もなく歴史に名を残す王に共通したものだと思うが、それに従って現場で闘う男たちを現代から傍観すると、そこには戦士としての誇り以外に闘う理由が見出せない。国と国の争いを決闘だけで決着させうることが出来た思想とは何であろう。負けた側はそれで絶対服従を宣言され奴隷となるのに、である。そこには最も強く、且つ最も誇り高き戦士として生きた存在となりたいと願う、男たちの共通した目標があった事を示している気もする。正々堂々としていること。後々に語り継がれても子孫が誇れる生き方と死にざま。王子が目前で死ぬのを見守れる王がいる。それは単に殺されたのではなく敗れた結果としての死である。だからこそ王は見守れる。息子の誇りを優先する。死という結果ではなく、いかに…というプロセスに重点が置かれる思想社会。そこに武士道精神を垣間見るのは僕だけだろうか。

この映画は、なぜか物語そのものではなく、その奥にある物事への連想ばかりが頭を過ぎる映画であった。そうさせたのはこの映画の舞台の描かれ方のせいかもしれない。ほとんどすべてがコンピュータの仕事だと知ってしまったせいで、ありえないスケールでの戦闘も、リアルに描き切った古代の都も、すごいなとは思うがそれまでである。確かに千艘の船がエーゲ海に並ぶ景色も平原を埋め尽くす兵士も凄い迫力だ。しかしそういう光景は今や歴史物には必ず登場する見慣れてしまった光景でしかない。その点では「キング・アーサー」や「アレキサンダー」の方が上であろう。壮大さを描く要素を抜きに古代物語の映画は成立しないのであろうが、今後はますます数という要素だけではなく、映像としての構成力が問われるであろう。その一方で、この映画の衣装は素晴らしい。特に革で作られた鎧と兜のデザインは種類も豊富で見応えがある。またヘクトルの盾に浮かぶ文様など細かいところにも意匠が施され美しい。また殺陣も見応えがある。特にヘクトルとの決闘でのアキレスの動きには目を見張る。美術としてはトロイの木馬の造形が忘れられない。焼けた船の木材を使って作るという素材設定もリアリティがあるが出来上がった木馬は彫刻造形としても鑑賞に堪える。この木馬の再現彫刻があったらぜひ欲しい思わせる。

一方、とても恥ずかしい話だが「トロイの木馬」という言葉は知っていたが、それが何を指す言葉なのか実は曖昧だった。コンピュータウィルスの種別のひとつとして、内側に入ってから動き出すという性質は知っていたが、その名の由来をちゃんと知らなかった。さらに重ねて恥ずかしいのは、トロイが国の名前であること。また教育精神の代名詞でもあるスパルタという言葉も当時の国であり、両国の諍いが契機となってトロイがギリシャに攻められることになった事も、その争いの中に「トロイの木馬」が登場するという知識も持っていなかった。個別の名は記憶にあるものの、それをいざ語れと言われるとなんと自分の知識は曖昧模糊としたものか。ただの聞き覚えを知っているつもりになっている自分を見返ると恥ずかしい限りである。中学・高校で一応の西欧史は学んだはずだが、いま思い出せるのは近代史ばかり。西欧の古代の物語となると無学に近い。では東洋史はどうか、日本史は、日本の古代史は…と思い返すと、いずれも曖昧なこと極まりない。クールとかファッションとか目先のものに溺れるばかりで、思想の土台となる歴史に疎い自分が本当に恥ずかしい。こういう恥ずかしさは常々感じて来てはいたが、この映画を観ながら思いが帰着したところは、トロイやスパルタを始め、アキレス、ヘクトル、アガメムノン、アポロンと、とにかく物語に登場する人物も場所も出来事も、それらすべては単なるドットとしてのみ記憶に存在しているだけであり、その単点がノードとして機能していないということだ。点と点が繋がってノードとなる要因が欠如したままでは、蓄積された記憶は知識として活用されない。そしてそれらに繋がりを与える要因が「物語」であるという再確認が出来たことが、この映画を観ての最大の収穫だったように思う。ストーリーテリングだけが人々の曖昧な記憶を紡ぐことが出来る。そしてそこに新たな認知が生まれ再度記憶に刻み込まれる忘れ得ない経験が生まれる。この当たり前の方程式を再度自分に言い聞かせた。

Wednesday, February 01, 2006

FORBIDDEN PLANET

この映画を最初に観たのは今から34年前。僕は中学生だった。当時の僕は教育大付属中学の池田校舎に通っていたので、帰りに阪急宝塚線を途中下車して豊中に住んでいた叔母の家によく遊びに行っていた。ある夏の週末だったと思うが、従兄弟たちと待兼山の原っぱで夕方までキャッチボールをして遊び、食事をした後にテレビでこの映画を見たのだった。おそらく時間は夜。その時の強い印象はいまだに失せていない。目に見えない怪獣が襲ってくるところで鉄板のシールドをツメが破ったり研究室の入り口の分厚い鋼鉄の扉が熔けて崩れるシーンは怖く叔父の顔を見た覚えがある。二度目に見たのもテレビでの再放送だった。確か高校生だったと思うが、その時はアン・フランシスの輝きに目が釘付けになったのを覚えている。思春期そのものの反応だ。邦題は「禁断の惑星」。1956年公開だから昭和30年。公開時期に僕はまだ生まれていないほど古い映画だ。しかし優れた古典である。それもとびきりのと僕は言いたい。宇宙を舞台にした空想物語だが映画としての主題は憎悪と闘争という本能への警告であり、サイエンスフィクションとしても持つべきものをすべて兼ね備えている秀作と言える。この映画の中でシネスコープサイズの画面が最も効果を発揮しているクレル星人のパワーユニットのデザインはまるでバウハウスのポスターのようだし、博士の家のインテリアや宇宙船内部のセットもとびきりモダンに映る。さらにロビーのデザインはヒューマノイドデザインの出発点として永久不滅。日本は高度成長期真っ只中で東京オリンピック前である。その当時を思えばこの映画がいかにクールな世界観を描いたかは想像に易い。できることなら黄ばみを修正した色調のものを映画館に座ってシネマスコープの大画面でもう一度観たい映画だ。