Friday, December 30, 2005

MULHOLLAND DRIVE

マルホランドと言われるとデヴィッド・ホックニーの絵の方を素早く連想してしまう僕だが、それはさておき今ごろ「マルホランド・ドライブ」である。ナオミ・ワッツという女優が前々から気になってはいたのだが、「キングコング」の予告を見たのもあって興味が湧き、この作品を見る気にもなった。そもそも僕はデヴィッド・リンチが描く映画のトーンは「ツインピークス」から決まってしまったと思い込んでいる。つまり連続テレビドラマってことだ。映像も「ブルーベルべット」が彼の完成された世界観なんだろうとも思っている。ということで改めて興味が持てなかったというのが本音かもしれない。この映画はどーよと思って観始めた途端、やっぱりそうなのかと思わされずにはいられないリンチ的映像手法が炸裂する。異常なほど幸福感を演出してから反転して怪しげな世界へと導く手法も相変わらずだ。意味ありげに登場する男たちを蝋人形のように撮るのもリンチらしい。天井から垂れ下がるベルベットのドレープカーテンが登場した時には「出たよ」と言う感じ。もちろん独自の世界を持っているわけだしリンチの才能は認める。色彩感も学ぶところが多い。さて本編、とにかく前フリが長い映画だ。だが巷で言われてきたような難解さはどこにも見当たらない。どうしてこの映画が難解なのだろう。簡単に言えば田舎娘のダイアンが都会に翻弄され失恋して自滅する物語を、彼女の自分勝手な脳内映像を軸に描いたものと理解すればいい。その意味で映画のカテゴリーはサスペンスではなくて恋愛映画に属するとも思われる。難解だと思う人はこれを練られた映画だと思うからではないだろうか。リンチの仕事は連続テレビドラマとして見なければ楽しむ以前に腹が立つほど無駄な枝葉だらけなのだから。とはいえ「エドのブラックリスト」を奪うシーンでの殺し屋のマヌケぶりのように、その枝葉が結構良く出来てるわけで、余計に始末に悪いともいえるだろう。一方、そもそもの興味の対象だったナオミ・ワッツだが凄いの一言に尽きる。信じられないような演技力を見せつける場面があるが、それをスクリーンで見る僕までが言葉を失ったほどだ。女優と言う仕事はこういうことが即座に出来なきゃ駄目と言われたら9割の女優は即刻グラビアモデルに降格だろう。底知れぬ才能に驚くばかりだった。こりゃ「21グラム」も見とかなきゃならんな。

Wednesday, December 28, 2005

PIRATES OF THE CARIBBEAN

ジョニー・ディップが素晴らしい役者である事は分っていた。だが彼の出演作には縁がなく、特に93年にフェイ・ダナウェイと共演した「アリゾナ・ドリーム」が決定的に観に堪えず、以来彼を観るのをやめてしまった。気がつくと10年以上も彼の演技に触れて来なかったわけだから恐ろしい。しかし「BLOW」でガラリと印象が変わった。この作品も元々はブラッカイマー繋がりで観ることになったわけだが、ほのかに期待したジョニーは見事な演技で裏切らなかった。作品は「お子様向けおとぎ話で稼ぐ映画を作るとはこういうもの」というお手本であった。必要最小限のポイントをびしっと押さえた貴族、庶民、軍人、海賊という配分。悪賢い憎まれ役と間抜けな善人たち。月光に照らされると浮かび上がる腐り果てた亡霊の身体という見所。身分を越えた恋心。随所に盛られた笑いとドタバタ。それらどれもが、わかりやすく子供が喜ぶ設定で、その贅肉の削ぎ方に泣けてくる。ジョニー・ディップは亡霊でもあるジャック・スパロウ船長を演じるわけだが、その台詞回しや挙動まで子供たちに受けること間違いなし。さらに元々美形のオーランド・ブルームを生真面目な男の役に縛りつけて美しく純粋という側面を一層純化させた分、ディップの生臭さが一層際立つ結果となっている。このへんは計算づくなのだろうが、そう考えると本当に映画製作と言うのは奥が深い。この夏続編が公開され、すでに第三弾も製作中ということで、ばっちりお金を稼ぐブラッカイマーの真骨頂爆裂中なわけだが彼の稼ぐ手法にそろそろうんざり。

Tuesday, December 27, 2005

BLOW

まいった。いやはや無茶苦茶かっこいい映画だわぁ、というのが正直な感想。全編に亘って映像も音楽も脚本、特にそのセリフ回しに呆れるほどノリがあって最後まで目が離せない。かっこ良さは何より衣装の素晴らしさが際立つが、それを着こなすジョニー・ディップも素晴らしく冴えてる。脇を固める俳優陣も個性豊かな上に完璧な配役に思えるし、皆がこれでもかと演じ切っているので胸が空くような映画のタッチがより立ち上がって来るようだ。脇が冴えていて印象的なのはポッド時代のマリブのアパートでニタニタ笑うだけのおデブとか、サイケな売人バービーのオネエぶりとか、実家に帰ったジョージが警察に連衡されちゃうシーンでの母親が叫ぶ通報の言い訳とかとかとか。やっぱ脚本がいいんだろうな。もちろんリズムを作る編集も良いし、もう簡単に言えば全部好きってことになる。ラストに幻影として現れるジェイム・キング演じる娘の姿にハッとするまで、実話なのにファンタジーのように押しの強い展開に、おぢさんやられちゃいました。それからDVDについているオマケの中で共演した俳優達がキャスト役のままでジョージについて語るプロダクションノートコンテンツがあるのだが、これがまた凄くイケてて素晴らしい。ミュージックビデオ的と言ってしまえばそれまでだが、普通である要素を極大化させることで一見どこにでもあるインタビュー映像をファッションにする正しい手法と言えるだろう。

Monday, December 26, 2005

SIGNS

馬鹿げた話をネタに映画を真面目に作るとこういう映画になるという意味で悪くない。前半の前フリは長すぎるしオチはベルネの宇宙戦争っぽい。見終わってみると実際に宇宙人を登場させる必要があったのかさえ疑問に思う。ここは田舎ですという表現もただ情景を見せるだけではなく登場人物たちの挙動や話しぶりにも演出が及んでいて手が込んでいる。メキシコシティ上空にUFOが現れたというテレビ中継を、深夜ソファに兄弟並んで見る場面で、奇跡について語り合うシーンが印象深い。メルギブソンは妻に先立たれた不器用な男を演じる上に元牧師としての純粋性も加味させ、受け入れ難い現実に苦悩する男の内面を、「誰も我々を見守ってはいない。人間は独りで生きている」という言葉と共に現す。彼は仕えて来た神に対して受けた仕打ちに怒りを抱いている。最も神に仕えていたはずの身であるのに…という自我と、拭いきれない悲しみを背負わされたことが彼の内面で一致できない。その納得の落ちどころ愛なわけだが、家族への愛情、つまり他に生かされている自分に気づくことによって自分の信じるものは変らないと知らされていく。この映画での言葉の数々は今の僕には重い意味を持って聞こえる。

Sunday, December 18, 2005

Contacts

ウィリアム・クラインが作った「コンタクツ」を見た。内容は11人の写真家が語る自分の創作アプローチ。まぁ講演会で聞くプレゼンテーションのようなものだ。だが僕はただ杉本博司のことが知りたかった。それだけである。なのでソフィー・カルの冒頭とデュアン・マイケルズの騙し絵シリーズの解説だけ見たが、それ以外の写真家は見ていない。いまさらサラ・ムーンの話を聞いても仕方ない。杉本博司が自ら語る作品へのアプローチを聞いていて彼の劇場を撮影した一連の作品には時間だけでなく上映された映画までが写し込まれていることを知った。このシリーズは見てはいたがコンセプトは知らなかった。なるほど。そのヴィジョンとコンセプトを具現化するために、彼は実際の劇場で二時間もの露光を行っている。映画が始まるとシャッターを開き、映画が終わるとシャッターを閉じる。フィルムに写るものは露光オーバーとなった真っ白なスクリーン。しかしその真っ白には時間とともに物語が写しこまれているわけだ。行為としてはシンプルそのものだが、写真に明快に意味を持たせている。こうした視点は慌しい日常の中では出てこない。水平線のシリーズは以前に知っていた通りのコンセプトであった。「ハピネス」展ではこの水平線作品の前で何分立ちすくんでいたか思い出せないほどの時間を過した。文明の起こる遥か前からこの景色は変らずそこにあったということに思いを馳せているうちに時間の経つのを忘れてしまっていた。蝋人形シリーズはアプロプリエイションだと言われる所以だろうか。慎重に照明を作って生きているかのような理想の姿を写した写真に彼が焼き付けているのは肖像ではなくやはり時間なのだろう。千手観音のシリーズは実物をまだ見ていない。原美術館に展示されているはずなので機会があれば見に行きたい。だがその前にまず京都に行くべきなのだ。ついそうした当然のことを過激に働いていると忘れてしまう。こうした欠落が昨年までの自分の一番の問題なのだ。この欠落の連続が僕には起こっていたのだ。

Saturday, December 10, 2005

True Crime

良いものを知るためには良くないものも見なきゃ駄目っていうことはわかっているのだけれど、相変わらず駄作は見たくない。そこでクリント・イーストウッドに助けを求めてしまった感じ。1999年公開。クリントが製作、監督、そして主演の「トルゥークライム」を見る。いきなり若いミシェルを口説くだらしない感じのクリント。明らかにこれは伏線だと自分に言い聞かす。一方、タイプライターのパチパチ音。それだけなのに、こんなに少ない描写でフランクが死刑執行直前であることを示す演出は冴えていると感じる。同時にクリント演じるエベレットがどういう存在か編集長の部屋での仕事仲間の会話で一気に説明。こういう手際はとても重要だし僕はもっと学ばなければならない。死刑囚と記者という設定はデヴィッド・ゲイルを描いたものなど珍しくない。自分の遺体を誰が引き取るのかと死刑囚が所長に確認される。こうした絶望的な状況を描く脚本は興味深い。死刑囚最後の日というのは良く描かれるが、こんな台詞は耳にしたことがなかった。しかしよぼよぼ爺の身体のくせによくまぁ何度も裸を見せるもんだ。この映画の後にオッサンも捨てたもんじゃないぜという「スペース・カウボーイ」を作ったのはこのヨボヨボ姿の反響のせいじゃないのかと勘ぐってしまう。だが確かに浮気性でだらしなくい男は確かにいつものクリントらしくないが演出は確かだ。仕事に情熱を持つ男にとって絵に描いたような家庭生活を望む妻が時には最大の障害に思えることもある。そこを描く必要はあとでわかる。中盤ですべての設定は終わりあとは伏線を解いて行くだけ。しかし簡単にはいかない。その簡単ではないところが映画の見せ所。この作品ではそこを徹底してもう駄目ジャンというところまで落とす。ここまでぎりぎりに引っ張るとは思っていなかった。どうなるの…のところで刑務所長を演じるベルナルド・ヒルが美味しいところを掻っさらったように思ったがラストにルーシー・リューのオマケつき。どこかテレビ放送向きの映画のように思える締めくくり。美術も、衣装も、映像も、特別に書き記すべきものは何もない。ラストもカメラは動かず照明も変らず景色も動かずエキストラが歩くだけと能がない。しかし映画としての押さえどころは全部きちんと押さえてある。言ってみればこれがクリント式の基本形ということなのだろう。

Thursday, December 01, 2005

Koyaanisqatsi

副題に「Life Out of Balance」とあるとおり「コヤニスカッティ」とはホピ族のことばで「バランスを失った世界」という意味らしい。1983年の公開時にこの映画を見たとき、ものすごくショックを受けた記憶がある。徐々に迫り来るような緊迫感を感じたことをよく覚えている。フィリップ・グラスの音楽も毒々しくて追い詰められるような印象だった。さらに日本でMTVの放送が始まったばかりの当時は、流しっぱなしのいわゆる環境映像的なジャンルがまだ新鮮だった時代だった。ブライアン・イーノのコンセプトワークなども同時代の記憶にある。そうした時代だったが中でもこの作品は高速度撮影、微速度撮影、空中撮影、定点撮影、長時間撮影と、おそらく当時では最新の映像技術が駆使されていて、映像的に面白いということは、どういう感じなのか…という切り口で映像を受け止める最初のきっかけを僕に与えたような気がしている。同時に黙して語らず流れだけでモノ言わん…という編集もおどろきだった。序盤から地球の自然の姿をゆったりと描く。広大に広がる大地。流れ行く雲や力強い海面。そこに人類が入り込んで来る。ビルが建ちあがり無数の自動車の光跡。人々が行き交うニューヨーク。目まぐるしい速度で破綻しているのにそれに気づかない人類を描き出す。最後に短く「コヤニスカッティ」の意味を示す字幕が出るだけで映画には台詞はひとこともない。あるのは映像と音楽だけ。しかし物語というか脚本は存在していて、見続けていると作り手が込めたメッセージが伝わってくる。物質的満足を追求する我々人類の文明が確実に破綻に向かっているという意識を否応なしに持たされていく。こうした映像の力強さというのはこの作品を見るまではあまり意識したことがなかった。製作はフランシス・フォード・コッポラ。監督はゴッドフリー・レジオ。撮影と編集をロン・フリック。後にレジオは同様の作品を数作作り続けたが一作目のこの作品が一番印象に強い。