Monday, October 31, 2005

13 DAYS

ケヴィン・コスナーって、とにかく「アメリカの正義」というテーマに関してならオレしかいない…という勢いを持って映画人生を歩み続けてきているような人に思える。でも彼が辿ってきた正義を謳いあげる論調もこうも一貫されると気持ち悪くなってくる。「ダンス・ウィズ・ウルブス」、「アンタッチャブル」、「JFK」…。彼はそのうちレーガンのように大統領になるつもりなのだろうか…と思ったこともあった。んでこの映画、キューバ危機のときのケネディ大統領とホワイトハウスの内側を描いたものだったけれど、なんかしっくり来なかった。キューバ危機には、例えばソ連の潜水艦がうようよしてたとか、海上封鎖前後には、もっともっと多くの真実が起こっていたことが、その後の当時のソ連の幹部たちからも証言されているし、そういう歴史的な事実を、アメリカ側だけの、それも軍隊をちょっと嫌な存在に置きながら、政治側の苦悩って大変なんだぜ、みたいな描かれ方には、どうも入っていけない。そういう意味でもケヴィン・コスナーらしいと言うか、偏執的なアメリカの正義を押しつけられるような感触には違和感を感じざるを得なかった。

Sunday, October 30, 2005

THE BOURNE SUPREMACY

ボーン・アイデンテティ」の続編。そのタイトルに「スプレマシー」という言葉が使われているのを知ってニヤリとしてしまった。スプレマシーは確か最高位とか高い優位性を示すときに使われる言葉。もちろん映画の物語そのものの展開を示すものとして選ばれたのであろうが、一方で作り手たちがジェイソン・ボーンを「最強」という存在に位置づけたいというような意識があるような気がしたのだ。そしてその意識は前作を見たときに強く感じたものだった。さて本編だが正直言って面白いと思った。息つく暇がない展開。前半早め、ジェイソンにストイックであるがナーバスな面も持っているパーソナリティ描写をインドネシアのビーチハウスを舞台に素早くキチンと盛り込む。映画の本筋は徹底した戦いの連続であり、そこにいたる前に短い時間で組み込むあたりの手際は見事だと思う。

美術も撮影も素晴らしい。世界観の表現が見事だ。ベルリンのアパートメントのインテリアも裏を正せば相手方の個性を現していて見事。序盤の彼の苦悩が滲むノートの作りこみやデスク回りの小物なども徹底している。物語は世界中を駆け回る。その分、中々描かれない街が登場するが、個々の街の独特の雰囲気が次々に見れるあたりはとても楽しい。圧巻はモスクワだろう。ボルガでのカーアクションは、本当にもの凄く長いのだが、まったく飽きない。いや飽きないどころかボルガの助手席に自分も乗せられているようなカメラワークには本当に驚かされる。このリアリティは過去に例を見ないのではないだろうか。延々と見せ場が続く中にジェイソンの冷静さを描きつつ、どがーんとブチ当たって飛び散る破片などが自分に向かってくるようなカメラワーク。すごい構成だと思う。物語としては悪役は破滅しジェイソンは孤独ながらも優位性を保ったまま去っていく。タイトルどおり主人公は常に高い優位性を保っている。気になったのはジョアン・アレンが演じるCIA女部長の設定が少し弱過ぎると思った。仮にもその役職にいるのであれば汚い裏側も持った存在でなければならない。しかしジョアンは変に真っ当な女でしかなかった。もう少し底知れぬ何かを持った女優が欲しかった。たとえば「オーシャンズ12」でいみじくもマット・デイモンの母親役を演じきったチェリー・ジョーンズが漂わせるような一癖ありげな臭さのようなものだ。

Saturday, October 29, 2005

THE BOURNE IDENTITY

僕はこれまで「最強の男」とか言われると、鍛え抜かれた筋肉ムキムキ男を思い浮かべて来たように思う。映画で言えば「ランボー」とか、K1選手のようなイメージと言えばいいだろうか。だがこの映画を境にそのイメージが完全に変ったような気がする。もちろん筋肉も必要だろうし、肉体的にも精神的にもタフでなければ最強とは呼ばれないだろう。だが、肉体の前に、なによりも切れる頭脳という側面を際立たせた人物描写をするこの映画が、新しい分野を開拓したのではないだろうか。そもそもランボーに知性はまったく感じない。スパイ・エージェントの代表であるジェームズ・ボンドもアホではない。だが今のボンドは無茶苦茶ありえないスーパーマンになってしまったし、そもそも女が常に絡む点ではストイックさもない。ミッション・インポッシブルのイーサン・ハントもクールに仕事を片付ける方だが、どうしてもヤバい状況で汗を流してしまう。彼らをこの映画の前に並べてみると霞んでしまうのだ。とにかく今のところ僕の中でジェイソン・ボーンは「最強」である。

責任逃れのあと始末とは知らず、屈強のCIAエージェントたちが総出でジェイソンを消そうと奔走するが、常に裏をかき続ける奥の深い脚本は見事。もちろん「そんなこと可能なの」という疑問符は常に抱えさせられるが、物語を追うことの方が楽しいでしょっていう引っ張りがあるので気にならない。こういう「いいじゃん、それより次が気になるでしょ」という説得力のあるバランス感覚は好きだ。クライブ・オーウェン演じるパリから来る追っ手役のスパイとの戦いも、静けさのある田舎の木立で肉体面よりも冷静・忍耐と頭脳の戦いになっているように思う。ジェイソンの挙動はすべて計算され尽くした無駄のないもの…というキレは随所に見られ、そこにマット・デイモン演じるクールさも相俟って、新時代のスパイキャラクターを声高ではなく主張することに成功したと思われる。パーソナリティは冷静沈着冴えわたる頭脳。しかし物語の中では痛い時は痛いという顔をする人間性。そうしたリアリティの追求がある。そして痛くても痛いと大袈裟さは存在させない。だがそういうパーソナリティの描写に向けての演技を一切省かずに物語を紡いだところが興味深い。また、たとえばパリの隠れCIA基地の場面でも、螺旋階段の上にいて追い詰められた状況を打破するために、殺した敵を抱えながら飛び降りて姿勢を保って階下に潜む敵を一発で撃ち抜くわけだが、よくこんな事を思いつくもんだと最初は驚いた。しかし、抱えた敵をクッション代わりに使うという脚本が、実際にはありえない場面に現実味を与えている。本当に徹底的に一味足し尽くして行けば、そこに別の次元の世界観が現れ出でることを教えられた。

Tuesday, October 25, 2005

CONSTANTINE

むちゃくちゃ脇がいい。とにかく脇役が素晴らしくいい。「ヒトラー」で武力しか能のない防衛軍隊長のピーター・ストーマが突如大魔王サタンになって現れてくれたのも驚きつつも最高のキャスティングだと唸った。目の見えない謎の黒人霊媒師・ミッドナイトも超クールだし彼のクラブはぞっとするような美しさで満ちている。さらに衣装も抜群だ。ティルダ・スゥイント演じる大天使ガブリエラも最後には薄汚れてしまうが味のある美しいオーガンジーの重ね着で独特の世界観が醸し出される。サタンの服もクールでいい。天使は白だから悪魔は黒だと思っていたが息子のスーツ姿といい親父のアイボリーのジャケットと白シャツもセンス抜群。にちゃにちゃのヘドロを垂らしながら素足で降りてくるゆったりとしたスピードも重要な演出だろう。実際、目を凝らして画面を見ていると徹底的に美術が検討されていることがわかる。劇画コミックスを実写版で映画化となれば非現実的な話にリアリティを与えなければ成立しない。そこに目を向けると圧倒的な労力が割かれていることがわかる。地獄の絵もものすごい。ガブリエラが暖炉の前で黒々とした大きな羽根を広げた時はすごいなと思ったが、それよりも最後に焼け焦げた背中の美術が素晴らしいと思った。とにかく映像に詰め込まれた圧倒的な美術の数々に目が離せなかった。残念なのはキアヌ・リーブスだ。「自己犠牲か」というサタンが吐く台詞はまるで「マトリックス」を受けたとしか思えない。果たして彼は「マトリックス」から抜け出せるのだろうか。

Thursday, October 20, 2005

Ocean's Eleven

この映画、僕が生まれた年に撮影された作品なわけだから、考えてみればぞっとするほど古い。でも面白いのはなんだろう。ディーン・マーティンしかり、サミー・デイヴィス・ジュニアしかり、とにかくシナトラ親分を筆頭に、一家勢揃いでそれぞれの芸を見せつつ、いや見せつけつつの映画なわけで、その点では今見ると「くどいよ」と言わざるを得ないのだが、当時のエンタテイメント・シーンには今のようにミュージックビデオのような音楽専門チャンネルメディアがなかったわけで、いわんやインターネットもなければiPodもない。そこからすれば、この作り方は仕方ないと言えば仕方ない。この映画を見たときのノートは、このブログの最初のエントリーにアップした参照画像の通りだが、当時最先端とされていたエンタテイメントの殿堂であるラスベガスの五大ホテルの様子がとても興味深い。ライブの場所もとても小さく、装備も華奢でどこかほのぼのする。まさに目の前で夢に見た大スターが歌うのだ。そうした少人数のハコでは、今のように数万人のどよめきに身をまかせ突き抜ける感動は味わえないだろうが、手の届く距離で拍手を送ることができる喜びが、当時は別のものとして存在していたのだなと納得させられる。思えばMTVでアンプラグドが成功したのも、そうした距離感の再現だったことを思い出す。どこか冴えない各ホテルのロゴタイプも映画の中ではレイアウトされて、はっとするほど魅力的だ。ラストシーンで「しゃーねーな」という面持ちで歩き続けるオーシャンと仲間たちの映像にそれぞれクレジットが重なる表現手法は今も色褪せない。

Saturday, October 15, 2005

Moonlight Mile

ジェイク・ギレンホールと言えば「デイ・アフター・トゥモロー」が記憶に新しいのだが確か高校生の役だったように思う。この映画はそれに出演する二年前だから相当若いわけだが、元々イチローのように無精ひげでも伸ばさないと彼はいつも子供に見える。映画が始まった途端、昨今のタイトルバックには珍しく、この映画ではフランクリン・ゴシック書体が美しくも気持ちよく使われていて、改めて新鮮に思う。読みやすく収まりも綺麗。短い寸劇のあと、観客を一気に掴んで物語に引っ張り込む葬儀へ向かう車列を描くオープニングは見ものだ。舞台はマサチューセッツのケープ・アンという田舎街。一昔前の典型的なアメリカの田舎町。教会、結婚式、駆ける子供たち、追いすがる自転車の子供、洗車場、ダイナー、交差点…。実際には絶対に存在するスラムや裏道を描かず、どこにでもありそうな清潔で平和な田舎の街の様子を一気に説明して見せる。衣装や小道具もそこに焦点を当てている感じがする。いまどきあんな郵便局なんてどこにもない気もする。こういう舞台設定の場合は描かれるディティールひとつひとつはあまり参考にはならない。それよりも全体の印象をどう作ろうとしているかの視点で観察したほうが学習できる。だが花嫁写真の写真館などアメリカの田舎の人々のダサい美意識の数々はとても面白い。もちろんそういうひとつひとつは映画の中では伏線になっているのは言うまでもない。こういうひっかけに思えるようなモノ見せが意味なく行われる映画も多いが、この作品はそうした点ではキチンとした仕事を見せる。余談だが僕にはキリスト教の葬儀の様式がよくわからない。日本の葬儀も、真言宗なのか浄土真宗なのかとかは唱えられる読経でしか判断がつかないほどで、様式となるとさっぱり知らない。キリスト教の葬儀の場面は映画の中でよく目にするが、この映画の様式はあまり見たことがない。ユダヤ系だろうか。さて、ダスティン・ホフマン。個性的な役者だ。彼が演じるとどの映画も彼のタッチになる。彼以外にこういうタッチは出せない。こうした役者のオリジナリティがとても興味深い。ワイフのジョジョを演じるスーザン・サランドンも力を見せる。意外なところで「ピアノ・レッスン」のホリー・ハンターが切れ者の検事を演じるるが彼女の役どころは物語の現実面を抑える意味で重要。そこを素晴らしく演じている。何よりも素晴らしかったのは老犬ニクソン。ラストのニクソンの顔の演技は忘れられない。一方、聞き覚えのある音楽が効果的に使われている。でも全部懐メロ。この作品の題名はローリング・ストーンズの曲から来ているようだ。ジュークボックスで曲が流れる場面はとても印象的。さて、映画を終わって思うのは、作者が何を描こうとしたかだ。そこだけを考えるとジェイク・ギレンホールはブレーキになっていると思う。単に時代を描いたという以上に、起こった出来事の背景には銃の問題や司法制度、残された被害者側が抱える苦悩があり、さらに地上げや徴兵などアメリカが抱えるさまざまな問題が伏線として張り巡らされている。その上でこの物語の展開を考えたとき、果たしてジェイクが心を打つドラマを演じられたかと言うと疑問符が残る。同じ役をブラッド・ピットが演じたらどうなっていただろうと考えるのは酷かもしれないがジェイクは主人公が抱えるナイーブさを演じ切れなかったと僕は思う。後で知ったことだが、突然にかけがえのない存在を失う悲しみは監督・脚本のブラッド・シルバーリングが経た実話が背景にあるという。一方、誰もが肉親の死には必ず接しなければならない。そこを考えてしまうのはなぜだろう。

Tuesday, October 11, 2005

Confessions of a Dangerous Mind

ありえないでしょっていう話を、そのまま、ありえないかもねっていうトーンで作るあたりがジョージ・クルーニー風っていうことになるのだな、と気づいたのは、彼が製作に関わった「Ocean's 11」を見たからかもしれない。この映画はクルーニーが監督した初めての作品なのだそうだが、むちゃくちゃ頑張ったんじゃないだろうか。物語は設定自体がどうなのっていう物語なので、そこの追いかけはもうどうでもいいと思ってしまったからかもしれないが、絵作りにばかり眼が行く感じで見てしまった。ノンカットで延々とフィルムを回しながら場面を展開していくところは本当に興味深い。見物客を案内するエントランスでの長回しや、番組収録スタジオでの長回しなど、合成のようでベタ回しで作られていて、その作り方が独特のリズムを醸し出していてとても興味深い。撮り方というよりもセット設計がすごいと言うべきか。社長に電話をしながら歩いていくと奥に電話を受けている社長室がある、というスタジオセットの発想はまるで紙芝居のようですごく面白い。個人的には「ER」のジョージが好きなのだが、こういう意味不明な役で登場するのも彼の味のひとつだろう。ジュリア・ロバーツがキレた演技で出てきた時あたりから、もう映画を見ているというのではなくなってしまった感があった。でも美術は面白い。サイケなタイポグラフィや当時のファッションは演出資料としては完璧な部類に入る。時代がハッキリしているからリメイクすると面白い絵が作れると思われる。

Thursday, October 06, 2005

Der Amerikanische Freund

邦題は「アメリカの友人」。「ベルリン・天使の詩」の10年前にあたる1977年にヴィム・ヴェンダースが作った古い映画だ。今では貫禄の親父だが二枚目俳優という肩書きをまだ持っていた頃の若々しいデニス・ホッパーに会える。映画全編に亘ってマチスの絵のような色彩が印象深い。描かれる街は場末であって決して綺麗ではない。そうしたなかにまるで絵の具のような透明に冴えた色彩が織りこまれている。全体にフィルムを増感させたようなノリの調子が見られるので現像でも色にこだわったと思えるが事前の準備も相当のものだろう。慎重に色彩を視点に入れたロケーションが選ばれ、同時にカメラワークもその考え方に沿っている。衣装もそうした視点から見ると慎重に色調が考えられていることがわかる。中盤のNYでデニスと贋作作家が意味深な言葉を交わす場面でもコートの色と建物の色のハーモニーが絶妙で恐れ入る。そうした物語に美術品に関連した展開があるからかもしれないが、とにかく色がとても綺麗なのだ。写し込まれた美術品よりも画面全体が絵のような色彩を放つ。これは昨今の映画には見られない味として改めて新鮮に思う。途中パリの空を赤くしてしまったのはやりすぎで興醒めしたが、全編に亘って色彩に惹きつけられ続ける。なんで贋作がオークションに出せるわけとか、なんでそれだけの理由で急に人殺しの話をもちかけるかなとか、殺しを持ちかけるミノの背景が全然わからないとか、それに乗らないと映画自体が進まない脚本ってどうなのかなとか、そんなに簡単に拳銃撃てないし、そもそもマフィアの人間はそんなに無防備じゃないでしょとか、パリ初めてでフランス語も出来ないのになんで迷わずに戻れる余裕あんのとか、なんで裏商売して稼いでるのにデニスはいつもエコノミークラスに乗ってるのとか、どうして中盤から急に殺し屋っぽく振舞っちゃったりしちゃうのとか、そんな素人にワイヤー渡して絞殺しろってかとか、そういうことは全部置いておこう。デニスが穿いている悲しいバギーシルエットのパンツ姿におわぁとなるが当時は自分も穿いていたしそういう時代だったとして忘れよう。でもワイフがすぐにおかしいと察知するのはそうだよなと思う。女の感は鋭いのだ。映画自体はヴィムらしい作りと言えるだろう。登場人物たちはみなどこか空虚で空回りしているような男ばかり。それは誰もが同じなのかもしれないが何かのきっかけで違う次元を覗くこともある。デニスが殺しを手伝うことになる気持ちを描いたとすればこの作品は悪くない。状況を設定しそこに登場する人物の心の揺れ動きを物語る。ストーリーテリングの定石であり基本だ。しかし物語の顛末は置いておいて、何よりもこの映画の色彩には降参だ。鳥肌が立つほど美しいラストの海に向かうシーンは忘れられない。

LA NUIT AMERICANE

「アメリカの夜」という言葉が撮影技法の呼び名でフィルタリングで夜間に見せる昼間の撮影を指すとはまったく知らなかった。トリフォー自ら出演し熱演なのかマジなのか、とにかく当時の映画撮影の舞台裏を徹底的に見せてくれるので無茶苦茶勉強になった。特に最初の場面。百人を超えるエキストラたちに細かく演出を入れながらテイクを重ねていく場面は見入ってしまう。積雪も当時は泡で作っていたり、そうした美術の人間の苦心が垣間見えて勉強になる。スタントを使った峠での撮影に行くよと言ってトライアンフに乗って出かける監督の姿や、ものすごく少ないスタッフでやりくりしながらの撮影は、まるで僕自身のスティル撮影でのロケチームの情景を見るようで楽しくて仕方ない。映画の中に映画があるという物語はおそらく非常に斬新だったと思われる。トリフォーの映画はもう一度まとめて見直すことになるだろう。

L'HOMME DU TRAIN

以下の物語のあらすじは、まるごと某サイトのこぴぺ。いかにもフランス映画っぽい作りだなっていうところも楽しめたが、正直言って、僕はただただジャン・ロシュフォールが好きで、それだけを見ていたような気がする。この作品でもロシュフォールは本当に素晴らしいと思った。以下、コピペあらすじ。

シーズン・オフのリゾート地を、一台の列車が往く。規則的な車輪の振動を刻む車内の座席には、年季を感じさせる革ジャンを身にまとったひとりの中年男(ジョニー・アリディ)が、額に皺深く刻み込まれた憂愁の面差しで坐っている。時折、その振動に耐えかねるかのように、苦痛の表情を浮かべ、こみかみに手を当てる男。激しい頭痛なのだろうか、あえぐように取り出したピローケースに、しかし錠剤は入っていない。やがて、誰ひとり乗客もいないプラットフォームに静かに滑り込んだ列車から、身体を引き摺るように転がり降りたその男は、疲れきった表情で、暮色の影の濃い街に出る。商店街は、次々と店じまいに慌しく、ようやく一軒のドラッグストアに足を踏み入れた彼は、店の奥から「狭心症の薬は、在庫切れでした」との店員の声を耳にし、振り返ると、そこにひとりの初老の男(ジャン・ロシュフォール)がいた。「アスピリン」。ぶっきらぼうに店員に注文した革ジャンの男を見た初老の男の表情が、微妙に変化した。「また寄るよ、じゃあ」。ほぼ同時に店を出たふたりの男。歩きながら、「発砲錠を渡しやがった」と吐き捨てる革ジャンの男の悪態を耳にした初老の男は、「水が要るね、うちで飲むかね」と応じる。これが、ふたりの運命の出会いの最初の会話だった。革ジャンの男の名はミラン、初老の男はマネスキエ。しかし、彼らは互いに自己紹介することさえない。

広大な庭に囲まれたマネスキエの屋敷は、人影もなく殺風景で、鍵も開けたままだ。ところが、その外見とは裏腹に、室内は意外なほど古風で、マネスキエの幼少時の写真が飾られたりと、何とも居心地の良さそうな暖かな佇まいを醸し出している。興味津々と部屋を見渡すミランは、「母が15年前に亡くなって、当時のままだよ。変化が嫌いでね」とのマネスキエの言葉に、興味津々、部屋を見渡したミランは、思わず「好きだ、ここには過去があるからね」。こうして興に乗ったマネスキエは、ミランにアスピリンを飲むための水を渡すのも忘れて、飾られた裸体画にまつわるセックスに目覚めた初恋の思い出を捲くし立てる。憮然とするミランに、「寡黙な傍観者が夢だった」と慎ましやかに告白するマネスキエ。発砲錠を溶かしたグラスの水を、ひと息に飲み干したミランは、「世話になった」と言い残して、屋敷を後にする。名残惜しそうなマネスキエの面差しは、しかしまるで何かを見通しているかのような戸惑いの表情を浮かべていた。いざ、ホテル探しに街に出たミランだが、あいにく人気のないシーズン・オフのリゾート地。ホテルの入り口には「秋季休業中」の張り紙が。しぶしぶ、屋敷に戻った彼を、マネスキエは待ってましたとばかりに部屋へと招き入れ、一族の英雄の話を始めた彼の長広舌は、澱む暇さえない。「土曜日まで、いてもいいか?」と尋ねるミランに、マネスキエは「いいとも、わたしも土曜に用事があるんだ」。マネスキエからの寝酒の誘いを断って、ようやくひとりになったミランは、スーツケースから3丁の銃を取り出し、慎重に箪笥に納め、鍵をかける。ベットに横たわり、煙草の紫煙をくゆらす彼の目は、うつろに天井を凝視している。

翌朝、屋敷から出かけようとしたミランは、庭でダンベルを使って筋トレをしているマネスキエを見かける。「時々やるんだ。似合わないが身体のためにね」。一方のマネスキエは、ミランの留守をいいことに、彼の部屋に忍び込む。そして、無造作に椅子に投げかけられたフリンジ付きの革ジャンに袖を通し、鏡の前でおどけてみせる。「俺の名はワイアット・アープだ」と、映画の台詞を口に出してキザにポーズを取るマネスキエは、そのとき、ポケットからこぼれ落ちた一枚の古びた写真を手にして、人知れず微笑む。そこには、アメリカの西部で撮影したと思しき若かりしミランが映っていたのだ。マネスキエは引退したフランス語の教師だ。訪ねて来る者は、個人教授をしている中学生の生徒と、月末ごとの庭師ぐらいで、キッチンに置かれた大きなテーブルに坐り、まるで孤独を紛らわすかのように、巨大なジグソーパズルに興じるのが日課になっていた。その頃、ミランは街のはずれで、茶褐色の車に乗った怪しげな2人組、マックス(シャルリー・ネルソン)、そしてサドゥコ(パスカル・パルマンティエ)と、来るべき“仕事”の打ちあわせをしていた。しかしミランには、長年の相棒だったルイジの到着がまだということが、やけに気にかかる様子だった。

屋敷に戻ったミランは、夕食の席でマネスキエにある頼みごとをする。「部屋履きを履きたい」。今までミランは、一度もスリッパを履いたことがないというのだ。思いがけない申し出に、マネスキエはいそいそとミランの足にスリッパを履かせ、部屋を歩かせる。「いいもんだな」と呟くミランに、マネスキエは「使い込むと、もっといい。肌の一部と感じてこそ、本物のスリッパとなる」と、途端に教師の威厳を発揮する。しかし、ひとたび心が通いあったかに見えて、ふたりの会話は意外と弾まない。思いあまって、マネスキエはミランを自慢のテラスに案内する。そして、土曜日に心臓のバイパス手術をすることを打ち明けるが、しかし、話はそこまで。どうやらマネスキエは、この手術に曰く言いがたい恐怖を抱いているようなのだ。
翌日、中央信用金庫に横付けされた車内には、ミランと例の2人組の姿があった。銀行強盗の算段らしい。下見も兼ねて、銀行のカウンターの前に立つミランの後姿に、銃口が押し付けられる。「動くな」。実は、それはふざけたマネスキエの手真似の銃だった。ビクリとするミランに、マネスキエは無邪気にこう叫ぶ。「強盗さ!昔からの夢なんだよ」。訝しげにふたりを見やる行員たち。そしてマネスキエは、ミランをランチに誘う。映画館でのファーストキスの思い出、母の遺産で初めてパリに出たが、雨にたたられ、満足に散在さえできなかった後悔。話し歩きながら、たどり着いたのは、教師時代の30年間、マネスキエの行きつけだったビストロだった。店奥のシートに坐り、マネスキエは馴染みのウェイトレスと軽口をたたく。そんなとき、大騒ぎしている若者グループのひとりが、ミランにぶつかり、詫びの言葉もなく、グループの群れに戻っていった。「怒らないんだ?」と意外そうに問いかけるマネスキエに、「ああ。こんなとき、老いを感じる。数年前なら謝らせた。これが現実だ」とたちまち諦観に表情が曇るミランを見て、マネスキエは「これができれば第二の人生が始まる」と言い残し、つかつかと若者の前に進み出る。そして、決然と「静かにしたまえ」と言い放った彼が耳にしたのは、思いがけない詩の一節だった。「中国のわが心のひとよ……」。若者はマネスキエの昔の教え子だったのだ。落胆した表情でシートに戻り、「第二の人生はおあずけだ」と呟くマネスキエを、ミランは驚きの目で見つめる。「大した度胸だ」

やがて、ふたりの心に微妙な変化が芽生えはじめる。バスルームごしに交わした“準備型”と“行動型”の男の話。ピアノを前にした“弱者”シューマンの音楽の話。しかし、現実はそう、うまくいくはずがない。ミランがパン屋にバゲットを買いに行っても、店員の対応はマネスキエに対するそれとは違う。お互いに、それは判っている。その夜、マネスキエの“寝酒”に付きあったミランは、彼からある頼み事をされる。翌朝、雑草が生い茂った廃墟の中に足を踏み入れるふたり。マネスキエの頼みごとは、射撃をすることだったのだ。最初は的外れのマネスキエの腕前だったが、慣れるにつれ、次第に的をとらえるようになる。そんなマネスキエに、ミランはアラゴンの一編の詩を朗読する。「ポンヌフで私は会った。遠い歌が聞こえてくる……」。続きを教えて欲しいというミランに、マネスキエは朗誦し、そして最後の詩句を口にする。「ポンヌフで私は会った。私のつぶやいた繰り返しに。かつて私の光だった同じ夢に。すり減った石畳の上に坐って」。明日、心臓のバイパス手術を受けるマネスキエの、そして決行を迷いながらも銀行強盗に挑むことになるミランの、それぞれの胸中に、この一節はどのように響いたのだろうか?

その日の午後、マネスキエが手術を前にしたレントゲン検査を受けている頃、ミランは街の美術館でルイジ(ジャン=フランソワ・ステヴナン)と再会を果たしていた。どうやら、ルイジはアル中のリハビリを受けていたようだ。屋敷に戻ったマネスキエは、彼の入院のため荷造りの手伝いにやって来た姉に対して、今まで胸に溜めていた不満のたけをぶちまける。「僕らに何が起きた?幸せに暮らしていた子供たちが、一瞬にしてミイラになった」。この激しい口論によって、姉との和解を獲得したマネスキエは立ち寄った理髪店で西部劇のヒーローよろしく髪を短く切りそろえる。手術の準備なのか、それとも長年のスタイルからのイメージチェンジなのだろうか?一方のミランは、マネスキエの留守をいいことに、屋敷にやって来た個人教授の生徒に対して、彼に代わってフランス語の授業を執り行っていた。束の間、互いの暮らしを味わってみる。もしかしたら可能だったかもしれない、もうひとつの人生。試みてはみるものの、しかしそれは、彼らには不似合いなもうひとつの人生なのだった。

その夜の食卓、マネスキエは長年の女友達ヴィヴィアンヌ(イザベル・プチ=ジャック)を屋敷に招いた。微妙にぎこちない空気が支配するテーブルで、ミランはヴィヴィアンヌにこう言い放つ。「彼の望みは愛情とセックスだ」。困惑しながらも、しかし彼女も負けてはいない。「人を混乱させたいの?嫉妬しているみたい」。その後、ヴィヴィアンヌが席を外した瞬間を見計らって、マネスキエとミランはテラスに出る。「若くして人生を諦めたよ」と悔恨の情に苛まれるマネスキエに、ミランは若々しく髪を刈り込んだ彼の顔をガラスに映し、「自分に自信を持て。これが本当の姿だ。年を経るほど、輝きは増すものだ」と力強く励ます。その夜、マネスキエが寝静まった頃、ミランの部屋の扉を叩いたヴィヴィアンヌは、「あなたのような人は、不幸をもたらすだけ。幸せとは縁遠い人よ」と“年増女”に相応しく、ミランの図星を突くのだった。こうして、金曜日の夜が更けていった。深夜の路上では、ミランの仲間を乗せた車と、マネスキエの手術を担当する執刀医の車が交錯する。

約束の土曜日の朝。まんじりともせず眼をさましたマネスキエを迎えたのは、ミランの手作りによる朝食だった。「9時15分の電車なら間に合う。それに乗ってくれ」と、この期に及んで銀行強盗決行を止めるマネスキエの願いを拒むように、ミランはかつて15年間、サーカスでスタントマンをしていたこと、そして、あの日、マネスキエが目にしたミランの若かりし頃の写真は、アメリカの西部ではなくサーカス場で撮影されたものであることを告白する。残された朝の時間は、穏やかに過ぎ去ってゆく。「すぐ、もとに戻るさ、以前のような静かな生活に」と言い身づくろいを整えるミランに、マネスキエは未練たっぷりの表情を浮かべる。「泊まれて良かった」「私も暇なら手伝えるんだが……本気だよ」こう最後の言葉を交わしたマネスキエとミラン。もはや2度と出逢うことはないだろうふたり。しかし、この別れの瞬間は、彼らが生きている限り、決してそれぞれの胸から消え去ることはないはずだ。こうしてふたりは、それぞれの運命の瞬間に立ち向かうことになる。

病院に到着したマネスキエは、手術に備え看護婦に体毛の処理を受けている。彼のブルーの瞳は不安を湛え、深い暗さを映している。我が身の恐怖なのだろうか、それとも別れ往くミランへの想いなのだろうか。そして、いよいよ手術の時。その頃、拳銃の準備も万端に、ミランはルイジや仲間とともに、計画通り目出し帽を被って中央信託銀行に押し入った。行員に銃を突きつけ、金庫を開けさせて、そこに眠る札束を次々と袋に入れるミラン。一方、手術室では、麻酔で眠るマネスキエの定期的な心音が、心電図を通して響き渡っていた。そして、銀行では、一枚の札を透かし見たミランの表情が一変する。ミランが慌てて金庫を出たとき、そこにはマックスの姿はなかった。そのとき、マックスを乗せたサドゥコの運転する車が、銀行の前を通り過ぎる。ミランはようやく悟った。「裏切られた」。銀行の玄関口で銃を振り回すルイジの前に、思わず立ちはだかったミランは、待ち構えていた警察の銃撃班が放つ雨あられの銃弾を一身に受け、石畳の路上に横たわる。彼の息は絶え絶えに、力なくあえいでいる。同じ頃、マネスキエの心音は、急激に弱く衰え、医師たちの尽力も空しく、瞬く間に停止してしまう。手術台の上で、力なく見開かれたマネスキエが見つめるのは何なのだろうか?路上に倒れたミランの青い瞳が、マネスキエの青い瞳と静かにオーヴァーラップする。

ここは何処なのだろう?ふたりの幻覚の世界なのだろうか。石壁が高く張りめぐらされた刑務所から出所したミランを待ち構えるマネスキエ。スーツケースを握ったマネスキエは、屋敷の鍵を無造作にミランに放り投げる。ミランは、目の前に落とされた鍵を拾いあげ、マネスキエとコンクリートの一本道を交錯する。人影のないどこかの駅からひとり静かに列車に乗り込むマネスキエは、規則正しい列車の振動音に耳を傾ける。一方のミランは、マネスキエの屋敷に向かい、ピアノの前に腰を降ろし、マネスキエが弾いていたピアノを奏でるのだった。彼のような人生を生きたい。もうひとつの人生を生きたい。ふたりの夢は、死によって実現されたのだろう。それは、美しくも切ない夢の完結なのである。

THE RECRUIT

いったいこの映画を作るにあたって何があったのだろうか。アル・パチーノにコリン・ファレルってこんなに駄目だったっけ。とにかく馬鹿馬鹿しくてどうしようもない映画だった。こんなにミスキャストな映画もめずらしいのではないだろうか。同時に物語も裏の裏を描くというならしっかり描いてくれよと言いたくなる。アル・パチーノ演じるウォルターがジェームズの父親つながりだってことはいいけれど、なぜ彼が裏をかかなきゃならないのか結局動機がサッパリわからない。レイラ役のブリジット・モイナハンもなんデスカという演技で全然エージェントに思えないし、変にCIAの協力得たからだろうけれど演出がすべてに中途半端で余計にツマラナイ。美術も衣装も撮影も全然見るところナシだし、監禁される場面でもただのコンテナだし痛さは全然伝わらないし…と、ずっと首を傾げながら見ていた。こんなに見終わって見事に何もメモすることがなかった映画もめずらしい。

Saturday, October 01, 2005

La Vita è bella

悲しい映画だ。本当に悲しい。ものすごく悲しい。こんなにも哀しみがずしんと響く映画も中々ない。邦題はアメリカ版の公開タイトル通りに「ライフ・イズ・ビューティフル」。ナチによるユダヤ人虐殺は第二次世界大戦における戦死者の大きな割合を占める。戦わずしてただ死んで行った彼らひとりひとりすべてにこの哀しみがあったのかと思うと、身の毛のよだつような悲惨さが心の底に渦巻き、それが土台となって家族への愛に一心に向けられていたグイドの明るさが哀しくて仕方がない。舞台は1939年のイタリアで始まる。陽気なグイドが勤めるのは叔父の経営するホテルだが、このホテルの真っ白なセットが素晴らしく美しいのには少し驚いた。うるさいよと言うぐらいぺらぺら喋りまくるグイドを演じるロベルト・ベニーニの本職はコメディアン。しかしその能天気な演技が後半からの展開に繋がっていくから心を掴まれてしまう。ベニーニの実際の妻でもあるニコレッタ・ブラスキ演じるドーラと暮らす家は豊かなイタリアのヴィラそのもので感動するほど美しい。笑いを取りつつ幾つも散りばめられた伏線が見事に物語の中に収束されていく様は見事だが、そこに出現する様々な小さな出来事が単なる枝葉ではなく最終的に物語全体の伏線となっているとは気づかなかった。収容所の残酷さは直接的には描かれない分、言いようもない悲しみに襲われる。ロベルト・ベニーニの大袈裟さが実は愛情の表出であることを、息子に隠れたところでの絶望の表情にベニーニは押し込める。この明暗落差を映画のテーマに置いて演じきったベニーニは本当に素晴らしい。